喩え千年過ぎようと




ジリリ、ジリリ、と廊下に響く電話の音は、まるで止む気配を見せない。
10コール鳴らして出ないなら諦めて頂けると大変有難いのに、と思いながら、日本は這うようにして廊下に出た。セールス熱心な企業戦士からの電話なら魔法の言葉「結構です」で相対しよう。そう思いながら黒い受話器を持ち上げる。適度な抵抗でついてくる巻かれた電話線が今の右手には少々重たい。

「はい、もしも」
「ニホーン、元気あるか? 何してたある?」

お決まりの言葉を途中で遮って聞こえてきたのは、かつて眠れる獅子とまで謳われ、眠りから覚めない内に身体を西洋の大国に切り売りされ、最近では戻った身体以上の身体を主張し始めて微妙な感じに目覚めようとしているらしい彼の国の声だった。
企業戦士より相手が悪い。

「……よ」
「ん? 聞こえねーある」

いつもならそれでも何だかんだと近況を話し、この時期ならちょうど夏のお中元ギフトの希望やら、互いの上司の四方山話をするところだが、如何せん今日は非常にタイミングが悪かった。

「……から、……すよ、と」
「だから聞こえねーある。お前はもっと精のつくもの食って、しっかり腹から声出すよろし」

さらりと兄貴風を吹かせる中国の言葉は、純粋な厚意だとわかっている。わかってはいるが、今は本当にタイミングが悪い。
日本は受話器に向かって一つ大きく息を吸い込み――

「――ですから! 我が国最大夏の巨大経済活動! 又の名を夏の聖戦! その火蓋がもう、もう……! 今週末に迫っているんです! だというのに締切がヤバイ! デッドラインは明日の朝! 元気か? 元気じゃなてくてもやるんです! 点滴栄養補助食品、アドレナリンにドーパミン! 全てを人為的に駆使してでもやらなければならないのです! 元気は作れるイエス・ウィー・キャン! 日本語でなら『はい!でき!ます!』。今何をしているのか? 毎年一日前後の振れ幅しかないのですから、そろそろお察し頂けませんか。原稿です。原稿ですとも! この白さが本当に憎い! けれどもやらねばならぬそれが我が国日本の夏!」
「……お前は二次元じゃなくて脳ミソに栄養とらせるべきある」

さすがはお隣さんということか。
正式名称はどこにも出していないというのに、的確な忠告をくれた中国に、日本は重たい受話器を耳と肩の間に挟むと、ポンと軽く両手を打った。

「キャラ×自分ですか。正直ドリームは私の個人サークルの趣旨に反しますので、恐れ入りますすみません」
「誰がお前のサークルの話してるある。んなもん興味ねーある」

だがどうやら微妙に違ったようだ。なら一体この忙しい時期に、中国は何のつもりで電話を寄越してきたのだろうか。
興味がないと断言されて、珍しく僅かに眉間を寄せながら日本は受話器を抱え直した。

「はい? では何なんです? さぎょイプのお誘いということでしたらこちらの黒電話では出来ませんので、改めてSkypeへ申請してくださらないと――」
「七十年近く申請拒否してくるお前の回答とは思えねーあるな」

正論だ。だが、安易に許可を出そうものなら、時差のそう変わらない彼の事だ。何くれと発信してくることが多いのではと懸念して、そういえば許可はずっと保留のままにしてあった。
申し訳ないと思いこそすれ、自身のネット環境を考えるとどうしたって致し方ない。最近はイベントが目白押しで、毎月毎週のように印刷所の締切がある。加えてツイッターもTLを追う時間が欲しいし、スマホは各関係でLINEが繋がっている。諸事由の連絡から励まし合い、イベント合わせの打合せ。そうそうご新規様とゆっくりSNSを繋げる時間が取れないのが現状だ。
それに。と日本は考える。そんなものの何も発展していなかった時代から、こうしてやり取りの出来る間柄というのは、これでなかなか有意義なものだと言えるのではないか。それでも。

