『リザ』と呼ぼうか『中尉』と呼ぼうか。
それともたまには趣向を凝らして『ペコー君』というのもいいかもしれない。
そんな戯言は情後の甘ったるい雰囲気の下で考えるべきことだったのかもしれない。
ちょうど次の任務のコードネームも考えなきゃな、とロイにしては珍しく仕事のことまで考えていた所為もあった。
全く別人を名乗らせるのもいいが、言葉遊びも面白い。


――ああ、『エリザベス』なんていんじゃないか?


そのままだと捻りが無いか。
エリザベスの愛称ならべス、リズ、リジィー、それに……


 紳士的野言動

「――ベッツィ……」
「――大佐」


甘やかな雰囲気が一気に瞬間冷凍された挙句、床に滑り落ちてけたたましく壊れた音が聞こえたような錯覚に捕らわれて、ロイは自分の唇を押し返している女の手を取った。
あと少しでキス、というこの場面で素直に目を閉じたままでいてくれないのは非常に不満だったが、生憎それを問い質せるような表情をリザはしていない。


「……何だ」


内心の動揺を抑えて極めて平静を装える自分には、やはり司令官としての資質は十分だと思いたいが、むしろ尊大な態度で接しながら、情けないことに声音が小さくなっているのがいただけない。
ふ、と漏らされたリザの吐息が肌蹴たシャツの隙間から胸元に入り込んできて、ロイの体が強張る。


「お疲れなのは十分承知していますが――」


鳶色の瞳が真っ直ぐロイを見据えている。
が、その視線には一切の感情が灯っていない。
この書類をあと30分で処理して下さいと迫る時の方が、余程人間らしくないかとすら感じる。
マズイな、とロイは思った。


プライベートのときのこの表情は、リザがかなり気分を害している証拠だ。
害してる、なんて生易しいものじゃない。
怒ってる。ストレートに言うなればブチ切れてる。


「あいにく私も疲れていますから、慰安はやはり他所でどうぞ。
 ここでもホテルでも路上でもお好きにサカッて下さい」


私帰りますからと笑みすら湛えて見上げる瞳はやたら紳士的であって、どうしようかと頭を抱える。
感情が絶対零度の微笑は澄んでてとても見目美しいが、鋭利過ぎて痛い。
何だ。いったい何が彼女を怒らせた。何かしたか。全く思いつかない。
きちんと順序だてて考える余裕をリザがくれないことは分かっている。
なら今最も最優先で考える事項は、彼女が帰るという事実についてだ。
その結論なら今のロイでもすぐに出る。


「いやだ」
「私もイヤです」


帰すものかと意志を込めて睨みつければ、間髪入れずに返された。
その台詞を鼻で笑う。


「イヤで結構。付き合いたまえ。だいたい何なんだ、君。さっきまでその気だったじゃないか。私は今でも十分その気だ」
「萎えました」
「なえ……」


無感情を装うリザの瞳に漸く色が灯ったように見えた。
とはいえ、心底どうでもよさげな視線に変えられたのを喜ぶべきなのか。
逡巡する間にリザはロイに掴まれていた腕をするりと抜かし、散々かき回されて乱れていた自身の金髪に手櫛を通した。
その仕草がやけに艶っぽくて、発言とのコントラストが憎い。


「……私が何かしたのか?」


世の女性なら確実に母性本能をくすぐられるはずの上目遣いで弱々しく問い掛ければ、


「――例えば」


一旦言葉を切って、しかしすぐさまリザは続けた。
ロイの視線は何の効果もリザに与えられないらしい。


「もの凄く貴方好みの女に暗闇の中咥えさせたと思って興奮していたら、実は彼女の今年80になる母親で、しかも貴方に密かに恋心を抱いていましたという隣の家のおばあさんでした、という事態になったら萎えませんか。今まさにそんな気分なんです」
「それは……」


確かに萎えるなんてもんじゃないだろう。
っていうか咥えさせる前に気付くぞ私は。
そもそもその例題と君の気分と何の因果関係があるのかさっぱり分からない。


そう返そうと口を開きかけたロイを射るようにして、リザの視線が止めさせた。


「私はリザ・ホークアイという人間で、貴方の部下で狗で駒です。
 ……欲望の捌け口にならなれますが、他の女の名前で抱かれるのはイヤです。
そうしたいのなら娼館にでも行かれたらどうです。それに頼めばいくらでもしてくれる方、いらっしゃるでしょう」
「他の女?」
「…………」


