意識が途切れるその瞬間まで、確かに映っていた彼女の瞳からは涙。
無事で良かった。本当に。
ハボックはどうなった?
倒すべき敵を屠り、彼女の無事を確認したら、一気に緊張の糸が切れた。
何も終わっていないのに、大丈夫だと、滅多に見せない取り乱した彼女の前で意識を完全に手放した――


 ON THE BED

薬品の臭気とこの独特の生温い空気にはやはり落ち着かない。
この雰囲気は当事者も、また関係者さえも巻き込んで、気だるい鬱蒼とした気分にさせるのではないかとロイは思う。こんな場所、そう何度もお世話になっているというわけではなかったが、一度たりとも世話になった覚えは無いのだと言い切れるほど可愛らしい人生を歩んでいるわけではない。
だから余計に実感をもってしてそう思うのだ。

「気分が滅入る……」

本当に気分が滅入る。
口に出して呟けばさらに実感が篭ってしまった気がして、ロイはベッドの上で苦笑した。
どんよりと停滞する病室の空気は、窓をいくら開放したところで流れていくものではなかった。
せめて単なる骨折ならば、見舞い客と馬鹿話で気を紛らわすことも出来たかもしれないのに。

ロイの今のこの状態では、事情を知る部下達でさえ辛そうに顔を歪め、自分の不甲斐無さを叱咤している。
別に気にする必要はないのだ、と笑ってやれば逆に身体を気遣われそうそうに退出される。
気遣いなんて人並みの感情おまえらにあったんだな、と胸中で毒づく自分が滑稽だ。
気遣う必要なんて皆無なのだ。
完全に仕方のない状況だったのだから。
むしろ自分の意思でロイについてきたばかりに深手を負うことになったハボックにこそ、気を使ってやるべきかもしれないと思う。
ボインに騙されて挙句瀕死の重傷だなんて、このまま死ねば間違いなく末代までの、いや、永久不滅の笑い種だ。

――早く彼女が来ればいいのに。

ふと小さなサイドテーブルに置かれた時計に目をやって、ロイは頭に浮かんだ彼女の姿に苦笑した。いつもとかわらぬ無表情に淡々とした台詞。
すぐ側のコップに手を伸ばして腹の引き攣りに顔を顰めたロイにも、「馬鹿ですか。まだ手術終えたばかりなんですよ」と容赦なく切って捨てたことを思い出しくつくつと声を漏らす。
しかしすぐさまコップを口に運んでくれた彼女に、余計笑いが腹を心地良く刺激する。

「思い出し笑いはスケベな証拠だそうですよ、大佐」

ノックをしましたが気付かれなかったようなので、と付け足して入ってきたのはロイの待ち人、リザ・ホークアイその人だった。
漸く現れた唯一ロイの気分を上昇させる見舞客の台詞に、ロイは顔を顰める。
が、リザは全く意に返さず淡々と言葉をつないだ。

「事実だったんですね」
「どういう意味だねそれは」
「痴呆には多少の時間が必要かと」

これだ。この日常会話。
下手な気遣いを見せるでもなく、この暗澹とした雰囲気を壊しロイを日常に還してくれる彼女の存在を待っていたのだ。
執務室でのやり取りが忠実に再現されるリザとの会話が、
ロイを保護すべき重傷患者からロイ・マスタングへと意識を高めてくれる。
いつも気のつくリザがロイに飲み物を用意したり、空調に気を使うのはまるで気にならない。
他の者がすればむしろ気に障る、というより余計な庇護はいらんと、自分の現状に反吐が出そうになるのだが。

「御身体の具合はいかがですか」
「うん、大分いい。もともと体力はあるんだ。回復力も人並み以上だぞ」
「仮にも軍人なんですから。体力なければ困るでしょう」
「ご婦人の夜の相手も務まらないしな」
「本当に回復されてきたようですね」

ロイの軽口もさらりとあしらう。
そんな彼女とのやり取りがロイには心地良かった。

「仕事の方はどうなっている?」
「大佐のお仕事は順調に溜まっています。ご安心を」
「……嬉しくないな」
「退院後はしばらくデスクワークですね。あまり無理をなさらないようにとの、心遣いです」
「残業の勧めが気遣いに入るとは知らなかったよ」

