大きな金色の犬が一匹。
傍目で見ても尻尾が垂れているのが分かる、というぐらい淀んだ空気を纏ってそこにいる。

――何なんだ一体……

敢えて構ってやるつもりのないロイだったが、流石に同じ部屋にそんな犬がずっといては気にかかるというものだ。
ただボケラッとしているだけなら「邪魔」の一言で追い出すことも可能なわけだが、どうしたものか。
微妙に打ちひしがれた表情のそれをあまり邪険に扱うと、いつもう一匹の金色の犬に泣きつかれるか分かったもんじゃないというところが、何とも厄介だ。


 犬ととイヌ

カリカリと比較的真面目に書類処理を進めていた。今日は通常業務のはかどりが良い。
この分だと定時には上がれそうだ。
ロイは時計に目をやって、フと息をついた。
それにしても長いこと書類と睨めっこしていた所為で少し疲労を感じる。

いつもなら何だかんだと抜け出して適度にリフレッシュしているのだが、今日はお目付け役のリザが遅番のため、そんなお遊びをする気にならなかっただけだ。
冷たい視線と銃口が待っている楽しいお遊びは、女性相手だからリフレッシュになるのであって、今日のように追いかけてくるであろう対象物が汗臭い野郎だけだと知っているなら、むしろそれは拷問だとロイは考えている。

だからといって日勤のロイが遅番のリザが出勤してくるまでサボり倒すわけにもいかない。 
それこそお遊びの範疇を超えた愛しい鉛弾が体にフレッシュな空気を運んでくれること請け合いだ。
いくらロイでもrefresh(回復)を求めての逃亡劇の挙句、単なるflesh(肉)になりたくはない。
ただでさえ今日は男臭の中にいるのだ。 終わりぐらいは「ご苦労様です」とfresh(新鮮)な笑顔を頂きたいものだ。

「………………」


なのに何なんだ一体。
ロイは無言でリザの代わりに本日のお目付け役になっている大きな金色の犬に目をやった。
書類整理が遅いわけではない。 自分の仕事の補佐も手際が悪いわけではない。
ただ虚ろな表情で陰気な空気を放出し続けているだけだ。
 
被害がないといえばないのだが、朝からずっとこの調子の金色の犬は、この司令部内でもかなり図体がデカイため、やたらと視界にちらついてくれる。
こんなことで仕事の能率に影響は出ないロイだったが、気にならないといえば嘘になる。
そろそろ自分の仕事は目処がついた。


「……ハボック。一体どうしたというんだ、その辛気臭い顔は」
「辛気臭い……」

朝からずっと抱いていた感想を素直に告げると、ハボックはぼそりと反復した。
 
「辛気臭いだろう。ただでさえ中尉がいない司令部は華やかさが著しく減退しているというのに、補佐官のお前が日がな一日そんな顔で側にいてみろ。むさ苦しくてかなわん」
「心配してるのか貶してるのか、どっちなんスか大佐」

恨めしそうな視線を投げるハボックに「さあな」と言って、ロイは終了済みの書類をまとめる。
また女にでも振られたのか?とふってみた。

「ああ、なんか大佐に女のこと心配されるのって切ないっスね」
「失礼なやつだな」

ハボックの女性関係は、直接間接を問わずほぼロイ絡みで終わっているようなものだ。
にもかかわらずその原因に気をかけられるのは、悔しいというか何というか。
本来であれば嫌な男の代名詞にもなるであろうロイだが、悲しいかな、ハボックはこの不遜な態度で接する上司に悪い意味で慣らされすぎていた。

「大体!なんでいつもいつも大佐ばっかり女性とうまくいくんスかね」
「何なんだお前は…そんなの日ごろの行いがいいからに決まっているだろう」

さも当然だといわんばかりの口ぶりに、ハボックはあからさまに眉を顰めた。
それに不機嫌な声で応対する。

「なんだその顔は」
「絶対騙されてる……」
「人聞きの悪いことを言うな」

なおもブツブツ机にのの字を書いているハボックを横目に、ロイは業務の整理を始めた。
そろそろ午後の出勤者がやってくる頃だろう。
とりあえずハボックの纏う不快なオーラは、やはり女性関係の破綻によるものなのだと合点がいったところで、ロイの興味はほぼ完全に失せていた。