「……七十年近く申請し続けてくれる中国さんがおかしいんですよ」
「あ? 何か言ったあるか? 聞こえねーある」
「この耄碌じじい」
「うっせーある! お前も大概耄碌爺ある! 童貞オタクが何目上の我に失礼な事言ってるあるか!」
「聞こえてるんじゃありませんか! 童貞オタクはステータス! もおお、この忙しい時に切りますよ!?」

呟きを拾われた羞恥心とオタクという単語にやるべきことを思い出した日本は、そう言って受話器を置こうとして、離し掛けた回線の向こうから慌てた中国の制止を聞いた。

「あああ、待つある待つある! 今日はお前に見せたいものがあって電話してやったある」
「見せたいもの?」
「そう。前に我の家来た時、日本、今度は長江に行ってみたい言ってたあるね。今日は生憎の曇り空で――日本は雨雲あるな。でも明日とても良い天気ね。夕陽が落ちるところすごく綺麗ある。船乗らせてやるから見に来るよろし」
「ああ……それは是非一度お伺いさせて頂きたいですね……いえでも今はちょっと――」

語られた情景が見えるようで、日本はほぅと息を吐いて目を閉じた。それでも今は原稿が先だ。心を鬼にして誘惑を断ち切ろうと努力した日本に、中国の更なる誘い文句が耳に届く。

「ものすごく綺麗よー! 夕陽が如意宝珠のよう! 心洗われること間違いナシね! 日本、お前少し汚れた心洗うよろし」
「……お心遣い恐れ入ります。しかし今は汚れこそ全ての聖戦中ですので、申し訳ありませんが、先に中国さんが頭の先から爪の先まで洗われてきて頂いてよろしいですか?」
「何言ってるあるか。一緒に見たいならそう言うよろし。まったく、日本はいくつになっても素直じゃねーある〜」
「通じてくれない! ポジティブKY!……いえ、あの、中国さん? 本当に私今原稿ギリギリでして、誠に恐れ入りますが正直一分一秒が惜しくてですね」

その時だった。
来客を知らせるチャイムの音が室内に響いた。ピンポンと昔ながらの硬質な音が静かな家屋に反響して、日本は慌てて玄関のある方を向いた。

「すみません、お客様がいらしたよ、う――」
「ニーハオ! そう言うと思って、我がわざわざ迎えに来てやったあるー!」
「ち、中国さん!?」

鍵を掛けていないのは昼間だからで、治安の良い国の田舎ではよくあることだ。けれども隣国であっても隣人ではない中国が、何の躊躇いもなく横開きの玄関ドアを開けて入ってくるのを目の当たりに、日本は思わず受話器に向かって大きな声を出してしまった。
自分はさっさと通話を切っていたらしい中国は、にこにこと笑みを浮かべて、当然とばかりに日本に向かって片手を上げる。

「仕方ねーからベタと背景くらい手伝ってやるある。さっさと済ませて明日の長江ツアー楽しむある!」

来るなら来るでせめてそうと連絡を――そう言い掛けていた日本は、中国の申し出に全てを飲み込み、がっしりとその両手を掴んでいた。

「ああああ、人物は任せたくありませんし、勝手に人のモノを何でもものすごく低クオリティどや顔でパクるくせに、ベタと背景は昔から緻密で繊細な中国さん! 何てお優しい中国さん!」
「慇懃無礼に我をdisるのやめるある。もう面倒臭いからいっそ日本、我の家になればいいある。ほらここにサイン。拇印でもいいある」
「ドサクサに紛れて領土侵犯しないでいただけますか」

背中に背負ったリュックから中国が取り出した紙は軽く流して、手を取り作業部屋へと連れ立って歩く。いつも通す居間を抜けて奥の部屋へ。

「――さあ、そんなことはどうでもいいですから、まずは中国さん、今はこれです! こことここと、それからここと、あとこっちのそれ、定規はここで水平線お願いします」

その間も「少し痩せたある」「シナティちゃんグッズ持ってきてやったある」等と離し掛けていた中国が、渡された原稿に目を落として言葉を止める。
それから信じられないといった目で日本に向かって口を開いた。

