閉めきったカーテンの隙間から射し込む朝の光をぼんやりと見つめ、それから首だけを廻らして、ベッドサイドでその存在を主張しているアラーム時計に視線を移した。

(――起きなきゃ……)

顔を洗って仕度をして、ああブラックハヤテ号にも餌を上げて、それからそれから…
やることはある。分かってもいる。
なのに体がもう少しこのままでいさせて欲しいと駄々を捏ねる。

(寝不足かしら…?)

このまま惰眠を貪りたい衝動をどうにか抑え、リザはベッドを抜け出した。



 Generation of heat



「中尉、もう昼飯食いました?」
「いいえ、これからよ」

ロイに頼まれた資料を抱えて部屋に戻ってきたリザに、ハボックが声をかけた。
そういわれれば、時計は正午をとっくにまわっている。

「お昼時間帯外した方が空いてますもんね」

僕たち行ったときなんてすごく混んでましたよ、とフュリーが片手で自分を扇ぎながら言った。
ロイの業務が規定の休憩時間をこえることが多い所為で、お目付け役であるリザも、
あまり昼食を定時に食べる事がない。
リザ自身としては別段空いた時間を狙ったわけではなかったのだが、
もしかするとロイの方はそうなのかもしれない。

「それにしても今日は暑いですよねぇ…」
「俺なんて午後からまた肉体労働だぜ」
「うわあ……ご苦労様です」

フュリーの同情を含んだ声に、ハボックも扇ぎながら苦笑した。
外はすこぶる良い天気だった。
良い、というよりも良すぎる。
ここのところ連日猛暑が続いていた。平均気温30度。平均湿度80%。
風もないので、木陰に入っても涼しくない。

軍部内には冷房設備があるものの、経費節減という名目の室温設定では、外よりマシという程度。
茹だるような外出から戻ってきた瞬間ならいざ知らず、室内でも少し動けばやはり暑い。
東方司令部内の軍人達も、それぞれ工夫を凝らして己の体温を下げるのに必死だった。
流石にいつ何が起こるか分からないので、あまり間の抜けた格好ではいられなかったが、上着を脱ぐなりアンダーを半袖にするなり、と対策を練っている。
フュリーは上着を脱ぎ、ハボックはいつもの黒のアンダーだと色が暑苦しいと白い薄手のTシャツに変えていた。

「……中尉は暑くないんスか?」
「え?ええ。そんなに暑いかしら」

自分の机上で資料の枚数を再確認していたリザに視線をやって、ハボックが尋ねる。
リザはいつものように一分の隙もなく軍服を着こなしていた。
しかも襟から覗くアンダーまでが、普段通りの黒ハイネック。
 
仕事熱心な彼女が上着を脱がないのは納得できても、その台詞は納得できない。
この暑さ、その格好で、汗一つかかず、ロイのいる執務室へ向かうリザの背中に、
ハボックとフュリーは信じられないものを見る目で見送った。

「……暑いですよねぇ」
「だよなぁ……ん?」

フュリーの言葉に同意を示したハボックが、今しがた執務室に姿を消したリザの机に置き忘れの書類を見つけた。
煙草に火をつけながらそれを手にすると、後ろからきたフュリーが苦笑する。

「珍しいですね。中尉がこういうの忘れるなんて」
「一応一服したら俺持ってくわ」

リザのことだ。ここに置いていったのなら、必要のない書類かもしれない。
だがどちらにせよフュリーの言うとおり珍しい事だ、とハボックは思った。
違う書類をそろえたにしろ、たまたまここに置き忘れたにしろ。

「やっぱ暑いからなぁ」

昼食を終えたばかりで今はとりあえず煙草が飲みたい。
目と鼻の先の執務室を前にして、書類をヒラヒラと振りながらハボックが言った。
椅子に深く身を任せると、フュリーが同意しながらシガーライターを渡した。

