軍属に身を置いていれば、一体どこまでがセクシュアルハラスメントなのかなんて、次第に境界は薄くなる。そう思えなければ苦痛は増すばかりだし、到底長くは務まらないだろう、というのが軍籍を有する女性たちの共通見解だ。 だからリザもその手の話題に、いちいち目くじらを立てるような真似はしない。 勿論度が過ぎれば苦言を呈するのだが、幸い上司部下ともにそこまで彼女の神経を逆撫でして喜ぶような下衆野郎はいなかった。 通常のオフィスで問題視されるであろう『セクハラ』は、リザにとって十分許容範囲であったし、人間関係を円滑にするための気軽な世間話であった。 はじめての人は。 「俺は17…18だったか?」 「私は20前後だった気がしますが」 「僕は……言わなきゃダメですか?」 「隠す事かよ。言っちまえって」 「お前は確か――」 「なんでお前が知ってんだよ!」 いつものメンバーが集まって仕事もどうにか一息つき、やっと休憩となだれ込めば、話題になるのはくだらない自慢話のような男の傷の抉り合い。 そんなささいなことでも話題のネタにして腹を探り合い仲間内で小競り合っていれば、自然と会話は弾むものである。本日彼らの議題はまるで思春期真っ只中、修学旅行の学生のようなものだった。 「でもやっぱりというか、ハボック少尉は早かったんですねぇ」 「そうか?そんなにかわらねぇだろ」 「……余裕かましやがってヤな野郎だな」 「本命を大切にするブレダ少尉のお考えは十分素晴らしいものかと」 「ファルマン、黙れ」 扉を開け放したままの隣室で書類を整えていたリザの耳にも、聞くともなく彼らの会話が流れ込んでくる。それを随分賑やかだ、とは感じていたが、何が話題の中心なのかそちらの方にはあまり関心がなかった。ふと時計に目をやり、リザは会議に出席しているロイがそろそろ戻る頃だとお茶の用意をしに席を立った。 「……随分盛り上がってるじゃないか」 「あ、大佐!お疲れ様です」 入り口の扉に背を預けたロイが、盛り上がる部下たちに憮然とした表情で声をかけた。 顔も声も不機嫌そのもののだ。 どうやら今日の会議は、ロイにとってあまり芳しいものではなかったようである。 そもそも若くして大佐の地位にあり国家錬金術師でもある彼が、大御所の列席する会議で気分の良い扱いを受ける事は少ない。 それが今に始まった事ではないと百も承知している彼らは、いちいちそこでロイの機嫌をとることもしないし、ロイもそれを望んだりはしない。 何事もなかったかのように休憩談義に花は咲く。 「大佐は早そうだよな」 「いやいや、こういう人に限って意外に遅めかもしれないぜ?」 「大佐に限ってそんなことありますかね」 「……何の話だ」 戻ったばかりで話が見えないロイが手近にあった椅子に腰掛け先を促す。 「初めてはいつだったかって話をしてまして」 「また若い話を……」 フュリーが今までの会話をかいつまんで説明する。 ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリー。 それぞれどんな女だったとか、シチュエーションだったとか。 「ブレダ少尉、意外にイイ男だな」 「……どうも」 センチメンタル過去話を暴露させられたブレダは、上官にかけられた言葉に顔を顰めてそう言った。 真面目な言い回しとは裏腹にからかいを含んだ声音がロイの本音を物語っている。 「大佐はおいくつだったんですか?」 「そんなに早くないぞ」 思案顔で記憶の糸を辿る仕草をするロイの次の言葉を待ち、部屋にしばし沈黙が続く。 「たしか……15、いや14だったか……」 (「「「「十分早っ!!」」」」) ロイの告白に驚嘆の表情を浮かべる者、苦虫を噛み潰したような顔をする者。 様々な思いが錯綜する。 そんな時分から経験があるのなら、そろそろ節操という言葉を学んでもいいはずだと大半が胸中で毒づいた。 「で、お相手はどんな方だったんですか」 「ブロンドで……って中尉!?」 横手からかかった続きを促す声に素直に答えかけ、その声の主を認識するとロイは慌てて椅子から立ち上がった。 他の面々も思わずそれに倣う。 トレーの上に人数分のコーヒーと簡単なお茶請けを用意したリザは、小首を傾げそれぞれに渡していった。 「そんなに驚かれることですか?貴方たちまで」 リザが隣にいても会話を続けていたのだから、今更会話に加わったところでドギマギするのもおかしな話だ。 それこそ女性蔑視よ、と言うと、唯一の女性からお許しが出たことで、部下たちに安堵の表情が浮かんだ。 「中尉はいつでした?……って聞いちゃってもいいんスか?」 それでも少し伺うような視線を投げるハボックに、自分の机にコーヒーを置きながらリザは苦笑した。 