目覚めた後の独特な倦怠感と疲労感には覚えがあった。
覚えがあるだけで久しく経験のなかったこの感覚に、必要以上に脳を刺激されているのは分かったが、
耐性が薄くなったのかもしれないと思い直す。
ただし、明確に思い出すには、頭の芯がぼやけていて、名称を与えるまでにはまたしばらくの時間を要したのだけれど。


 列車でGO!2

(二日酔い――――……)


こんなになるまで飲んだ自覚はなかったのだが、現実に今の状況を考えれば、それ以外の名称をヒューズは思いつけなかった。
寝返りを打つのも億劫だと訴える体で、近過ぎる天井を凝視する。
所々薄茶けたクロスが、時たま覆い被さってくるような錯覚すらあるのは、尋常ではない。
左腕に巻いた時計を見るのも面倒な気がしたが、目的地到着までは確かそんなに時間があるわけではないということは理解していた。
静まり返り、車輪の音だけが鼓膜に響くベッドの上で、ヒューズは今よりも確実に意識のはっきりとした過去を、
記憶の片隅から掘り起こそうと眉を顰めた。


(昨日……そうだ。ロイがリザちゃんを無理矢理連れて来たって……あー…ケンカしてた…よな?)


そうだ。確かに二人はケンカをしていた。
諌めようとしたヒューズさえも半ば強制的に巻き込んで、親しいものにのみ見せるロイらしい我儘と、他ではあり得ないほど感情を顕わにしたリザの口論が見物といえば見物だった。
あれからどうなったのか。
せめてロイをどうにかしようと思ったことだけは覚えているが、酒の所為かヒューズは覚えていなかった。下のベッドで寝ているはずのロイの気配が感じられないことに、まさか朝帰りじゃないだろうなとヒューズは眉間の皺をさらにこくして耳をそばだてた。

リザへのあてつけのように、昨夜あからさまに給仕の若い女に声をかけていたロイを思い出す。
洒落になんねえぞ、と胸中で毒づいた。
リザがまだ起きていないようなら、このだるさがとぐろを巻きつけている体に鞭打って、気づかれないようロイを連れ戻さねばなるまい。考え、ヒューズは斜め下のベッドにいるであろうリザの動きに意識を傾けた。衣擦れの音が聞こえる。
いる。
――が、いつ起きるとも知れないではないか。

うかうかしてはいられないと、身についた鋭敏さでなるべく不自然ではない音を立てて、ヒューズは起き上がった。
一瞬頭が揺れる。
悪酔いにも程があると自分を叱咤して、パーテッションに手を伸ばし――――


「――……」
「――――……んッ、もう…ダメで……」


咎めるにしては随分甘く、しかし聞き覚えのある女の声を耳にして、ヒューズの動きが固まった。
顰められたリザの声音が普段より幾分か高く響く。被るように他の――男の息遣い。
それはあきらかに情事の名残を感じさせて、ヒューズは頭を抱えたくなった。
男の低音の声は何を話しているのかまでは聞き取れないが、リザはあきらかに困惑しているらしい。
しかし拒絶しているわけではないことくらい、嫌というほど良く分かる。


(おいおい、ロイ……早く戻れって……)


親友の子供くさすぎた言動が、リザの呆れを一足飛びに通り越し、どこぞの給仕を連れ込ませてしまったらしい。
せめて自分が酒に飲まれてこの体たらくでさえなかったなら、と思うと、口惜しさでヒューズの口から変な呻きが漏れ出てしまった。
――途端、リザのベッドからピタリという音を伴うかのように一切の気配が掻き消えた。


「…………」


気づかれたらしい。
どうするべきか。
恐る恐る空間を隔てる薄っぺらな布地にかけたままの手を引いて、ヒューズは視界を広げることを決めた。射し込む朝日に一瞬目が眩む。が、斜め下から動きを感じて、ヒューズはそちらに視線を動かした。そろりと無骨な手が布地を引くのが見える。
徐々に明けられる中に、それと比べて随分華奢なリザのものだろう腕も、緊張で固まったままの状態で視界に届く。


「――――――――あ」


動いた男の腕の先に、見覚えのあり過ぎる人物の顔を見つけて、ヒューズは間の抜けた声をあげてしまっていた。
開いた口が塞がらない。
ヒューズと目が合った瞬間に、それこそ「ボッ」という音を立ててリザの顔が燃え上がったのが見えた気がする。しかし直後にベッドへと勢いよく突っ伏してしまった彼女の表情が、それ以上ヒューズの視界に映ることはなかったのだが。ともすれば空気ごと固まってしまいそうな二人の雰囲気を打ち砕いたのは、昨夜とは打って変わって、上機嫌この上ないにやけたヒューズの親友の口が弧を描き、実に嬉しそうに発した一言だけだった。


「悪い、リザ。薬が切れたみたいだ」






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こういう場合。
見てないフリを決め込むのが適当だと思うのだが、当事者の片方がこうまであからさまに「何かありました」と全身で表現されていては、大人の常套手段は使えない。
目前に広がるいっそ清々しいまでの笑顔を貼り付け、「心配をかけたな」と悪びれず言うロイとは対照的に、その横で相変わらず下を向いたまま、まともに言葉を紡げないでいるリザを前に、
情が厚いと自負するヒューズはどうしたものかと頭を抱え込んでいた。
昨日は思春期の息子に悩む父親気分だったのに、たった一晩で娘を持つ父親の気分だ。


(――――――エリシアには絶対寄せつけねぇぞ、こんな害虫!)


