正直のところ、惚れたはれたという感情は面倒くさいものだと思う。
昔、親友のマース・ヒューズにそう零したら、お前も相当面倒臭い、と一蹴された。
婚約報告を嬉々として告げる彼に、心からではあったが祝意を述べた後のロイの台詞に対して
妥当な発言だったといえる。


 シーソーゲーム

そんなことを思い出したのは、おそらく自分がそういった熱い感情の奔流に飲まれることが一般的に見てかなり少ないことが、今まさに証明されたせいだろうか。
少し前までロイの前でさめざめと泣いていた女の顔は、既にその輪郭すら薄ぼんやりとして思い出せなくなっている。そんな自分はやはり冷たいのだろうかと逡巡して、ロイは視線を相手の残したティーカップから視線を逸らした。
オープンカフェの背の低い柵越しに、休日の午後特有のゆったりとした風が流れている。
眺めていると、今目の前で交わした会話まで遠い昔の出来事のように思えてくるから不思議だ。
そういえば何故彼女があんなに怒る必要があったのか。
小さめの丸いテーブルに肩肘をつき、ロイは口の中だけで呟いた。

「――……わからん」
「私には大佐の言動の方が理解できかねます」

返答を求めないロイの独り言に、すぐ後ろから落ち着いた声が、しかしはっきりと非難の色を含んで聞こえた。
それをちらりと一瞥し、自分の前でひとつ空いた席を勧めたが、彼女は即座に断った。
入ったときと同様、ロイの後ろの席にいるつもりの彼女に多少の不満を感じて、面白みのない人の波に何となく視線を泳がせた。

「私の副官をしてるくせにか」
「プライヴェートは範囲外ですから」

背中合わせの即答に、何故だか無償に情けなくなる。
飲みかけの紅茶を持って、リザの前に同じように空いたままの席へと陣取った。

「だが君はセーラ嬢――さっきの女性だが――の言動は理解できてるんだろう?」
「同性のよしみで……というより当然でしょう。普通デートに別の女を連れて来られたら怒りますよ」
「君も?」
「面白くありません」

目線を合わせようともせずに言い切ったリザに瞠目して、少し面映ゆい気持ちになった。
まさか今のロイとの状態をリザがデートと称しているわけではないと知ってはいるが、この店でセーラと鉢合わせしたことを面白くないと称しているのなら、それはそれで悪くない。
ただし、リザの恋人が、という状況を想定しているのなら、著しく面白みが欠けるというものなのだが。

「誤解だけどな」
「誤解?」

リザの前に手付かずのまま置かれているスコーンの無断で頬張る。
その行為を咎めることもなく、小首を傾げて復唱したリザにも一口差し出すと、僅かに顎を引きつつ、それでも遠慮がちに口をあけた。

「そう、誤解だ。いくら私でも、デート相手を不快にさせるような手配はまずしない」
「彼女は思い切り不愉快だったと思いますけど」
「だから誤解だよ、中尉。まず街で君に声をかけたのは偶然だった」
「……でしょうね」

出会った状況を反芻しているのか、リザがちらりと空を見る。
それを確認して言葉を続けた。

「それにこの店に入ったのも――――というか、ここで彼女を見つけるまですっかり約束を忘れていただけだ」
「………………」
「やめてくれその顔――君、無声映画のスターになれるよ」

言い切ったロイに今日初めて視線をあわせたリザの瞳が、一言も発さないままロイを非難してみせる。何かを言われる前に、もう一度スコーンのひとかけを少し乱暴にリザの口へと投げ入れた。
無言のままに咀嚼するリザから視線を逸らす。
する必要はないのだろうが、弁解じみた台詞が口をついて出てきた。

「……ここのところ忙しすぎて太陽の光を浴びてなかったせいだよ、忘れたのは」
「どんな理由ですか、それ」

仕方のない、といった風に苦笑した雰囲気を敏感に察して、ロイが顔を上げる。
服務中にはあまり見られない、少し揶揄するような柔らかな表情のリザをみつけて、ロイも苦笑でそれに答えた。
他人と同じ時間と空間を共有している事実に戸惑いつつも、相手がリザだとそれが苦にならないのが不思議だと思う。科学者という性格上、不思議不自然なものへの探究心は強い方だと自覚しているが、何故だかロイは、この感覚にはあまり食指が動かなかった。
明確な原因を突き止めるのは、まだ先でもいいような気がする。

本音を言えば、セーラとの約束を完全に忘却していたわけではなかった。
ただ忘れかけていたのは事実で、実際に思い出したのが既に約束の時間を少し回ったところで、有体に言えば億劫だった。
その理由はおそらく、忘れていた、というよりリザの非難は濃かったかもしれない。
それに連日連夜たてこんだ事件の所為もあって、今回久々に取れたせっかくの休日を、出会ったばかりでこちらの顔色を伺う女然とした彼女に潰されるのが煩わしかったというのもある。
周囲がそうと思うよりも、ロイは自分が身勝手な男だと自覚していた。
さらにいえば、それでもとりあえずと出掛けた先で、偶然にも非番のリザを見かけた途端、すっかりセーラの存在が頭から抜け落ちてしまったのだから仕方がない。