振り向きもせずに一人ベッドから抜け出して、さっさとジャケットを羽織るリザの台詞にロイは暫し口を閉ざし、その背を見つめ――――突然ブハッと吹き出した。
背後で起こった馬鹿笑いに、さすがにリザも振り返る。
驚きと困惑に眉を顰めたリザが、腹を抱えて肩を震わすロイを見た。


「……ベ、ベッツィか?萎えた原因は"ベッツィ"?本気で?……はははっ……それ、リザ、君……」


――――ムカツク。
涙を流しながら白いシーツの上でのた打ち回る黒髪の男が、いっそそのまま酸欠でくたばればいいのに。


半ば本気でそう思っていたのが鉄面皮を装っていたリザの顔にのったらしい。
そんな顔で見ないでくれ欲情してしまう、といって再び笑い転げるロイを蜂の巣にしたくなった。
馬鹿にするにも程がある。


「帰ります」
「まあ待て……ククッ……もう言わないから。萎えなくてすむだろう?お詫びにうんとサービスするし」
「結構です」


今度はあきらかに憮然とした声音で踵を返し掛けたリザの腰を素早く取って膝に抱えれば、さっきシャワーを浴びてまだ乾ききっていない髪の隙間から白い項に口付けた。
身を捩り逃げ出そうともがく体をつなぎとめる。


「名前くらいで君が拗ねるとは思わなかった」
「拗ねてません。萎えただけです」
「うん、わかったわかった」
「離して下さい、大佐」
「やだ」
「殴りますよ」


語尾に重なる鈍い音。
思わず緩んだ逞しい腕を払いのけて、リザはロイの拘束から抜け出した。


「……ぐうで裏拳とは容赦なさすぎないか……」
「警告しました」


鼻頭を抑えて呻くロイを冷ややかに見下ろしながら、リザは無理に抱き寄せられていた所為で、捲れ上がっていたジャケットの裾を直した。
涙目で非難の視線を浴びせるロイが、しかし鼻血を出していないことを確認して少し安堵する。
鼻の形も上々だ。
別にやりすぎたとはこれっぽっちも思っていないが、痛そうだとは思う。
鍛えた拳も痺れて少し痛い。


「警告すればいいってものでもないだろう……いや、悪かった」


なおも非難しようと開きかけたロイを無視して床に転がるハンドバッグに手を伸ばす。


「だが誤解だ。ベッツィは君のことだよ、リザ」
「勝手に愛称を変えないで下さい。苦しすぎますよ、それ」


ちっとも捻りの無い言い訳に背を向けたままでも眉間の皺が深くなるのを、リザは抑えようが無かった。こんな言い訳、他の女にだって通じやしない。いや、他の女にならそもそも名前を言い違えるなんて三流男でもしないミス、この男がするわけがないが。


「そんなに目くじらを立てなくてもいいだろう?イク寸前に別の女の名前を呼んだわけでもなし」
「……経験おありですか」


普通に考えてあり得ない。というかあったら最低だ。


「殺されかけたぞ。びっくりした」


やれやれと悪びれず首を振るロイに、リザは同じ女性として同情を禁じえない。
相手は商売女ではなかったのだろう。
少なくともロイの偽り甘言に身も心も絆された末にそんな失言、余程ショックだったろうに。


「感情的過ぎるとは思わないか?」
「思いませんね。そんなこと仰られるからいらない悪意を買うんです」


軍部だけで足りませんか。
まさかこの間軍内でロイに銃口を突きつけて「娘を!娘を!」と乱射しながら泣き叫んでいた将軍とは関係ないでいて欲しい。


「ふん。そんなもんかね」


リザの願いを知ってか知らずか、ロイはおもむろに立ち上がると背後から優しく拘束した。
そのまま両腕を下降させ、ハンドバックを掴むリザの指を一本一本解きほぐす。
ゴトリと床に落とされたバッグから、黒光りする自動小銃が顔を覗かせている。
オートマチックならオートでこの黒髪の男に狙いを定めてくれればいいものを。