執務室はすぐ隣の大部屋よりも幾分涼しい気がする。
人数の差だろうか。
入った瞬間冷気を感じて小さく身震いしたリザだったが、気を取り直してロイの机に向かった。
言われたとおりに資料を重ねる。

資料探しに少し手間取ったのでリザがここに戻るまで時間はあったというのに、
先程見たのと大差ない量の未決書類がロイの目の前で順番を待っている。

「大佐…」

咎めるというより呆れを含んだリザの声音に、ロイはあからさまに視線を泳がせた。

「…仕方あるまい。この暑さじゃやる気も起きん」
「あちらの部屋よりも幾分涼しく感じますが」

僅かばかりの決裁書類を確認しながらリザが言う。
その淡々とした動作に、ロイも渋々といった風ではあったが、未決書類に手を伸ばした。

「……君は暑くないのか?」
「先程ハボック少尉にも言われました。そんなに暑いですか?」

分からない、と小首を傾げるリザが黒のハイネックを着用しているのに気づいたロイが、
信じられんと呟いた。
この暑さに何が悲しくてハイネックなぞ着るものか。
しかも熱吸収率の高いカラーの黒。
ロイが着たら、そのまま人体自然発火現象を引き起こすかもしれない。

「暑いだろうに」
「大佐、手が止まっています」
「やる気が起きん」
「いつもじゃないですか」

暑さの所為にしないで下さい。
確認を終えた書類を揃えながら冷たい視線を向けるリザの様子に、ふとロイの頭に悪戯心が芽生えた。傍目にも胡散臭い爽やかな笑顔で「中尉。」と呼んで、手にしていた万年筆を放り投げる。

「君が濃厚なキスでもしてくれたら、俄然やる気が出るんだがな」

――また馬鹿なことを――

そう返すなら暫し言葉遊びに興じるか――
ロイは仕事に飽きた頭でリザの台詞をシミュレートした。
しかし。

「わかりました」
「はっはっは。冗談だ・・…って何?」

聞き違いか?
予想に反したリザの返しにロイの理解が遅れる。
暑さのせいで幻聴が?いや、いくらなんでもそこまでは。

ロイが茹だる頭をフル回転させている間に、リザは机を回り込みロイの肩に手を置いた。
持っていたままの書類が音を立てて床に散らばる。

「――ち、中尉?どうし……っ!?」

言いかけた台詞はリザに飲まれた。
ロイの瞳が驚愕に見開かれる。

肩に置かれた手は、ロイを押さえつけるような力ではなく、軽く添えているだけだ。
なのに軍服越しに伝わる熱が、ロイの体をそのままの姿勢で縛り付ける。
やけに熱いリザの唇が、ロイの下唇を啄ばむように強請り、少し開いた口内にリザの舌が侵入を果たした。歯列をなぞり、ロイの舌を絡めとる。

「…は……っ、ちょっ…ま……っっ」

――おかしい。

閉じた瞳をときたま開き、ロイの反応を確認するように行為を繰り返すリザに理性を翻弄されながらも、途切れ途切れに言葉を紡ぐ努力をする。
願ってもない、そしてまたとない事態には違いなかったが、それを甘受してはいけないと、ロイのどこかで警鐘がなる。通常のリザからはあり得ない。

息を吐く間もなく与えられるリザからの熱にロイも応えながら、酔いきれない疑問が頭をもたげる。
激しい口付けに絡まりあう唾液、それらとともに注がれる熱い吐息。上気した頬。くぐもった声。


 ――――ガチャッ


「大佐ァ、この資りょ…………うっ!?」

その場の雰囲気にそぐわない気の抜けた声とともに煙草を燻らせ、
ノックもせずに扉を開けたのはハボックだ。
先程リザが置き忘れていた資料を手にしたまま、目の前で繰り広げられる濡れ場に固まった。

(――あ、あり得ねぇっ!)

