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かわいくてしょうがない――
普段あまり自分の感情を表にすることの少ない彼女が、そうした表情をしているのは
本当にめずらしいことで。

もっともそれが世間一般にいわれる『表情豊か』な顔でないことも明白なのだけれど
いつも一緒にいる人間にとっては、その微妙な変化もすぐに気づけてしまうものなのだ。



 絶対


気持ち良さそうにひっくり返り、足を崩して座るリザの膝に頭を乗せている黒白の生物の腹を擦りながら、空いている手で目を細めてもっともっととせがむ彼の鼻面を掴んでみる。
躾が行き届いている所為か、突然のロイの行動にもさした抵抗は見せなかった彼だが、次第に苦しくなってきたのか瞳が哀願するようにロイを見つめ、手の下にある鼻からひゅう、と高い音が漏れた。

「やめてください。なにしてるんですか」
「かわいいなぁと思ってね」
「……サディスト」

ロイの手を愛犬の鼻から外し、リザは庇うようにブラックハヤテ号を抱え直した。
無防備に腹を見せたままの彼はされるがままになっている。
今しがた苦しい思いをさせられたロイの片手は、いまだ無防備に晒された彼の腹を撫でさしているがブラックハヤテ号にそれを嫌がる気配はない。

「随分信頼されてるもんだな」
「何がですか?」
「コイツに。私が」

さっきだって、私に殺されてたかもしれないじゃないか。
そう言って少し手に力を篭めると小さな体が不安げに硬さを増したが、それでも身を捩ってその場から逃げ出そうとまでは思っていないらしい。
咽喉もとを優しく撫でれば、何事もなかったかのように再び安心しきった顔でリザに体を預ける。

「ほら、な?」
「しょっちゅうしてると本気で嫌われますよ」

リザに睨まれてロイは肩を竦めてみせたが、あまり反省はしていないようだ。
その証拠に今度はリザに撫でられようと必死でバタつかせていたブラックハヤテ号の前足を取り、胸の中心で一つにまとめてみる。
一生懸命ヒクつかせて抜け出そうとするが、ロイは力を緩めなかった。

しばらくそうしていれば、やおら自由な後ろ足がロイに抗議の意を示す。
そう強くはないが、明らかにロイを狙って繰り出す小さな攻撃に、リザが息を零した。

「ほら、ね?」
「違うだろ、これは」

愛犬の顔を撫でていたリザの手がはなれ、前足を拘束し続けているロイの手に重ねられた。
ブラックハヤテ号の前足の解放を促す。
かわいそうにねぇ?、と彼の鼻先に顔を近づけて囁く彼女に、床に投げ出されていた尻尾が大きく動いた。この毛玉小僧は彼女に無条件に微笑をおくらせる天才だ、とロイは思う。

躾の為にブローニングを躊躇いなくぶっ放すリザだが、彼女にとって彼は最上級の安息の地なのかもしれない。
裏切りのない絶対服従。永久不変の愛情、信頼。
例え神に誓ったとしても、人間同士では決して叶えられることのないソレは、叶えられないからこそ永遠に欲してしまうものだというのに。

ブラックハヤテ号の足から解かれた指をそのままリザの指に絡める。
自由になった彼は自分の腹の上で今度はリザの手を拘束しているロイを見上げると起き上がり、千切れんばかりに尻尾を振りながら、ロイの腹部に頭を擦りつけてきた。
一度リザの手から片手だけほどいてぐりぐり撫でてやれば、今度はそのままロイの足に頭を乗せてひっくり返る。

「ほら。全然嫌われてない。」
「……貴方が本気じゃないと分かってるんですよ」
「従順なんだな」

温もりが移動してしまったことに、少々不機嫌な色をのせた声で呟くリザの手を、もう一度両手で優しく拘束する。
なんですか、と問うリザの唇に軽く唇で触れた。
膝にある重みが寝心地悪そうに身じろいだが、それを無視してリザの手を握る自分の手に力をこめる。唇を離しても至近距離でリザを見つめれば、薄く目を開けた彼女にもう一度「なんですか」と問われた。

「絶対服従」
「ハヤテ号ですか?それは――」
「違うよ。君が、だ」

今度は深く口づけた。
手をつかんで、体重を預けて。
膝にいたブラックハヤテ号は、自分を無視して体勢を崩すロイに身の危険を察し、素早く退散する。
心置きなく床に倒れこんだロイは、そこで漸くリザの手を解放してやった。
唇を離し、しかし近距離で上気したリザの頬を撫でる。

「やはりブラハより従順だ。君は私が本気だと知っているだろう?」

なのに逃げようとしない。
息が苦しくなって胸を押し返すことはあっても、例え窒息してもロイが本気で望むのなら、リザは大人しく甘受する。

「飼主の躾が良かったのかな」

離された手は大人しくその場でじっとしている。
拘束してもされたまま、解放しても逃げ出そうとはしない。
これほど大人しく従順で物分かりの良いイヌに、そうそう出会える事はない。
揶揄するように言えば、リザの手がロイのシャツを掴んだ。

「イヌの出来が良かったのでは?」

幾分呼吸の整った声ではあるが、先程の名残が感じられる艶っぽい表情に、ロイは口角を上げてその細い指が求めるまま、顔を寄せた。

「前言撤回。躾のし直しが必要だ」

裏切りのない絶対服従。永久不変の愛情、信頼。
腹の底から欲しても、どんなものに誓われても猜疑心を捨てきれないのが人間の性だ。
だが、従順の中に隠された謀議、清楚な陰に潜む欲、愛憎渦巻く感情論。
その全てに心躍るのもまた人間の捨てきれない性だ。

相反するこの気持ちを満たすものは、不貞寝を決め込んでいる従順な愛犬だけでは役不足なのだ。
リザが彼に笑いかける柔らかな表情をロイに向けることは、普段ほとんど皆無だが、ロイに向けられる女の表情が、彼に向けられることは完全に皆無だ。
罪のない自分と同じ黒い毛をした彼に心の中で高笑いをして、ロイは金糸に顔を埋めた。
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