リザのことだから本当にデスクワークが大量にロイを待ち構えていそうで、少しだけ退院の日が苦しみを持っているような気になった。
苦笑して、ふと開け放された窓から入る風に目を細めた。
少し強くなってきたかもしれない。
先に見舞いに来た連中に、換気の為にと開けさせた窓だ。
あの時は日も高く、病室に篭っていた空気を一層させるには調度良いかと思ったのだが、如何せん、今窓から見えるのはセントラルの街灯だ。時間が経ち過ぎている。

「大佐?」
「ああ、ちょっと窓を」
「――大佐っ!」

リザといると、本当に日常に戻った気になってしまう。
そのことをすっかり失念していた事実に、ロイは舌打ちしたい気分になった。
わき腹に激痛が走り、ベッドから身を乗り出していたロイの包帯だらけの身体は勢い良くバランスを崩し、支える腕すら振動を傷口に伝える役割しか果たさなかった。
今は日常などではないのだ。
いくらリザが側にいるからといっても。

「何を…やって…っ!今医官を呼びま――」
「いや、いい」
「良くは、」
「いいんだ」

ベッドから滑り落ちそうになったロイの身体を、リザの細い腕が素早く回り込んで支えてくれていた。
肩で荒く息をつきながら、今の自分の状況を頭の中で再認識する。
ソラリスというウロボロスの女に強か内蔵を抉られ痛みと出血で朦朧となる頭を奮い起こし、気絶しそうな程の熱をもってしてその傷口を塞いだのだ。
これでは今痛いのは無理もない。
というかこれですでに回復したとなると、本気でデタラメ人間を否定できなくなるではないか。

痛いのは仕方ない。
誰も死んでないだけ奇跡なのだ。

「お願いですから、無理はなさらないで下さい」
「大丈夫だと……思ったんだがな」
「馬鹿ですか」
「君ね、」
「馬鹿ですか、あなたは」
「ちゅう、い?」

いつもと同じ上官に対していう言葉ではない台詞を堂々と発してくれるリザに、痛む腹を抑え苦笑いを浮かべようとして、ロイの発言は途中で遮られた。
もう一度、一言一言噛み締めるようにリザが同じ台詞を発したからだ。
その声のトーンに違和を感じて、ロイがリザに抱え込まれた身体から頭をあげようとして、瞠目してしまった。

彼女はいつもの無表情ではなかった。
呆れを含んでもいない。
ロイのドジな行動に焦燥が浮かんでいたのでもなかった。

「中尉、リザ、悪かった。今のは私が馬鹿だったから、だから」

泣くな。
出かかった言葉は「見ないで下さい」と無理矢理頭を抑え込まれた所為で、声にはならなかった。
意識を失ったあの時から、アレはもしかしたら夢だったのかもしれないとどこか漠然と考えていた。
仮にも任務中に、仮にも一般人のアルフォンス・エルリックを前にして、任務を放棄し生を捨て冷静さを失った彼女など。
泣きながら自分に縋りつく彼女など。
隣で眠る時すら心のどこかはロイを守る為に不穏な気配を察知しようと全てを明渡さない彼女が、ああまで感情を露わにして取り乱すなど、夢でしかあるはずがないと。

「無茶を…しないで下さい」
「悪かった」
「それは私の台詞です」
「違うだろ」
「違いません。私が至らないばかりに、あなたが――」
「違う」

全然違う。
くだらない事で自分を責めるな。
大声で怒鳴りたかった。
やはりアレは夢ではなかったのだ。
そんな彼女は存在したのだ。

「君が謝るとしたらそこじゃない。勝手に諦めたことに対してだ。それ以外はどうでもいい」
「申し訳、ありませんでした」
「心がこもってない」
「そんなことは」
「こもってない」

体を支えるリザの手が離れていくのを感じて、ロイはわき腹を抑えつつ、もう片方の手でリザの腰を抱き寄せた。
この体勢はあまり傷口によくはないだろう、と察してのリザの行動だったのかもしれない。
実際にジンジンとした熱い痛みはあったが、それはどうでも良かった。
いつも冷静な彼女が、均衡を崩した。
そのことの方が余程ロイには重要だったのだから。