「お前――……これほとんど白じゃねーあるか! 無理ある! 今夏は諦めるある!」
「年に一度の夏の祭典! 諦められるわけないじゃないですか! 口はいいから手だけ動かす!」
「日本鬼子ーーー!!!」

普段のおっとりとした立ち居振る舞いからは考えられない素早さで机に向かった日本の背中は、汚れに強い学校ジャージだ。
修羅場モードで上着は腰に巻いたままだが、白さを保った指定のシャツに、中国の悲痛な叫びは無情にも吸い込まれていったのだった。



――翌朝。



色白の肌が目の下の隈をはっきりと捉え、しかしそれでも昨日より生気を取り戻したかに見える日本は、震える手でカーテンを開けた。
デスクトップパソコンの画面には上部にメンバーページのログイン状態を知らせる表示と、真ん中に箱を持った猫のようなキャラクターが描かれている。その猫が同じリズムでぺこりと頭を下げる上に『送信しました』という文字がはっきりと記されていた。

「入稿……間に合いました……!」
「……我、もう無理、ある」

一息に開けたカーテンの向こうは、昨日まで重く立ち込めていた雨雲が薄墨を刷いた空に取って代わり、午後からの快晴を予想させる青空が、雲の切れ間から陽光とともに地上に降り注いでいた。

「ありがとうございます。これもすべて中国さんのお蔭です。ああ、朝日がとても美しい……!」
「その雲にいますぐ切れ間を埋めて日光遮るように命令するある。朝日が辛い……」

うっすらと瞼を持ち上げた中国は、言ってすぐにぱたりと机に伏せてしまった。昨日あれほど意気揚々と他人の家に上がってきた人物と同じにはまるで見えない憔悴ぶりだ。
対して、頬は若干やつれているが、遣り遂げた満足感に青白い肌を昂揚させている日本は振り返ると、力の入りきらない身体でそっと中国の背中に触れた。

「そんな事を言わずに。さあ中国さん、何の憂いもない新しい一日の始まりですよ」
「何無理矢理上手いことまとめようとして、る、……ある……」

まるでダイイングメッセージのような呟きを途切れ途切れに残した中国から力が抜けた。その手から一度も離さなかったペンタブが、初めて床に零れ落ちる。
今日は日没に間に合うように長江ツアーに行くのではないのか。船に乗って、雄大な景色を聖典の前に楽しむのでは――だが今はどうしたって仕方ない。終わったのだ。一つの大戦が終局を迎えた。
頭のどこか片隅で昨日聞いた景色を思い浮かべながら、日本は腰に結んでいたジャージの上着を解くと、ぴくりともしない中国の背にそっと掛けた。

少し休もう。戦士たちの休息だ。それくらいなら許される。
この終わるともしれない大戦を、我々は一つ乗り越えたというのだから。

そうして起きたら彼の好きな日本食を腕に縒りをかけて作り、それから彼の国に向かえばいい。
日本は机に置いたスマートホンに手を伸ばした。アプリを呼び出しながら、寝入った中国の背中を見つめる。
ありがとうございます、そう言ったはずの言葉は音にはならず、中国の足元に蹲るように、日本もゆっくりと高揚していた意識を沈めていったのだった。

――目覚ましアプリを呼び出しただけの、スマホをその手に握りしめて。

END



多分長江ツアーは行けなかったパターン。
ツイッタ【文字書きの為の言葉パレット3】14番「水平線」「切れ間」「始まり」でいただいたヘタリアで日中のリクによるSSでした。
初めて書きました日中ー!BLではなくということでしたので、オタク属性丸出しの日本と、何だかんだで付き合う兄貴分中国さんです。長江の夕日は、調べていた写真の夕日がものっすごく綺麗だったのでこれすごー!となった結果。水平線が水平に引かれる線(辞書解説的に三番目くらいのやつ)になったのは、長江は川で海じゃないじゃん!水平線使えないじゃんバカー!(つ∀;)!となった結果です。
この美しい三つの言葉パレットからこれ書いた自分本当にな…!orz!

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