仮にも執務室で。しかもリザから。
突然の侵入者を意に介せず続けられる行為に、ハボックはどうしていいのか分からなかった。
戸惑い気味の視線をハボックに向けるロイとは違い、完全に彼の存在を無視して続けるリザの手がロイの頬に添えられた。
瞬間。

「な、にやってるんだ君は!?」

もの凄い勢いでロイがリザを引き剥がした。
まだ息の乱れているリザは、潤んだ瞳でロイを見つめている。
その光景は、ハボックには何が何やら分からなかった。ますます頭の混乱が広がる。
ただそれまで椅子に座ったままのロイが立ち上がると、やおらリザに向かって手を上げた。

(――たたたた叩くつもりですか、大佐!?)

どういう状況でそうなったのかは知らないが、勤務時間とはいえ、リザから濃厚なキスを受けるというシチュエーションの一体何が不満なのか。
制止しなければと思いつつ、しかしハボックはその場に生えたように動けなかった。

「こんな……馬鹿者!」

叩くために振り上げられたと思ったロイの手は、やおらリザの首筋から頬にかけてを何度も往復する。黙ってされるがままのリザに向かって抑えた声で怒鳴りつけると、素早く屈んでリザの膝裏に片手をさしこんだ。
そのまま抱え上げる。

「ハボック、扉を開けろ。このまま持ってく!」
「は…どこに…?」
「医務室に決まっている!どけっ!」

ロイの言葉にハボックが慌てて扉を開けると、ロイが足早に通り過ぎた。
リザは全く焦点の定まらない視線をロイに向け、いわゆるお姫様抱っこの状態で大人しくロイに抱かれていた。僅かに上気した頬と乱れた呼吸は、何が原因なのか微妙なところだが。

「中尉!どうしたんですか!?」
「すごい熱だ。医務室に連絡を入れといてくれ」

高熱――……
フュリーの問いに眉間に皺を寄せてロイが答えた。
リザを抱えて部屋を後にしたロイの背中を見送って、ハボックは漸く合点がいった。
どうりで暑くないはずだ。否、むしろ寒かったのだろう。
あのリザが執務室で自分からロイにキスをするなど、この先もう見られない。

「……あー、惜しいことした……」

すぐに資料を運んでいれば、お姫様抱っこは自分の権利だったかもしれないのに。
熱でおぼろげな視線を向けていたリザの表情を思い出し、ハボックは不謹慎な考えに苦笑した。


    ********


解熱剤を打ち、静かな寝息をたてるリザの前髪を上げると、ロイは額に手を当てた。
先程執務室で触れた体温より、幾分マシだ。

「……君何してるかわかってないだろう」

小さく呟き頬に軽くキスを落として微笑むと、ロイは医務室を後にした。
目覚めたら連絡を、と担当医に告げる。
夏風邪は性質が悪いという。
リザが目覚めるまでに今日の仕事は終わらせなければ、また無茶をしてこじれると困る。

執務室に戻り、暑さの所為にして滞らせていた書類に取り掛かった。
途中リザの代わりに書類を受け取りにきたハボックに、先程目にした光景を他言無用と念押しするのを忘れない。
わかってますよ、とくわえ煙草でハボックが答えた。

扉が閉じられ、再び一人になった執務室で、
ロイは無意識のうちに唇をなぞっている手に気づき眉根を寄せる。

「……参ったな」

リザは覚えていないだろう。
どこから意識が途切れていたのかは定かではないが、それだけは確実だ。
あの時ロイに触れたリザの手があれほど熱くなかったら、自分はどうしていただろうか。
しかし触れられた尋常じゃない熱さに、ロイの思考は一気に冷却されたはずだったのだが。
口唇に触れた指先から伝わる熱に、ロイの脳裏にリザの潤んだ瞳が浮かび上がる。

「余計あつくなってきた」

苦笑して一旦前髪をかきあげると、ロイは机に積まれた書類を見た。
その横に置かれたリザの持ってきた資料に目が止まる。
 
苦笑して、まだベッドの中で眠りについているだろうリザに向けて、覚悟したまえと呟いた。

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