「私を補佐するのが君の任務だ。勝手に死ぬな。死のうとするな。死体も確認せずに馬鹿な行動を取るな。確認しても死ぬな。どこかの錬金術師が人体練成に成功するかもしれないじゃないか。死ぬな。生きろ」
「……申し訳ありませんでした」
「違う」
「大、佐」
「そういうことじゃなくて」

強く抱き寄せすぎているのかもしれない。彼女の声が一瞬途切れた。
ぎゅうという音が聞こえてきそうなほど、分厚い彼女の軍服を握り締めているのは分かっていた。
腹も痛い。
謝罪の言葉は当然だ。
あれはリザに、中尉という立場にあるまじき醜態だったのだから。

下手な気遣いをしないリザが、いつも冷静沈着なリザが、
ロイのために取り乱して泣き叫ぶなど、あってはならないことなのだ。
少なくとも職務中にロイの許可なく勝手に生を放棄するなど。
しかし――

「側にいてくれ」

ずっと側に。

あの時。
すぐ隣でピクリとも動かなくなった長身の部下。
あの女がネズミを始末すると不敵に笑った瞬間に走った戦慄。
自分の腹を刺し貫かれたときよりもはるかに血の気が引いた。

手出しはさせない。
早く行かねば。
銃撃の音がする。間断なく響く重たい音が。
こんな状況で馬鹿みたいに耳に心地良いのは、それが彼女の奏でるものだと気付いていたからに他ならない。
どうすればいいのか、何をすべきか。
素早く血で練成陣を書いた右手を熱くぬめるわき腹に置いた。
叫び声が聞こえる。
彼女のあんな激しい慟哭を、これ以上自分以外の者に聞かせてなるものか。

 あの女は俺のものだ。



『私の部下を守ってくれて礼を言う』



今度こそ失わなくて良かった。誰も。
――――リザを。

「側にいてくれ…頼む」


感情に任せて取り乱したことを叱咤するなら、彼女を罰さなければならない。
なのに指揮官が今この場でその彼女に縋り付いてどうするんだ、と涙が出てきた。
だがまた失うかと思ったのだ。
本気で失うかと。

死なないで欲しい。
リザにとって自分が全てだということは、とうの昔から分かっていたことだ。
だから余計に怖かった。
ロイの死を知った時、リザは生きる術を放棄するだろうと容易に想像が出来てしまうのが。

これではそう簡単に死ぬことはできないではないか。
リザの死が怖くて先に死ぬなんてできるわけが無い。
死なないから。きちんと目的を果たすから。
だからどうか。
側にいてくれ。

言葉にならない思いを込めてリザの胸に顔を埋めた。
リザの腕が労わるようにロイの黒髪に差し込まれ、何度も何度も往復する。
頭上に唇の感触。
それが柔らかくロイの脳を刺激する。

「絶対に離れません。側にいます」
「……ああ」
「だから、私を置いていかないで下さい」
「ああ」
「お願いです」
「分かってる」


滅多に無い彼女からのお願いと、縋りつくロイの背に回された縋りつくリザの手。
痛みが全て熱に還元されたかのように、熱いものがこみ上げてくる。

「…………泣かないで下さい、大佐」
「泣いてない。君の方こそ涙腺緩んでるんじゃないのか」
「そっくりそのままお返しします」
「私はそんな歳じゃない」
「三十路じゃないですか」
「ま、まだ二十代だ!ピチピチだ!」
「そういうあたりがもう歳です」
「……退院したら若さをたっぷり見せ付けてやる。覚悟しとけよ」

どっちにしろいい年をした男女が、病室で何をやっているんだろうと思う。
お互いに顔も見せずにしがみ付いているなんて。
でもこの温もりが手放せない。
最後に捨て台詞のように放たれたロイの言葉は、もしかすると無意識の境界線だったのかもしれない。

そろそろ日常に戻らなければ、という。
敏感なリザは気付いたはずだ。
ここですかさず切り捨ててくれればいい。いつものように。なのに。

 「楽しみにしてます」

相変わらず見えないままのリザの表情が微笑んでいるのを何故か確信して、
ロイはもう暫く戻れそうにないと、縋りつく腕に力を込め直した。

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