いつかくる日を。



「何?牛丼睨みつけて。牛と何かあった?」

ほうっと無意識に吐いて出た溜息に、向かいで箸を動かしていたはずの鳩子から声が掛かった。
見られていたとは思わずに、思考を慌てて前に戻す。

「牛と何があるっていうのよ。……じゃなくて」
「うん?」

続きを促しつつも、自分の口へと運ぶのを忘れない鳩子の動きを見やりながら、あたしも一口ぱくりと食べる。美味しい。けど少し寂しい。

「哲生と食べたかったなって」
「悪かったわね。私とで」

けっとわざとらしいくらい剣呑な視線で睨まれて笑う。
それから最近のギャラリーの盛況ぶりや、画廊の作品について言葉少なに楽しみながら、今頃絵に没頭しているかもしれない彼の真剣な眼差しを脳裏に描いて、そうであればいいと思った。
あたしを忘れて、彼の持つ慄然とした孤独の中で、もがいて足掻いて見つけた先の世界を手繰り寄せて。
「見ていて」と言った彼は、確かに何かの手応えを掴み掛けていたのだと思う。
それが急にすり抜けてしまった原因は推測することしかできないけれど。
もしも哲生の見たい世界を、全て見せてあげることが出来るなら、あたしは何だって差し出したいとさえ思ってしまう。

「……」
「どしたの」
「んーん。鳩子大好き」
「しらじらしー」

そうだ。だから忘れられても大丈夫。
あたしにはふらっと誘って、牛丼を一緒に食べてくれる友人がいるから。
だから――。

「……たまに美味しいわよね」
「牛丼?」
「うん」
「次はランチで、パン希望」
「ふふ。そぉね」

もうほとんど食べ終わっている鳩子のリクエストに、浮かぶお店はいくつかある。
たまに二人で入るフレンチレストランは、ランチセットのメインに合わせた香草のパンが味わえてお気に入りだった。

「パンもいいわよね」

そう言って、この前行った時に、パンはときめき対象でないと冷たい眼差しを向けられたことまで思い出して表情が緩んだ。そのまま笑うつもりが、あの日と今との気持ちの違いに、笑みが中途半端な形で消えてしまったのを自覚する。
――正直言えば、芸術家はわからない。
あたしの知る限り、彼らは勝手で、そのくせ己に対しては驚くほど厳格で繊細。その相反する我儘な自我を以って才能を揮う。そうして生み出される心の叫びは、いつも誰かを惹き付けてやまない。
けれど、だからこそと言うべきか、そこに意図して入る隙間なんかこれっぽっちも見せてはくれないのだ。
例えばあたしがパンひとつで彼に想いを馳せたように――。
――哲生には、そんなことはきっとない。

そこまで考えて、ふと自分の思考が迷走を極めつつあることに気づいてしまった。
いつの間にか落ちていたらしい視界を持ち上げると、いつからだろう。正面からじっと見ていたような鳩子と目が合った。

「晶」
「……うん?」

名前を呼ばれて身構える。
出来るだけ何ともなさを装って首を傾げる。

「今度一緒に食べればいいじゃない」
「――うん」

誰と、という名前を省いた簡潔な提案の隙を突いて、牛の塊を奪われてしまった。
にやりと笑った鳩子に、あたしはようやく微笑できた。

そうだ。今度。
彼の制作が一息ついたら――ううん、ちゃんと終わったら。
向日葵を描きたいと、いつになく前を向いた彼の見ている世界を邪魔しないように。
夏が終わる頃にはきっと。

「……」

そう思って、けれども何故か哲生と約束を交わす言葉が思いつけない自分に気がついた。
どうしてこんな単純な約束に二の足を踏んでしまうのか。
海に行こうと哲生は言った。今度は夏の海に、と。
でも、夏入り前に行ってしまった海は少し冷たくて。
だからだろうか。

(違うわ)

考えて、あたしは不意に理解した。
だってこれは、たぶん約束じゃないからだ。
今度。制作。夏の終わり。
形の無い、漠然とした夏の予感がここにある。

だからこれは、きっと祈りに似てる――。

「晶?」

けれども、予感を明確な言葉にするには少しだけ時間が欲しくて、あたしは答えを締め出した。
器に残っていた最後の一口をきれいに平らげ、セルフのお冷を一気に飲み干す。
次を注いで、鳩子のグラスにも向ければ、しばらく物言わぬまま見つめていた彼女が、

「……。振られる前に振っちゃえば」

咽喉を潤す前にそう言った。
その言葉は、いい歳をした女の勘か。それとも長年の友情ゆえか。

「なぁにそれ。振られませんー」
「弄ばれるよりも弄んで、若い男の心に悪女として住み着くってのも悪かないわよきっと」
「あなたはどれだけ私を妖怪や悪女にしたいの」
「まあまあ。一般論よ」

軽口の応酬で軽くなった雰囲気に推され、そうね、と呟く。

「――うん、そうね。悪くないわよね」
「私はイヤだけどね」
「ちょっと」

勧めておいて否定って。
鳩子らしい気の回し方に一瞬二人で視線を眇めて、それからぷっと肩を揺らす。

――哲生、もうご飯食べたかな。

そんなことを考えながら友人の遠慮の無い揶揄にむくれてみせたりして。
笑いながら、あの日見たスケッチブックの端に記された哲生の心が、湯気の中にちらついている。
ゆらゆらと初夏に遠い海の底で揺らぐようなこの感情は、後悔なのか、不安なのか。
そう遠くない日に訪れる季節で、形にならずにいつか知らず霧散してしまえばいいと願った。




「夏の前日」の晶さんが、んもうかんわいくてかわいくて仕方ないです。はぁはぁ。牛丼のシーン可愛かった。はぁはぁ。
青木君めwww


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