「そんなものでしょう。女性への配慮に欠けてますよ、珍しく」
「私は常に君への配慮しか怠っていないのだよ」
「怠られた経験しかありませんが」
「それは心外だ」


折角羽織ったジャケットを後ろから器用に剥いでいくその手管にはいつも感心させられる。
場馴れ、というのも勿論あるのだろうが、やはり生まれつきの才能なのかもしれない。
だって自分はいつまでたっても男の服の脱がし方が巧くなるとは思えないのだ。
抵抗をしないリザに気を良くしてか、ロイは甘えるように肩口に擦り寄ってきた。
短いが柔らかめな短髪が剥き出しの肌に触れてくすぐったかった。


「責めているっわけではありません。そんなもの私には必要がありませんから」
「失敬。君に必要なのは私の肉体だけだったかな」
「……」
「――ま、待て待て待てッ!冗談だ!私が悪かった!すまん、いやゴメンナサイ!」


いつ取り出したのか。というかどこから取り出した?
床に転がるオートマチックではない銀色の銃口を向けられて思わず少し身を引いてしまったロイに、しかし完全に解放されないリザが不満そうにその銃口を押し付けた。
そういえば彼女はいつも二丁が標準装備だと言っていたっけか。


「あなたじゃあるまいし。肉体だけなんて無意味ですよ、大佐」
「でも悪くはないだろう。気持ちよさげだし」


今度は火を噴くかと思ったが、意外にも額に突きつけられた銃口の圧迫が緩む。


「気持ち悪かったらしません」
「気持ち良ければいいのか」
「そんなこと言ってません。馬鹿ですか」
「ば…って、リザちゃん?まだ怒ってる?」
「怒ってません。やめて下さい、その呼び方。怒りますよ」
「もう怒ってるじゃないか。それしまってくれたまえ」


どこでリザが気分を害しているのか、どこまでなら許される会話なのか、正直な話、いつまでたっても良く分からない。たぶん今のは名前をちゃん付けで呼んだことに対して怒っている、というか照れている。
その表現が眉間に皺を寄せて抱き寄せる男の顎に銃口を突きつけることで表現するところが、切羽詰っていて非常に可愛らしいといったら、ロイは脳髄をぶち撒く嵌めになるかもしれない。その前にもっと直接的で照れるなり怒るなりすべき個所があった気もするが、そっちはどうでもいいらしい。


「怒ってないです。こんなのいつものことじゃないですか」


冷静に考えれば、いつもスキンシップに銃口を突きつけるのはどうだろうとも思うが、リザとの間でそれは愚問だと思ってしまったロイも相当やられている。確かにこんなのはいつもの戯れだ。
付き合い始めの恋人達が傍から見ればど突き倒したくなるようなくだらない睦み合いをしているのと同じくらいいつものことだ。だが、


「棘がある。何。あの日?」
「怒りました。さようなら」
「ちょ…どこに行くんだ!」


銃をしまうな!
冷たい鉄の塊でも向けられないよりは何ぼかマシだということをロイは身をもって感じた。
頼むから視線も逸らして存在ごと私の前から消えようとするな。


最後のぬくもりを求めるように、離れていくリザの腕を思い切り掴んで引き寄せる。
反動を利用して身体を反転させ、一度きつく抱きしめてからいっそ乱暴とも取れる勢いでよれたシーツの上に押し倒した。
ムッとした彼女の視線がロイを射る。
ああもうそんな視線がいちいち苦しい。


「あの日の私なら興味はないでしょう。他へどうぞ」
「今日は違うだろ。それに君が生理でも私には関係ない」
「配慮ないじゃないですか」
「わかってないな」


幾度も見慣れた赤黒い液体。
そんなものを月に一度の周期で吐き出さねばならない女の身体には心底辟易するというのに、それでも君から流れる液体なら、闘牛の気持ちが良く分かるよと耳元で吐き出した気持ちに嘘はない。
こんな素直に抱きたいと思って抱くことなんて他にない。
真摯な気持ちで女と接する。
これを安易な配慮なんかで括らないで頂きたいね。


抱きながら他の女に影を重ねて終わったあとに虚しくならない女性は君だけだ、と言っても、絶対に信じないであろうリザに口付けて、ロイはいまだ銃を握るリザの指をなぞった。
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