しかし騙されてるとは人聞きの悪い。
ロイはインク壺に蓋をしながら、今やいじけ虫と化しているハボックのヒヨコ頭を睨みつけた。
女性が私を選ぶのだから仕方ないではないか、といじけた頭に投げかける。
すると突然ヒヨコ頭が起き上がり、机に勢い良く手をついて立ち上がった。

「俺、いい男だと思うんスよ!」
「おめでたい頭だな、ハボック少尉。いい男とは例えば私のような男のことを言うのではないかね」
「ていうか!ルックスはそんな悪くないし!」
「聞きたまえ。だから私のようなだな」
「なんといっても金髪碧眼!いい男の二大条件!」
「お前は……金髪碧眼は単なる象徴。いわば観賞用だろう。
 だが現実に女性が選ぶのは、私のように誠実なだな」
「背も高い!三大条件クリアー!!」
「…………うどの大木が」
「ひでぇっ!!」
「何でそこだけ聞いてるんだお前は!?」

もう何を言っても聞くまいとあきらめたロイの台詞に、ハボックは非難の声をあげると再び机に突っ伏してしまった。
――これでは私がいじめているみたいではないか!
散々一人でまくし立てた挙句、変なとこだけ耳聡く聞きつけ勝手に落ち込む金色の犬を、さてどうしたものかと思案する。

ロイとしては、このまま放って帰ったとしても一向に構わない。
むしろ普段なら確実にそうしたであろうが、今日だけはどうあってもこの状態で放っておくことは出来ないのだ。そうすればこの無作法な金色の犬は、この後入れ替わりに勤務につくであろうもう一匹の金色の犬に泣きつくのが目に見えているのだから。

ここにいる巨大な犬とは違い非常に優秀なその犬は、間違いなく仲間の犬をかまってやるだろう。
それだけは絶対に阻止しなくては。
――……ヤケ酒くらい飲ましてやるか。
何が悲しくて勤務時間後に男と二人酒盛りをしなければならないのか、とは思ったが背に腹はかえられない。

「おい、ハボ」
「中尉はカッコいいって言ってくれたのになぁ…」
「……何?」

言いかけた言葉は、うつ伏せたままのハボックの台詞に遮られた。
帰り支度を済ませ黒いコートを手にハボックの机まで歩み寄っていたロイに、頭だけ起こしてなんスか、と問うハボック。
一瞬その目が「しまった」という色を宿していたが、それもすぐに消え失せる。
それに余計苛立たしさを感じて、ロイの声が不機嫌に染まる。

「いつ!どこで!」
「昨日。部屋で。『ジャンはカッコ良いわよ』って」

ついでに頭も撫でてくれました、と悪びれずにヘラッと笑うハボックに、ロイの顔にも嫌な笑顔が浮かぶ。優雅な動作でコートを着込むと、ポケットから見慣れた白い物を取り出し、やはり優雅にそれに手を入れる。

「ってうわっ!ちょっ!大佐!タンマッ!!」

慌てて飛び起きるが、髪の毛の先がちりっと香ばしいかおりを放つ。
元々頭のあった場所には、衝撃で落としてしまったハボックの煙草が、無残な姿になっていた。

「黙れ。発火布の尊い練習台になれ」
「使いきりじゃないっスか!?」
「花も終わりがあるからこそ美しいとは思わんかね」
「思いません!てか俺花じゃないし!!」
「ああ動くな、ハボック少尉。余計なところまでうっかり燃やしてしまうかもしれん」
「ぎゃあああっ!!」

何やら自慢の金髪が所々香ばしいかおりを放っている事実に、悲鳴をあげて逃げ惑う。
――目が笑ってねぇ…っ!
本気ではないと信じつつも、涙目になりながらハボックは壁に追い込まれた。
――――と。









「…………何をやっているんですか」

聞きなれた声音とともに、ハボックの横のドアから金色の犬が現れた。

「あああ、中尉!助けてくださいっ!!」
「やぁ、ホークアイ中尉じゃないか」
「大佐、無闇に火を出さないで下さい。ハボック少尉の頭に多少焦げ跡が見られます」

突如現れた救いの女神に、ハボックは収まりきるはずのない体を無理矢理縮みこませ、リザの背中に回りこんだ。その様子を淡々と見ていたリザは、そう言うとおもむろに後ろを振り返り、ハボックの頭に手をやった。そして焦げた部分を優しく撫でさしてやる。