「ところで中尉」
「はい」
「今日これからの予定は?」
「特には何も……ハヤテ号の食事を買って帰るだけです。そのつもりで出てきましたし」
「他にはないのか?例えば――……誰かと会う約束、とか」

あまりにも浮つかない返答に、ロイは軽い気持ちで質問を重ねた。
聞いてから、そういえば自分とは違い、リザの特定の恋人についての話など耳にしたことがないことに気が付いた。
もっとも根も葉もない噂程度なら、女性で尉官のリザをやっかみ半分で下士官たちが、そこはかとなく花を咲かせていないこともなかったが、それはどれもくだらない三流猥談の前戯みたいなものだったし、リザに直接聞くほどのことでもなかった。
大体そういった個人の恋愛ごとをいちいち上官に告げる義務があるわけでもない。
だから例えいたとして、それは個人の自由とプライバシーであるし、相手が武装テロ組織の一員だというのでなければ問題ないに違いない。
ただリザから、ロイはただの一度もそういったニオイを感じたことはなかった。

だから、次のリザの言葉に、ロイは一瞬らしくなく言葉に詰まった。

「今日はありません」
「――――――……『今日は』?」
「ええ。あればこんなにのんびりしてません」

今日は何もないですよ、ともう一度他意なくリザが言う。
ゆったりとした口調は、確かに時間に追われている雰囲気ではなかったが、だがその限定が気にかかった。
これは単なる上官が聞くべきことか。
そう自問している心とは裏腹に、口は勝手に動き出している。

「ならいつもは誰かと予定が?」

あると言うならどうだというのだ。
自問自答しつつ、この微妙な苛立ちは年頃の娘を持った父親の気持ちなのだと自分自身に言い分けた。そうでないなら、お気に入りの部下への独占欲が刺激されたか。
リザを女として見たことがないわけではなかったが、個人的な関係を持つ数多の女性として見たことはなかった。
同一視などできるわけがない。

「休みが変則的ですからいつもというわけでは――」
「だが休みが合えば会うんだろう?」
「会いますよ?」

それが何か、と付け足されそうな口調にリザの感情の変化は見て取れなかったが、それが余計に腹立たしい。
ロイの周りをゆるりと流れていた空気は一変して、一人胸のうちにわだかまってきた苛立ちと対峙するように眉根を寄せた。
それを目敏く見つけたリザが、ロイを呼ぶ。
大佐、と言われて、目だけでそれに返事を返した。
我ながら子供じみた所作だとは思ったがどうしようもない。

「まさか何年間もずっと、私は非番の日に部屋で一人引きこもっているとか思っていたわけではありませんよね?」
「いや……まあ……そうは、まさか」
「――大佐」

見当違いなリザの質問に、無理に乾いた笑いを立てて答えると、今度はリザの眉間に皺が寄った。
無論そうと思っていたわけではないが、誰かと約束をして抱かれる彼女を想像していたわけでも全くなかったと言ったら怒るだろうか。

「ただ、なんだ――……そう。休みもなかなかやれんから、会う機会は少ないとだな……」
「そうですね。私も本当に休みたい日もありますから、そう頻繁に会うわけでは。ゆっくりしたいときもありますし」

しどろもどろなロイの台詞に苦笑しつつもスコーンの残りを口に運び始めたリザに、ロイは知らずため息を吐いた。
良かった。
「本当は毎日会いたいですけど」等とはにかまれでもしたら、少し息苦しいところだ。

「軍人同士でも、部署が違うとなかなか会えないものですよね」
「――ぐっ、軍人なのか……!?」

さらりとふられた話題に思わず身を乗り出しそうになって、ロイは慌てて姿勢を直した。
表面上どうにか取り繕ってみたが、内心動悸が収まらない。
嫌な汗が出てきた気さえするが、それをリザに伝えたところでどうということもない。

「大佐?どうかしました?」

何でもないと片手を振って、悪びれないリザから視線を逸らした。
ごく自然な会話の流れから恋人の話をしているだけなのだと分かっているはずなのに、やり切れない苛立ちが澱のようによどんでいく。
それをはっきりと自覚して、ロイは大きく息を吐いた。

面白くない――――。

鬱々とした気分の一端は、この言葉に起因している。
妙に高揚した気分と奈落の底を這いずり回っている気分との狭間で、ロイが行き着いた先はそれだった。では何がそんなに面白くないのか。部下に恋人がいたこと、にではないと思う。
それではあまりにも狭量だと自嘲して、その可能性は切り捨てた。

