「大佐?」
「……んー?」

たまに読む三文小説は意外に面白味を感じさせてくれるときがある。
自分で買った覚えはないから、おそらくヒューズあたりがわざと置いていったと思われる
息抜き用の軽小説という類のものだろう。
背中に感じる柔らかな重さより、幾分それに集中力を傾けながら、
それでもロイは背中越しにかけられた呼び声に、遅れて答える。
声の響きは切迫を要したものではなく、適度なまどろみを含んだ声音だった。
だから余計に、次の反応は出遅れた。

「恋人が浮気したら嫉妬しますか」
「…………なんで?」


 上手な餌のタイミング

背中に心地よい重みを預けたリザの口から投げられた質問の意図をつかみ損ねて、ロイはぐるりと顔だけ向けた。
腰を落ち着けているフローリングは日の光を十分に浴びて適度に温かく、気だるい眠気を誘ってくれる。ロイにじゃれ付いていたブラックハヤテ号に甘噛みされた手をそのままで聞き返せば、「どうしました?」とでも問うように、小首を傾げているリザの横顔が見て取れた。
少し細められた視線が妙にあどけなく、ロイの背中で陽気に誘われ意識が揺らいでいたことが分かる。その証拠に、リザの膝に置かれた小説は一向にページを捲られていない。


「うわき?」
「浮気。……定義が曖昧ですか?」
「――定義って」
「とりあえずそうですね……他の男性と親しく話すから初めて、二人で出掛ける。手を繋ぐ。腕を組む。キスをする。性交を――」
「――ま、待て待て待て!」


ブラックハヤテ号の口から自分の右手を救い出し、そのままの勢いで体の正面をリザに向けた。
不意にバランスを失ったリザの肩を両手で支えると、僅かに驚愕したようなリザの視線と目が合った。ロイの声に驚いたらしいブラックハヤテ号が、マテの号令を受けてしっかり不動の姿勢を保っているのを、一瞬遅れてリザが解いた。


「定義がどうこうじゃなく」
「やはりそれくらいじゃ大佐は平気ですよね」
「妬く以前に焼く。燃やす。いや、気化させる。大丈夫、人体の七割は水分だ。高温で一気に燃焼させれば問題は――……ってそうではなく!」
「はあ……」


反応が悪い。
きりっとし切れていないリザを見るのは特権のような気がして、案外ロイのお気に入りではあるのだが、会話の内容が内容なだけに、心ここに在らずの様子が
余計な猜疑心をむくむくと擡げさせてしまうことに気づいて欲しい。
意識を自分に留めようと顔を近づけ、ロイは恐る恐る口を開いた。


「――――……したの?浮気」
「……どうしてそうなるんですか」
「いひゃいよ、リザひゃん」


ロイの問いかけに、謂れのない嫌疑がかけられていると理解するが早く、リザの両手がロイの頬を抓り上げる。不快感を表しているつもりだろうが、可愛らしすぎる様に内心でほくそ笑み、ロイはやんわりとその手とった。


「どうして浮気や嫉妬が出てくるんだ?願望?」
「貴方じゃあるまいし。……相談されたんです、友人に」


恋愛相談を?というまた神経を逆なでしそうな一言は辛うじて飲み込んで続きを促す。
と、リザはロイの拘束からゆるりと抜け出して後ろのソファに腰をおろすと、話しはじめた。
手持ち無沙汰をブラックハヤテ号で紛らせながら、リザの足元で耳を傾ける。
どうやらリザの友人は、恋人に不満を持っているらしい。


「なるほど。恋人がどれほど自分を好きか確かめたい、ね」
「反対はしてますが……」

些細な、しかし切実な願いだということは認めるが、相手を信じる以外にないという確信の得難い結論しかありそうにない。積極的な言動で気持ちはかれる確証はないが、その気持ちは分かるということか。歯切れの悪いリザに頷いてロイは言った。


「妥当な判断だな。気持ちは分からんでもないが、逆効果も十分あり得る。第一、本当に愛されてなかったら無駄骨じゃないか」
「滅多なこと言わないで下さい」


男としてのあっさりとした見解に、リザが眉を顰めて牽制した。
しかし即座に否定しないあたり、リザの考えにもその可能性が全くないわけではないということだろう。ロイとの遊びに飽きはじめたブラックハヤテ号にボールを与えて、ロイはリザの膝に背を凭れた。


「で?彼女は浮気をしようと思い至ったわけか」
「いいえ。たまには彼にも嫉妬されてみたいということらしいですから、浮気は単なる手段の一つでしょう」
「最終手段にとっておけとでも助言すれば?」
「しましたよ」
「……」


さらりと返されて、ロイは少々面食らった。
リザも最終手段にとってあるのか?と思うと、陽気の中で冷や汗が出てきそうだ。
そんなロイの葛藤を知ってか知らずか、リザが組んでいた足をかえる。
それから前屈みにロイの顔を見据えた。