「――なっ!」

その様子に思わずロイが絶句する。

「……中尉、俺まだ死にたくないんでもういいっス」
「何言ってるの」

単に焦げた髪を払ってるだけのリザは、分からないと小首を傾げたが、不機嫌全開な上司の顔を真正面から目にしているハボックは生きた心地がしない。
流石にこれ以上は冗談ではすまなさそうなロイを見て、ハボックの方から体を離した。

「……君はそういう男が好きなのか?」
「おっしゃってる意味が分かりかねます」

リザがいるため擦りたい指を我慢しているといった風のロイが、リザに突っかかる。
――ていうか普通聞かねえだろ、ただの上司がただの部下に。
内心でツッコミを入れつつ、炭化を逃れたハボックは押し黙ってロイとリザの応酬を見ていた。

「金髪碧眼が好みなのかと聞いている」
「ブルネットも好きですが」
「…………」

あまりにサラリと返された言葉に、少々ロイが面食らう。
思わず口笛を吹きそうになって、慌ててハボックは口を閉ざした。しかし――

「ちなみにブラウンもシルバーも好きですよ」

似合えば何でもいいです、と付け足された台詞に脱力しかけて、ロイは先程のハボックの言った台詞を思い出した。
 
――昨日。部屋で。『ジャンはカッコ良いわよ』って

「…あー…中尉。君は昨日どこにいた」
「何を言ってるんですか。昨日は貴方と同じ日勤だったでしょう」

――そうそう。俺もいたじゃないっスか。
胸ポケットから煙草を出してくわえると、ハボックはロイに向かって一つ頷く。
その仕草を横目で睨みつけながら、苛立たしげに問いただす。

「そうではなくてだな。仕事が終わった後だ」
「……プライベートはお答え致しかねますが」
「………………?」

微妙に間のあった返答に、ハボックは疑問符を浮かべる。
いつもなら一刀両断の彼女がやけに含みを持たせた答え方だと、ちらりと横顔を盗み見る。
別段変わったところはなさそうだが。

「コイツの部屋に行った覚えは?」
「ハボック少尉の……?」

――オイオイオイオイ。すげえプライベートだろ、それ!
仮に行ったとして、それを咎める権利も咎められる義務もないはずだ。
そんなこと聞いちゃっていいんですか、と咽まで出かかった言葉をハボックが飲み込んだのは、ひとえに少し眉根を寄せて困惑の表情を浮かべたリザが、ちらりと自分の方を見たからに他ならない。
――何かそれって俺たちに何か関係あったみたいじゃないっスか、中尉。
余計ロイを煽る結果になりはしないかと懸念したところで、リザが口を開く。

「…………大佐、お言葉ですが」
「――さっきのはっ!」

そのリザの言葉を遮って、ハボックが後ろから声をあげた。
突然のことに二人は同時にハボックを見つめる。

「昨日、執務室で中尉に喧嘩した彼女の相談をしてた時の話です!あ、ちゃんと休憩時間中っスよ?ねえ中尉」
「?ええ、相談は受けましたが…さっきの?」
「いや、それはこっちの話です。それより大佐…………執務室って部屋っスよ?」
「……この野郎」

発火布をつけたままのロイの手が揺れる。
今度こそやり過ぎたか?と思って目を閉じたハボックだったが、耳に入ってきたのは布の摩擦音ではなかった。


「                         」


聞こえた極小さな呟きにも似た台詞に思わず目を開けると、同じ台詞を聞いたと思われるブルネットの男と目が合った。その漆黒の瞳がハボックから逸らされ彷徨い、もう一度視点をリザに合わせようとしたときには、彼女は小さく礼をすると

「資料を取ってきます」

と、二人の男の横を通り抜けて行ってしまった。

「――中尉!ちょっ、待て!」

一拍置いて駆け出していった上司の背中をやる気のなさげな目で追って、ハボックは一息深く煙草の煙を吸い込んだ。
散々追い掛け回された執務室には、書類が処々に散っている。
それらを拾い集めながら紫煙を吐き出すと、ロッカーに向かって歩き始めた。

「さて、と。帰るかね」

――あんまり長居して、戻ってきた中尉に脅されんのもヤだしな
――お邪魔虫は害虫として焼き殺されんのも癪だし。




「昨日の事は貴方が一番知ってるでしょう?」

 
1 1