自分から話題に入っといてセクハラだなんて言わないわよ、と一口すする。 「そうねぇ……17、くらい?18?あら?もしかすると20?」 「覚えてないんスか、中尉」 「というか年齢を意識してなかったのよ」 めくるめく愛の世界で激しく記憶に残るような感動的な初体験ではなかったと言うことか。 飄々と言ってのけるリザに、彼女らしくないような、しかし彼女らしいようなおかしな気持ちが去来する。別にのらくらかわそうとしているわけではないのは、リザの表情から分かるので余計におかしい。 「……19だろ」 リザの登場からそれまで不自然に黙りこくっていたロイが徐に口を開いた。 小さく不安げに、しかし妙な確信をもって放たれたその数字を耳にとどめたハボックが、ロイの方を見た。眉間に皺を寄せて、怒っているわけではなさそうだがどこか思い詰めた風な表情をしている。 「……は?」 極小さな呟きにも似た声音だったせいか、ハボックたちと談笑していたリザが聞き返す。 「いやだから、19、だろ?君の、その……初体験は」 (なんで大佐が知ってるんだよ) (えっと…きっと中尉と大佐は付き合いが一番長いですからそんな話も……) (すると思うか?あの中尉が、あの大佐に) (最も考えられる結論は、中尉のお相手が大佐であったということではないでしょうか) (ならこんな話に参加するか!?中尉だぞ!?) (え!お二人はそんなご関係だったんですか!!??) ((((………………)))) 声には出さずとも、互いの表情を読み取った男たちの会話が続く。 (つーかどう返すんだ、中尉?) (真実であったとしてもこの場で肯定はしないでしょうな) (しても今更って気がするけどな、俺) (覚えていない初体験がマスタング大佐って…ありえるんですか…?) ((((………………)))) 「……何故、ですか?」 「いや、何故って……違うのか……?」 「何故大佐がそれを断定するんです?」 リザの答えにロイの視線が大きく揺れる。 対してリザは怜悧とも思えるほどの視線でロイを真っ直ぐに見据えていた。 (疑問には疑問で答える、か……流石は中尉) (大佐、心なしか動揺しているように見えるんですけど…) (狼狽だろ、あれは) (衝撃も受けているかと) 「中尉、いいか?初めてだぞ。初めては一回、一番初めだぞ」 「知ってますよ」 「なら19……より前なのか、君は」 「ですから正確な年齢は覚えていませんと申し上げているでしょう」 なおも問いただそうとして、しかし「大佐に断定できるんですか?」とダメ出しされたロイは腕を組み、低く呻く。 不安と焦燥と困惑、それに疑念と憤りを綯い交ぜにした複雑な表情だ。 リザはいつもの通りの冷静さで、冷め切ってしまったコーヒーを飲んでいる。 (あ、なんか大佐かなり悩んでるぞ) (中尉は呆れ顔ですが) (ていうかこういう会話まずいだろ。俺たちヤバイ現場にいねえか?) (確実に僕たち無視されてますよ、少尉) 唸り続ける男と素知らぬ顔でコーヒーを啜る女。 これは単なる小休憩の雑談の姿か? セクハラと糾弾された方が本来の休憩を満喫できていたかもしれない、と部下たちは今更ながら自分たちの話題を呪った。 テレパシーでの会話も尽き、どう口を挟んでいいやら思案に暮れていたハボックたちへ、おもむろにリザが顔を向けた。 「あら、休憩時間もそろそろ終わりね」 「ま、待ちたまえ、中尉!」 「そろそろ仕事に戻りましょうか」 立ち上がるリザに制止の声をかけるが素気無く却下されたロイが、やり場のない感情の矛先を恨みのこもった目で後ろの集団に投げかける。 無視を決め込むブレダに、我関せずのファルマン、純粋に怯えるフュリーを尻目に損な役回りだと思いながらハボックがおそるおそる手を上げた。 「どうかした?ハボック少尉」 「えーっと……最後に1つ質問いいっスか?」 「何かしら」 了解を得て、ハボックは一度ロイに視線をやってから、最大限ロイの心情を察した質問を投げかける。 「お相手の特徴は?」 黒髪短髪、とでも言ってくれれば万万歳。 事実がどうであれ、きっとこの上官殿は自分の都合に合わせて気を良くするはずなのだ。 果たしてリザの返答は――? 部屋の視線がリザの口に集中する。 「そうね……」 暫し逡巡した後、小さな唇がゆっくりと言葉を紡ぎ出す。 「やわらかい髪の人、だったわ」 滅多に見せない照れを隠したはにかんだ笑顔に一瞬思考が揺らいだのは、背を向けられていたロイ以外の男たちだっただろう。 ハボックは何故か頬が熱くなるのを感じながら、視界の隅にさり気なく確かめるように髪に触れる黒髪の哀れな男を捕らえていた。 |