「――東方司令部なんだろう?」

リザは部署が違うと言っていた。
ということは、東方で総司令の指揮を任せられているロイの管轄だということではないのか。
そうだ、とロイは合点した。
リザの相手が軍人で、しかも原隊が東方だというのなら、それは広義でロイの部下になる。
それにも関わらず何故情報が入ってこない。
そこが、全く面白くないのだ。

「……昼休みなら、少しくらい話せるだろうに」
「時間がそう上手く合わないんです。――資料提出ではたまに顔を合わせるので、そのときは少し」
「――――それは」


せっかく入った情報は、相手が事務官ということだけか。
どんな男が有能な副官を横から奪い去っていったのか、興味が湧いた。
それと同時に苛立ちが募る。
情報源がリザだというのが、その気分に拍車をかけた。
そもそもそう言って、少し照れたように目を臥せる仕草が気に入らない。
腹部と胸部を這い回る重苦しい何かが、意識とは別のところでロイを圧迫してくるのだ。

リザを見る。
無意識に常より剣呑な視線で彼女を捕らえている気がするが、対してリザのそれは、いつものポーカーフェイスの中に様子の違うロイを気遣う空気を混ぜた純粋な視線だ。
視線がかち合う。それが分かる。分かってしまう。

――ああ、そうか。
不意にすとんと胸を覆う靄が落ちていくのをロイは感じた。
ロイの澱んだ兇暴性を発芽させるのは、リザ自身では不十分だと自覚せざるをえなかった。
その視線も表情も、纏う空気も何もかも。
ロイへ向けるものではないことがあるといわれたことが、面白くないのだ、と気づいてしまった。

「それは――――それは職務怠慢だな」

今度はあからさまに不機嫌さを露呈してそう告げた。

リザをして、そういう表情を向けられる男が絶対的に気に食わない。
意識してしまえば、なんてことはない。
名前も顔すら知らない相手に嫌悪を覚えることも簡単だった。
こんな感情は、随分と長いこと経験していなかった所為で忘れていた。
思い出したところで、二人の関係が壊れることのないものだとロイは十分知っている。
それならばなおのこと。
なんて居心地の悪い、それでいて時代に流されない青臭い想いにつかまってしまったことか。

「……職務放棄した挙句、街中で女性を引っ掛けることより、
 職場ですれ違った友人と言葉を交わすのが職務怠慢だと?」
「そういう責任転嫁は君らしく――――……、『友人』?」

ロイの命令なら、例えどんな理不尽さにも絶対服従貫くリザが、明らかな不満の色を伴って発した単語を復唱して、ロイは今度こそリザへぐいと身を乗り出した。
その言葉にリザは僅かに眉を上げて、十分冷めて口当たりのさらりとした飲み物へと変化しているはずのティーカップを持ち上げた。小さくこくんと空気を震わせて、のどを潤す。

「資料部調査課のジェシカ=ラグナー准尉です」
「……君の男じゃないの?」
「嫌味ですか」

違うと言う間もなく、リザはさも当然というように言葉をつなげた。

「四六時中貴方の傍にいて、私は貴方ほど器用にできてません」

ムッとした、というよりは幾分拗ねた口調で告げられた台詞に、ロイは体中が一気に脱力するのを止められなかった。
前傾姿勢のままくず折れるように白いテーブルに接近する。
だらしなく伸ばした腕の側部にリザの腕が触れた。
かなりテーブルを占領する形で伸びている自分が滑稽だ。

「大佐?」

リザが訝しみつつも心配げに突っ伏したロイを覗き込んだのと、ロイが無防備に置かれたリザの手を掴んだのはほぼ同時だった。テーブルに押し付けた額はそのままで、離すまいとひやりとした彼女の指先に自分のそれを絡める。
突然のロイの行動に、しかしリザからの抵抗はなく、むしろやんわりと握り返されて、ロイはあやされているような気にすらなった。

「――中尉」
「はい?」

柔らかなリザの声が愛しくて切なくて、顔が上げられない。
様子の違うロイを宥めるように、掴まれていないリザの右手が、繋いだ手を甘く覆った。
今更ながら本気で思う。
他の誰にもやりたくない。
ロイは指先に力を篭めた。

「一生私のお守りでいてくれ」
「……一生ですか?」
「一生」
「…………」
「…………」

肯定も否定もしないまま、リザの右手がするりと離された。
かわりに頭に優しい感触。
よしよしと撫でられて、これではまるで字義通りの「お守り」だろうと、物悲しくなってきた。
その通りに理解しての行動ならば遣る瀬無い。
顔を上げるタイミングを逃して、しかし反発のつもりで絡めた指先に力を篭めれば、ふう、と呆れの色を滲ませた溜息がロイの頭上に落とされたが、返事の変わりに指を握り返されて、ロイはますます顔を上げるタイミングを逃してしまった。

だからこれは、本当に面倒臭いと思うのだ。
ここまで露呈させてしまった柄にもない態度と表情は、一体どうして取り繕えばいい?

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