「――で、男性が妬くのはどんな場合かと思いまして」
「妬いてほしいの?」
「今後の参考に」
「何の参考だ、何の……」


わざとらしく唸ってみせれば、冗談です、とリザの人差し指がロイの眉間の皺をすっと伸ばす。
それに触発されて掴み取ろうとした手はするりと上手くかわされて、憮然とした気分でロイはリザに向けていた顔を逸らせた。


「まあ私は概ね、嫉妬はされる専門だからな」
「――無駄骨でしたか……」


至極残念そうに溜息を吐かれ、ふと嫌な予感がロイの脳裏を過ぎった。
勤務中に誘った週末の今を、リザがあまりにすんなり了承していたことを思い出す。
緩慢な動作で振り返り、上目遣いにリザを見上げた。


「君が今日の誘いに乗ったのは、もしかしてそれが目的だとか言うなよ?」
「…………」


ロイの台詞に否とも諾ともつかない表情で、体を深くソファに沈めるリザがつかめない。しかし横にあったクッションをさりげなく抱えたのは、隣に座れという合図なのか。床に座りっぱなしだった所為で少し重だるくなっている膝を軽く伸ばして、ロイはリザの隣に腰掛けた。


「リザ」


はい――という彼女の返事を待たずに、続ける。


「ちゃんと答えるから――――ちゃんとイチャついていけ」
「……とうかこうかん、ですか?」
「そう。等価交換」


少しだけ舌足らずな言い方は、ロイの機嫌を伺っている時のプライヴェートなリザの癖だ。
本人は無自覚なのだろうが、これをされるとどうにもロイにはむず痒い。
女に子供扱いされるのは好みではない。だが甘やかされるのは嫌いじゃない。
わざとぶっきらぼうに答えると、了承の証しにリザの方からロイの肩に頭を寄せてきた。
――リザに甘やかされるのはむず痒い。
このまま寝るなよ、とリザの耳元で囁いて、彼女の頭に顎を乗せて引き寄せた。

黙って体を預けているリザの視線を頬に感じる。
ふうと聞こえないように小さく息を零して、ロイは嫉妬について口を開いた。


「――……例えば、根本的に男は独占欲とプライドの塊だと思えばいい」
「ろくでもないですね」
「まあな。だが本質はそんなものだ」
「知ってます」


それは一体誰との経験で出てくる言葉だ。
ろくでもないとリザが称した人間の本質を教えたのが自分であって欲しい、とロイに思わせているとは露ほども感じていないリザの髪を乱暴にかきまわすと、リザは小さく唸って抵抗した。
ムッとして睨みつけるリザに両手を上げて、体を離す。


「だから――他の男の影をにおわせるだけでも効果的なわけだ」
「におわせる……ですか」


会話を続ければすぐさま、例えば? と聞いてくるリザにすぐさま具体例が思い当たって眉根を寄せた。


「部屋に見覚えのない男物の傘があったら内心折ってやりたくなる、とか」
「家族のものかもしれないのに?」
「不確定要素は面白くないものだからな」
「疑心暗鬼もいいとこですね」


例えば先日リザの部屋の玄関先に立てかけられていた濃紺の傘は、確実にロイの不機嫌さを煽っていた。その理由がロイの良く知る同僚からたまたま借りたというものだったとしても、女の友人に借りれば良かったと思ってしまう。
それを態度に出して地団太を踏むような真似はさすがにしていないが、だがあまり面白くはなかったのだと、おそらくリザは気づいていない。
そういうものなんですか、と呟くリザは、単純にその状況に思考を巡らしているように見えた。


「内心、面白くはないというだけの話だよ」
「そんなものですか」
「単純だからな」


言ってロイは一度席を立つと、キッチンでグラスに冷たい水を注いでソファへと座り直した。
一つをリザに渡して、自分も喉を潤す。空になったグラスはまだひやりとして、気持ちよかった。
リザの足元で体を投げ出すようにしているブラックハヤテ号は、
何時の間にかボールに飽きて眠ってしまったらしい。


「まあ、釣った魚に餌はやらないなんてのもよく聞く例え話だが、他の奴にこっそりやられて気が付けばそいつに懐いてた、なんて結末は最悪だろう?」
「嫌ならちゃんとやればいいんですよ、餌」


手の中で転がしていた空のグラスを取って、自分の分と一緒にテーブルに置くと、リザは音にピクと反応したブラックハヤテ号の頭を撫でる。
少し突き放したような言い方は、女との付き合いを魚釣りに例えたロイに対する不満かもしれない。
前屈みで犬にかまけるリザへ、揶揄する口調で聞いてみる。


「うっかり忘れてた、だったらどうする?」
「自業自得です」
「私はきちんとやるよ」
「大佐はフェミニストですもんね」
「…………」


これは妬いてる――――とは違うような。
即答されて、一瞬ロイは頭を抱えた。
リザの声音は全く平坦で、むしろ「貴方が取られるようなヘマをするたまですか?」と呆れの色さえ見て取れそうだ。
仲間内で言われた台詞ならふんぞり返ってみせるところだが、二人の関係でその反応はちょっと違うんじゃないのかと思ってしまう。一通りブラックハヤテ号を触り終えたリザに、他にありますかと聞かれ、釈然としないままロイはしばし考えた。

