気づかない片想い




帰宅したオーストリアの外套を受け取って、ハンガリーはふと彼の脱いだ肩口についた糸くずに気がついた。払おうとして手を伸ばす。
「――何です?」
と、オーストリアがさっと身を引いた。
まるで警戒されているような仕草に、ハンガリーの胸が少し痛んだ。
「糸くずがついていますよ」
ここに来て、もう随分時が経った。
彼とは宗主国と従属国の立場で、無論これまでに何も争いがなかったとは言えないが、最近では一緒に休憩の一杯を付き合うこともある仲になっていた。だから、互いの距離を計りながら、それでも少しは気を許してくれていると思っていたのだ。今この瞬間のハンガリーの行動に、オーストリアが警戒するような物騒なことは、まるで考えてもいなかったのに。
「ああ……」
言われて気づいた存在に目を留め、オーストリアの手が簡単にそれを払う。

――やはり最初の印象が、根強く彼の中にあるのかもしれない。
遠い過去に幾度となく殴り飛ばして蹴り上げていた当事の自分を思い出すと、ハンガリーは頭を抱えで蹲りたい気持ちになる。彼のハンガリーへの信頼は、きっとずっと得られないのだ。そう思うと、ハンガリーは胸が締め付けられるような苦しさを感じずにはいられなかった。
「気づきませんでした。ありがとうございます、ハンガリー」
「……い、いいえ!」
しかし、そうかと思えば、あっさりと礼を言って僅かに笑むオーストリアに、過去の遺恨を感じさせる素振りはない。穏やかに見下ろす紫の瞳を見つめ返していたことに気づいて、ハンガリーは慌てて視線を外すとそれだけ言った。
「ところで」
オーストリアはハンガリーの横を通り抜けながら、おもむろに口を開いた。
「あまり今のような行動は感心しません」
「糸くずを取るのが、ですか?」
聞き返すと、オーストリアが片眉を上げてハンガリーを振り返った。
「貴女は女性ですし、みだりに異性に触れようとするのは感心しない、ということです」
語調が嗜めるものに変わっている。
別に彼に触れようとしたわけではなかったのだが、そう取られることが問題なのだろうか。
そういえば、昔誰かに似たようなことを言われた気がする。

ああそうだ、とハンガリーは思い出した。あれは確か、プロイセンとスイスだった。
前者はせっかく人が魔の差した厚意で、戦いから戻った彼の顔についた小さな擦り傷を気にかけた時だ。情けをかけられたとでも思ったのか、真っ赤な顔で飛び退った挙句、
「バ…ッ!何だよ、いきなり近くにくんじゃねーよ!触んなバーカ!」
と叫ばれた。子供の頃だったので血気盛んだったせいか、カッとなって追いかけて、今よりマシになるように顔の形を変えてやったいい思い出になっている。
スイスにも、埃か何かを取ろうとしたのだろうと思う。オーストリア同様、素直に礼を言った後、しかし少し怒ったように
「……顔より上にある時は本人に教えるだけでいいのである。いや、つまりお前の身長的な問題やオーストリアにあらぬ誤解の生じることがあってはならぬのであって……」
とよく分からない説明をして、きょとんとしているハンガリーにため息を吐いてくれた。
もしかしてゲルマン系の特徴なのだろうか。
考え込んでいるハンガリーの沈黙を不満の意と取ったのか、オーストリアがハンガリーの側に歩み寄った。
「何か?」
「あ、いえ、男の人ってそういうことを言う人って多いのかなと――」
「……」
すぐ側で聞こえたオーストリアの声に、驚いて顔を上げる。
と、見下ろされる視線に、一瞬苛立ちが見えた気がして、ハンガリーは言葉を飲み込んだ。

「あの……」
「さあ。他の方のことは知りませんが」
「す、――――すみませんっ」
オーストリアが硬質な空気でもって切る捨てるように言った。
反射的に謝るハンガリーが視線を逸らすより先に、オーストリアが踵を返す。
自分は何か彼を怒らせるようなことを言っただろうか。
素直に「はい」と頷かなかったからかもしれないし、他の何かがより彼の不況を買ってしまったのかもしれない。わかったのは、向けられた背中がハンガリーを拒絶しているということだけだ。
その事実だけで、何故かまた胸がぐっと掴まれたように苦しくなる。
「……すみません」
腕に残るフロックコートをクローゼットに掛けながら、本体のいないそれに呟くと、何故だか鼻の奥がつんと痛みを訴えた。


