昨夜のことを思い出したら、本日もう何度目かしれない溜息が零れた。 目の前の黒髪の上官はそれにピクリと反応したが、その後苛立たしげに睨み付ける。 カワイイ部下の悩んでる姿睨みつけるってどうよ?と思ったけど、そんなこと口にはしない。 この小さい(俺よりって意味で)我らがご主人様に消し炭にされたくないし、 そもそも俺はお利口で従順なお犬様なのだ。 犬と狗とイヌ 「何なんだ、その辛気臭い顔は」 「辛気臭い……」 業務終了間際に漸く口にされた溜息への反応がこれだ。 原因だって知ってるくせに、てかアンタが元凶だってのに、もう少しマシな言い方はないものか。 恨めしげな視線をやると、何だその目はと怒られた。 いっそのこと別の主人でも探そうかという気にさえなる。 「辛気臭いだろう。ただでさえ中尉がいない司令部は華やかさが著しく減退しているというのに、補佐官のお前が日がな一日そんな顔で側にいてみろ。むさ苦しくてかなわん」 ああ、それは一理ある。 言われて俺の上官であり同僚でもあるもう一人の金色の犬を思い浮かべた。 彼女は今日は遅番だ。 だからこうして俺が本日のお目付け役を仰せつかっているわけだが、まあ執務室で男と二人仕事にいそしむってのは、確かに華やかさはないわな。 「心配してるのか、貶してるのか、どっちなんスか大佐」 文句を言いつつ、でもそろそろやって来るであろう彼女に怒られないように、終えた書類をまとめ始めた。そういえば大佐も今日は比較的真面目に書類整理をこなしていた。 彼女のいない司令部でいつものように大佐がサボれば、せいぜい汗臭い野郎どもに追い掛けられるのが関の山。 それは御免被りたいんだろう。 それよりも真面目に終えた書類の山に、やってきた中尉が「ご苦労様でした」と言ってくれる方に賭けたい気持ちも分からないでもない。まあ彼女は言わないとは思うけど。 俺としては気高い金の犬が冷たい銀の鉛弾をぶっ放す方がずっとぞくぞくくるんスけどね。 たぶんそれはこのご主人様も同感だろう。 「ああ、なんか大佐に女のこと心配されるのって切ないっスね」 「失礼なやつだな」 最後の一枚にサインを終えて、憮然とした表情でこちらを見る。 「来るもの拒まず、は仕方あるまい」 あーもう、いつもこうなんだよな。 全く悪びれない大佐を見てると怒りより情けなくなってくる。世の女性は本当見る目がない。 俺の女関係は直接間接を問わず、全てこの上官絡みで終わっているようなものだ。 にもかかわらずその原因に気をかけられるのは、悔しいというか何というか。 女運が悪いっていうより、これは絶対上官運が悪いんだと思う。 「俺イイ男なのに」 そうだよ、俺イイ男だよ! だか余計虚しくなってくる気もするが、自分で自分を励ましてみる。 顔だって悪くないし、何より黒髪のご主人様より誠実だというポイントは高い。 「おめでたい頭だな、ハボック。いい男とは私のような男のことを言うのではないかね」 さも当然だといわんばかりの口ぶりに、俺ははあからさまに眉を顰めた。 うっわ。人の女取った挙句に言うことはそれか。 なんか無性に殺意芽生えたぞ、今。 飼主噛んだらヤバイかな、ヤバイよな。抑えろ、俺。答えるな! 「金髪碧眼なんてイイ男の二大条件満たしてるし」 「金髪碧眼は単なる象徴。いわば観賞用だろう。 だが現実に女性が選ぶのは、私のように誠実なだな」 誠実が聞いて呆れる。……いやいや、無視するって決めたんだった。 「背も高い!三大条件クリアー!!」 「…………うどの大木が」 「ひでぇっ!!」 「何でそこだけ聞いてるんだお前は!?」 私が悪いみたいじゃないかと舌打ちする上官に、みたいじゃなくて悪いんだろうがと、机に突っ伏して内心毒づいた。 うどの大木って、そりゃないっスよ大佐。 くそう、仕事ももう終わってんだから早く帰れ。 いつもみたいにデートでもどこでも行けばいいのに……そう思ってふと疑問を覚えた。 お互い今日の仕事は既に片がついているのに、大佐がいつまでもここにいるのは何故だ? 何かメリットでもあったか? 俺を気にかけてるってのは考えなくてもない。それだけは絶対にない。 いつもならとっくに見捨てて帰る大佐が、今日に限ってやたら俺をかまう理由―― ――ああ、そうか。 思い当たってささやかな反撃を試みた。 「俺イイ男なのに」 「まだ言うかお前は」 「中尉はカッコいいって言ってくれたんスけどね」 「……何?」 