将来かわいい我が子の身にあり得たらどうしようと考えて、より一層こんな立場にヒューズを立たせた元凶に、暗澹たる気持ちで睨みを利かせた。
仲直りは素晴らしいが、その為に自分にしでかした事実もおいそれとは頷けない。


「――つまり、お前は俺に薬を盛った、と」
「言い方が悪い。抵抗もせずに飲んだのはお前だろう、ヒューズ。訂正しろ」
「抵抗する暇があるか!……大体なぁ、お前そんなモンどうやって手に入れ――」
「ああ、それは俺が作った。こう……パシッとな」
「作るな、んなもん!まだ頭グラグラするぞ!」
「……もう少し寝覚めはいいはずだったんだがな。随分昔に考えた構築式だから、ウロ覚えでやったのがまずかったのかもしれん。次は気をつける」
「せいぜい気をつけてくれ――――って違うだろ、おい」


爽快とは程遠いが、寝起き直後よりは大分スッキリしてきた思考を奮い立たせて反論を試みたが、あまり効果はないようだ。
ロイは口の端をにやりと歪ませて、隣で縮こまったままのリザを不意に抱き寄せると、米神の辺りにちゅと音を立ててキスをした。
掴めないロイの行動にリザが、過剰なまでの反応を返す。


「た――大佐ッ」
「あんなカワイイ声、お前に聞かせてやるわけいかないだろう」
「大佐!!」


(……ああ、まあ、確かに可愛くないとは言わないけどな。グレイシアには劣るけど)


先程寝起きにちらりと聞こえた睦言の名残のような甘い声音を燻る頭で反芻して、ヒューズは可哀想なくらい真っ赤な顔で両腕を震わせながらロイから離れようともがいているリザに、同情の念を禁じえなかった。
どう返したらいいものか、不自然な沈黙を保つヒューズにロイがピクリと方眉を上げる。
もがくリザの頭を慣れた手つきで優しく梳きすかしながら、ロイの声に険が入った。


「ヒューズ……お前、まさか本当に聞いたか?」


チッ、とヒューズの眼前で火花が散った。
いつの間に取り出していたのか、発火布を嵌めた掌がヒューズに照準を合わせている。
憐れなリザに思いを傾けていたヒューズの反射神経は鈍り、うっすらと空気の焦げた匂いに素っ頓狂な声があがった。


「どぅわッ!?やめろ、ロイ!仕方ねえだろうがっ。俺だってまさかお前とリザちゃんが――…」
「――――お、起きてらしたんですか!?」


ほとんど半べそに近い状態でリザが身を乗り出す。
おそらく今日初めてヒューズの顔を自らの意思で視界に入れたリザの顔が、一瞬真っ青になったかと思うと今度は瞬時に燃焼した。
ロイの腕を跳ね除ける。


「だから言ったんです!こんな――ッ……大佐の馬鹿!ヒューズ中……馬鹿大佐ッ!!」
「ああ、リザ。少し落ち着いた方がいい。今自分がどれだけ可愛いか自覚無いようだから」
「馬鹿ですか!信じられな……中佐、止めて下されば……違う、違います……私が、大佐――――馬鹿ッ!!」
「リザちゃん、本当落ち着いて――」


自分が何を言っているのか、興奮しすぎて分かっていないリザなんて、お目にかかれるものではない。癇癪を起こして上手く言葉が追いつかないリザをどうにか落ち着かせようと、ヒューズが口をはさみ、


「――まあもう済んだ事だし……君もお強請りしてたじゃないか。なぁ?」
「――――――ッ!!?」


火に油を注ぐ男だ、と落胆した。
その言葉に今までヒューズが知る限りで最も取り乱し、普段ならいくらプライベートといえどヒューズの手前では、頑ななまでに節度を守るリザが、ロイの口を大慌てで塞ぎにかかっている姿は、本当に二度と見られないかもしれない。
ロイの語尾がヒューズに向けて発せられたことも、リザの頭を沸騰させるのに一役買っていることに気づき、ヒューズは訂正を試みた。


「……いや、知らねえよ?」
「大佐!!――――……って、え?」
「いや、だから俺はついさっきリザちゃんの声が聞こえて起きただけで、その前はぐっすり眠らされてたみたいだし?その間に何があったかはぶっちゃけ何も」


知らねえんだわ、と付け足された言葉に、
ロイはあからさまに憮然とした表情で「紛らわしい言い回しをするな」と発火布をしまい、リザは一瞬ホッと息を吐きかけ、しかしすぐさま海老のように体を折り曲げ、自分の膝の上に覆い被さるようにして今さらのように表情を隠しにかかった。
おろした金髪がはらりと零れ落ちる。


「……………………り、えない」


窒息死するのではと危惧するほど押し付けられた足と顔の間から微かに聞こえたリザの声は、羞恥に震えて涙声だ。
さすがのロイも、リザの肩に手を添える以外になす術もない。
昨夜、ロイと何があったのか。
リザは自分で告白したのと同然だということに気づいたらしい。
ホークアイ中尉にあるまじき冷静さを欠いた状況判断だ。

声は声でも「あの時」の声をヒューズに聞かれたのだと思い込み、取り乱した挙句、お強請り云々の台詞すら否定できなかったのは、あり得ない大失態だろう。


「あ、あー……リザちゃん?いや、マジで俺何も聞こえてねえから。それにホラ――」


――グレイシアもするし、お強請り。



フォローのつもりで続けた台詞にロイが盛大に噴出した。
かくして、ヒューズに向けられるべきデリカシーの甚だしい欠如に対する怒りは、涙を湛えて震えるリザの手によって、それでも彼女を落ち着けようと紳士的に肩を抱いていたロイの頬を張り倒す、という結論に導かれたのだった。
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