***


苛立ちの正体が掴めないまま、オーストリアは鍵盤に向かっていた。
ピアニッシモで始める音を、フォルテッシモで弾いたことは覚えている。その後に弾いた曲もすべからく、宮廷よりは盛んなバーで好まれるようなものを選んだ。
指と心の赴くままに弾き乱れ、気分が落ち着いた頃には既に4時を少し前に控えていた。ゆうに3時間以上も弾いていたことになる。さすがに指が弾き疲れてだるさを感じた。一息つこうとリビングへ行けば、丁度ハンガリーがコーヒーと焼き菓子を用意してくれていたところだった。
「あ、オーストリアさん。今、お部屋に伺おうと思っていたんです」
良かったと微笑まれて、オーストリアは不自然にならない程度に視線を逸らした。
「こちらで食べます?それともお部屋にお持ちしましょうか」
「いえ、ここで。貴女もご一緒にいかがですか」
「じゃあお言葉に甘えますね」
笑顔で向かいに腰を下す彼女を待って、オーストリアもコーヒーを飲んだ。
変わらないハンガリーの態度に、数時間前の自分の態度を反省する。
あの時、彼女の言葉を聞いて突如湧き上がった気持ちを、ぶつけてしまった自覚はあった。
オーストリア自身にもわからないあの感情を、突然当てられた彼女はいかに不本意だっただろうか。

「……ありがとうございます」
猛省の意をこめて言った言葉だったが、ハンガリーは別の意味で取ったようだ。
「いえ、こちらこそ。あ、これ前にオーストリアさんに教えていただいたショコラなんですけど、お口に合いますか?」
「美味しいです。……とても」
「良かった」
ふふ、と笑う彼女の柔らかさに、オーストリアの表情も自然と柔らかくなる。
彼女との会話を煩わしいとは思わない。くるくると良く動く表情と、あまり口数の多くない自分を気遣ってか積極的に話かけてくる社交性は好感を持っていた。
「そういえば、今日は随分激しい曲が多かったですね」
しばらく当たり障りのない談話をしていると、思い出したようにハンガリーが言った。
「――たまには。ああいった選曲ではあまり女性から良い評価を頂けていないのですが、貴女もお気に召しませんでしたか?」
口調に揶揄するようなところは見当たらなかったので、選曲への苦情ではないと思いながらも聞いてみる。宮廷でワルツを優雅に楽しめる類の曲ではなかった。上司である貴婦人達からのリクエスト外で稀に弾く程度では、激しい音階が上下するメロディラインに、実際手放しの賞賛はないに等しいものだ。しかしハンガリーには、どちらかというと好まれそうな選曲な気がする。
「……」
軽くふった話題に、しかしハンガリーからの返事には大分間があった。
「…………私は……」
俯くハンガリーの表情が見えない。
「ハンガリー? どうか――」
「私は、嫌いじゃありませんでした」
そう言って困ったように笑った彼女が、今にも泣き出しそうに見えて、オーストリアは思わず身を乗り出した。彼女の頬に手を伸ばす。

「――――っ」
触れるか触れないかといったところで、ハンガリーが驚いたように小さく身を竦めた。
喉の奥の悲鳴に気づいて、我に返る。
「すみません」
拒絶されたのだ、と理解した指先がひどく冷え込む。
我ながら驚くほど呆然とした声で勝手に謝罪が口をついて出た。
「い、いえ…。あの私、そろそろ夕食の支度をしてきますね!」
その場から逃げるようにハンガリーが席を立つ。
「よろしくお願いします」
それを間の抜けた言葉で送る。ドアを出る彼女の背中を見送って、オーストリアは小さく息をついた。
「女性に気やすく触れようなどと」
彼女の立場を考えればこそ、なおさらだ。
そこにつけ込むとんだ不作法者と思われたに違いない。
すみません、とオーストリアが謝罪したことに驚いて、それからすぐに目を伏せたハンガリーの顔が浮かぶ。あんな顔を彼女にさせたかったわけではないのに。触れることを拒まれた右手を、オーストリアは無意識に固く握り締めた。



END


お互いがお互いを意識しすぎて、空回りの時代捏造。でもお貴族はもっとガンガン攻めていたと信じて疑わないw
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