浸る夜




夜更け、廊下で微かに何かをすする様な音が聞こえた気がして、オーストリアはペンを止めた。ガウンを羽織って部屋を出る。
音は、先日この屋敷に来たばかりのイタリアの部屋から聞こえてくるようだ。
ドアの前まで行き、ノックをしようと拳を握る。が、中から聞こえてきた音に、オーストリアは動きを止めた。押し殺したイタリアのすすり泣きに加えて、優しく包み込むように語りかける女性の声がする。

「……ね。だから大丈夫よ、イタちゃん」
「…うっく……はい、ありがとうございます、ハンガリーさん」
「いいこいいこ」
「ヴェー」

姉のように。母のように。
オーストリアには出来ない方法で、ハンガリーが優しくイタリアを落ち着かせていた。どうやらここに、自分が出る必要はないらしい。
オーストリアは握っていた拳を解放して踵を返すと、音楽室へと足を向けた。
夜の静寂がひっそりと辺りを包む中、窓から差し込む柔らかい月明かりを受けて、溶けるように音を奏でる。

低く、高く。
耳に響かず、心にそっと積もるように。
最後の一音が蒼い闇に落ちたとき、座るオーストリアの横にいつの間にか静かにもたれていたハンガリーが、ゆっくりと声をかけた。

「シューマンですね」
「kinderszenen Op.15より第七曲――」
「トロイメライ。子守唄、ですよね」
くすくすと笑うハンガリーの振動が、心地良い。
鍵盤をなぞっていた指を、肩にかかるハンガリーの長い髪に絡ませながら、オーストリアは聞いた。
「イタリアは?」
「眠りました」
「……昔の貴女を思い出しました」
目を瞑ると瞼に浮かぶ、まだ肩で揺れるほどだった髪の少女を思い出して、オーストリアは伸びた髪に唇を寄せた。

「私? ……そんなに泣いてませんよ?」
くすぐったそうに言うハンガリーの指先を取って、そこにもキスを落とす。
「ええ。イタリアほどはね」
「もうっ」
照れ隠しにつんとむくれたハンガリーに忍び笑いを漏らしながら、オーストリアは彼女のために弾いたいくつもの夜想曲を記憶の中でゆっくりと奏でる。

「一人でちゃんと眠れるようになりました」
月日が経った。
こうして隣に座るのは、今日のイタリアのようにひっそりと涙を殺す、あの幼い少女ではない。
「じゃあ、おやすみなさい。オーストリアさん」
「はい、おやすみなさい」
勝気だけれど寂しがりやで、ベッドの隙間からこっそりオーストリアの袖口を引く子供ではないのだ。
なくなった隣の重みと温もりに、オーストリアは完全にすり抜ける寸前の、ハンガリーの後ろ髪を軽く引いた。

「ハンガリー」
驚いてまた椅子に腰を下ろしたハンガリーの髪を、後ろからさらに引く。
「――きゃっ」
「今夜――」
小さな悲鳴がイタリアの部屋まで届くわけはないと知りながら、オーストリアは後ろから優しくハンガリーの唇を覆った。
「一緒に眠りませんか?」
「……イタちゃん、一人で眠れましたよ?」
「いいこですね」

首筋に唇を寄せて、真面目な声でそう囁く。
それにハンガリーはおかしそうにくすくすと笑いながら、ゆっくりとオーストリアに背中を預けた。



END


Kinderszenen Op.15は「子供の情景 作品15」です。眠くなります。安眠。シューベルトとかショパンでもいいかなと思ったんですが、個人的にこっちの方がゆったりしてて好きなので。
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