「――それから、そうだな。雄の狩猟本能を刺激してみるとか」
「どうするんです?」
「逃げられれば追いたくなる。他の男に興味のある振りをしてみるのも手かな」
「……?」


浮気は最終手段といいながら、浮気の手前を勧めるようなロイの口調に、リザが疑問の視線を投げる。それを受けてロイは「あくまでも振りだ」と付け加えた。


「ほめるとか見てる前で親しく話をするとか……そんなものでも男の自信など簡単に揺らぐ」
「おちおち職場で会話もできませんね」
「君はしてるけどな」
「はい?」
「――何でもない」


まるで他人事のようなリザの口調に思わず本音が漏れて、ロイは慌てて口を噤んだ。ふいと片手で顔を覆ったロイを訝しげに見つめるリザの矛先を変えようと、鼻で大きく息を吐き出した。


「いずれにしても程々に。君の友人に助言するなら、細かいことよりこの一言で足りるんじゃないか」
「……ですね。参考になりました」
「――何だ?何か言いたそうだな」


横目でリザを見やればそれまでロイの話しに耳を傾けていた彼女が、もの問いたげな視線を向けている。何かを言いかけて途中で飲み込んだような彼女の言い方に引っ掛かりを覚えて、問い掛けた。


「そんなことは……貴重な意見だなと」
「気になるじゃないか。何?」


珍しく口篭もったリザの髪に手を伸ばしてこちらを向かせると、逡巡したリザが一端視線を下げて、それから再びロイに合わせた。


「本当に大したことではないんですけど」
「うん」
「今のお話は大佐の経験談ですか?」
「…………何で?」
「妙にリアリティーがあったものですから」
「…それで?」


単純にリザの台詞を文字面だけで取るならば、もしかして嫉妬ですか、と聞けないこともないのだが、そうは思えないのは、淡々とした口調の中に見える好奇心に他ならない。
仲の良い男友達に問い掛けるような気軽さが、逆にロイの胸中にむっとした空気を吸い込ませた。


「――大佐も、女性で苦労されることがあるんだなと思いまして」
「それだけ?」
「?ええ……何か?」
「どこの女性に、とは聞かないんだな」
「大佐?」
「君の場合は――」


――苦労させている本人が何を呑気な。
ロイは覗き込むようなリザの視線をわざと避け、進入を拒絶するように背を向けた。


「フリなのか本当に興味がないのか分からなくなるよ」
「……大佐」
「……」
「大佐」
「…………」


年甲斐もなく拗ねている自覚は十分にあったが、呼びかけに応じる素振りは絶対に見せない。
名前で呼ぶくらいすればいいのに、頑として階級呼びを貫くリザに、さらなる決意が高まった。
謝る、などということは露ほども期待してないが、 慌てるフリでもしてくれれば少しは矜持が保てるものを。
だがリザの場合、さっさとロイを諦めて、
また読みかけの本に興じるという可能性が必要以上にあるところが辛いところだ。
しかし、


「たいさ」
「…………」


黙ったままのロイにリザが無意識ではなく甘い声を出したのだと、何とはなしに気づいたが、初めにその気をなくさせたのはそっちの方だと胸中で毒づいて、そ知らぬ顔を決め込んだ。
その手には乗るか。
胸の前で組んだ腕に触れるわけでも、耳元で囁きかけるわけでもなく、ただ普段と打って変わった甘い声を出されたくらいでは靡けない。意地になりかけている無言のロイの背後で、リザの動く気配がした。ソファの軋む皮擦れの音と、ロイを沈める重力の移動がそれを知らせる。


「イチャつかなくていいんですか?」
「君を誘ったのは、別にそれが目的だったわけじゃない――」
「たいさ」


リザからの思いがけない誘い文句を拒絶したのは、思えばこれが初めてだった。
言った後に、どうしたものかと思考を巡らせようとした瞬間、柔らかな金糸がロイの視界に揺らいだ。
肩口にシャツの上から湿った空気。


「――――私はそれも目的だったんですけど」
「――――――」


甘噛みされているのだと気づいたロイを、聞いたことのない拗ねた甘さを持つ響きで、リザが見つめていた。
首を回すと頬にリザの額が当たる。
肩に当たっている歯を完全に離さないで喋るリザに、ロイは体を反転させた。
それと同時に襟首をつかまれ、リザの方へと倒れこんだ。


「釣った魚にエサ、くれないんですか?」


子供っぽさと大人の女の狡猾さというアンバランスさを宿した瞳で間近を覗かれ、首に回された細い腕に導かれて、今度はロイがその肩口に顔を埋めた。
まいった。
これではどちらが魚だか分からない。


「……君の餌付けには頭が下がるよ」
「ヤキモチ焼くのも程々に――が良いんでしょう?」


クスクスと楽しそうに笑うリザに苦笑して、ロイは「降参だよ」と囁いた。


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