あ、声のトーン下がった。 ビンゴ! そろそろ遅出の中尉がやってくる頃。 俺をこのまま放っておけば、この後入れ替わりに勤務につく金色の犬が、俺を気にかけるのは必至だもんな。 犬同士のささいな慰めもだめっスか。 「いつ!どこで!」 「昨日。部屋で。『ジャンはカッコ良いわよ』って」 即答で答えてやると、思い切り眉を顰めて不機嫌なツラだ。 それに苛立たしさもプラスして、目つきの剣呑さも1.5割増しだ。 ついでに頭も撫でてくれました、と悪びれずに言えば、大佐の口が嫌な形に歪んだ。優雅な動作でコートを着込むと、ポケットから見慣れた白い物を取り出し、やはり優雅に手を入れる。 「ってうわっ!ちょっ!大佐!タンマッ!!」 やべ、ちょっと言い過ぎた? 慌てて飛び起きるが、髪の毛の先がちりっと香ばしいかおりを放つ。 元々頭のあった場所には、衝撃で落としてしまった俺の残り少ない煙草が、無残な姿になっていた。 「黙れ。発火布の尊い練習台になれ」 「使いきりじゃないっスか!?」 「花も終わりがあるからこそ美しいとは思わんかね」 「思いません!てか俺花じゃないし!!」 「ああ動くな、ハボック少尉。余計なところまでうっかり燃やしてしまうかもしれん」 「ぎゃあああっ!!」 自慢の金髪が所々香ばしいかおりを放っている事実に、悲鳴をあげて逃げ惑う。 ――目が笑ってねぇ…っ! 本気ではないと信じつつも、涙目になりそうだ。 あーこりゃ早いとこ本当のこと言わないとマジで消し炭にされかねませんか? ――――と。 「……何をやっているんですか」 聞きなれた声音とともに、壁際まで追い詰められた俺の横から金色の犬が現れた。 「あああ、中尉!助けてくださいっ!!」 「やぁ、ホークアイ中尉じゃないか」 「大佐、室内で無闇に火を出さないで下さい。……ハボック少尉の頭に多少焦げ跡が見られますが」 突如現れた救いの女神に、男としてどうよなんて考える間もなく、収まりきるはずのない体を無理矢理縮みこませ、彼女の背中に張りついた。これで一応炭化する可能性はかなり減る。 すると中尉はおもむろに後ろを振り返り、少し背伸びをして俺の頭に手をやった。 そして焦げた部分を優しく撫でさしてくる。 「――なっ!」 その様子に思わず大佐が絶句した。 「……中尉、俺まだ死にたくないんでもういいっス」 「何言ってるの」 単に焦げた部分をを払ってくれてるだけなんだろうけど、分からないと小首を傾げる彼女の向こうで、不機嫌全開な上司の顔を真正面から目にしている俺は生きた心地が全然しない。 流石にこれ以上は冗談ではすまなさそうなので、俺の方から体を離した。 ちょっと惜しかったんだけどなぁ。 「……君、ハボック少尉に甘すぎないかね」 「そんなことありませんよ」 そうそう、全然そんなことないです。 彼女の目に映っているのは、自分と同じ従順で金色の大型犬が、暴君なご主人様から無体な折檻を受けて震えている可哀相な現場なんです。 しかもこの犬がご主人様の所為で彼女に振られちゃったことまで、彼女はちゃんと知ってるんです。 それで慰めてくれたのが昨日の昼で。 ていうかわざと甘えてみたんだけど。 まさかイイコイイコのオプションまであるとは予想外。 ――ああ、もしかしてちょっとは甘いのかも、と内心ほくそ笑んでみる。 「君が金髪碧眼男が好みだとは知らなかったよ」 「ブルネットも好きですが」 「…………」 あまりにサラリと返された言葉に、さすがに大佐が面食らっている。 おおすげぇ。 中尉の台詞に思わず口笛を吹きそうになって、俺は慌てて口を閉ざした。 「くだらないこと言ってないで、お帰りになられたらいかがですか大佐。少尉、あなたも」 「うっス。お疲れ様です」 「覚えてろよ、ハボック」 いや、絶対忘れます。 ここぞとばかりにドアをすり抜けて、背中にかかった大佐の台詞は無視をする。 ドアを閉める瞬間、金色の犬の冷たい声音。 ご主人様の拗ねたような不機嫌な声音。 これは絶対聞くな、中尉にさっきの話。 ――昨日。部屋で。『ジャンはカッコ良いわよ』って 昨日の昼に、例によって主の抜け出した執務室で、だから元気出してと優しく言われたことを。 あの横暴なご主人様に教えてやるつもりはさらさらないけれど。 俺よりずっと従順で聞き分けの良い金色の犬は、銀の牙を剥きつつも、最後には絶対その頬を舐めてやるんだろうな。 ――それこそ甘すぎやしませんか? |