** CHILDHOOD ** ――どうしよう。 ほの暗く湿った空気の充満する書庫で、意識を浮上させたリザは、危うく不様にも声を上げてしまうところだった。 混乱で散乱した記憶の欠片を拾い集めて、必死で状況の収拾に努める。 多くの錬金術師たちの例に漏れず、研究書が収められているこの家の中で、だが特に出入りを禁じられているわけではないこの書庫は、数少ないリザの秘密の隠れ家だった。 本に埋もれるようにしておざなりに設えられた小さな机や埃を被ったソファが、風景にすとんと嵌まっていて、不思議と気分が落ち着く場所だ。 何が出てもおかしくなさそうな荒廃具合も、子供の好奇心をくすぐるには充分過ぎた。 それにここの蔵書は父は既に読み尽くしているのだろう。 もう随分前から滅多に使われないこの部屋を、それこそ自分専用のサロンのような気持ちにさせていたのかもしれない。ここで起こる様々な不思議を想像しては、その全てを味方につける空想に耽りながら、まどろみに誘われたことを今更ながらに思い出した。 いつもなら、時間の経過が適当な肌寒さでリザを起こしてくれるのに。 「……なんで」 ノースリーブで剥き出しの肩にかけられた、自分のではない上着の端を気づかれないようそっと掴んで、リザは心中で毒づいた。 頬に当たるのはソファの冷たい皮の感触ではなく、常に熱を発する大腿筋の固い温かさだ。 膝枕をされている。 それに気づいたとき、犯人は父かとリザは思った。 それ以外に、この家で寝惚けたリザの思考に入る人影はない。 だがすぐに、それはあり得ないと打ち消した。 今までの微笑ましい幼少期を振り返っても、寝ている自分を放置することはありこそすれ、何の意図もなく膝を貸すなど、そんな紳士的な振る舞いは想像できない。だとすると、こんなことをする相手は、リザの脳裏にたった一人しか浮かばなかった。 「なんで膝枕なの」 ロイ・マスタング――父の弟子の少年だ。 年上の少年に膝を借りていると思ったら、何だか急に恥かしさがこみ上げてきて、リザはどうしよう、とスカートの中で足を捩った。 「……ん」 不意に頭上で聞こえた声に、リザの肩がピクッと跳ねた。 まずい。起きたことがバレただろうか。 いや、それよりこのあと彼にどんな顔をすればいいのだ。 ぐるぐると頭を回転させていたが、それ以上ロイが言葉を発することはなかった。 良かった。ほ、と息をついて、リザはゆるゆると瞼をあける。 眉を寄せた薄目で辺りを見ると、窓の外が橙がかって、ここにきてから相当な時間が経ったことを知った。そのまま、なるべく頭の位置を動かさないようにしておそるおそる視線を上げると、ロイがソファの背に凭れ掛かり、天井を向いているのがわかった。 その顔に、おそらくいい匂いのするわけのない分厚い本が広がっている。 どうしてそんな首の痛くなる体勢をわざわざ。 姿勢の原因はつかめなかったが、先ほどの鼻にかかった声といい、ロイは寝入っているのかもしれない。 だが、自分が彼の膝に寝転がっているこの状態で起こしてしまうのが怖くて、リザは起き上がることも出来なかった。 ロイの眠りがどれほどのものかまるで見当もつかないから、寝返りを打つことも出来ない。 緊張でバクバクと脈打ち始めた心臓を必死でおさえこみながら、リザはまんじりともせずに、視線だけを動かしていた。ロイに膝枕をされるなんて初めてだ。 彼がリザの家に来るようになって久しい。 確かに一緒に食事もするし、雨の日に傘を忘れたロイを駅まで迎えに行ったこともある。 徹夜明けで風呂を勧めたリザに従ったロイが中々出てこず、湯船で寝入っていた時には、羞恥より先にリザは慌てて浴槽に入った。湯気に反響する大声で父を呼んだのは、後にも先にもあれしかリザの記憶にはない。 「…すごいことをした、のかも」 今更思い出すと、湯気で煙った空間で、服の上から濡れ鼠になった自分に抱えられて這い出したロイの感覚がまざまざと蘇り、リザは思わず掛けられた上着に顔を埋めた。 ああもう、こんな時に思い出さなければ良かった―― 「――っ」 というのに、息を潜めていた頭に、不意にロイの手が降ってきて、リザは思わず喉の奥で悲鳴を上げて飛び起きた。 「ちょ、リザっ」 「え――あ、きゃあ!」 あまりの驚きに床に落ちた。何てことだ。恥かしい。 リザの転落に一拍遅れでずり落ちた分厚い本が、リザのかわりにロイの膝へとボスンと収まる。 リザの頭へと置かれるはずだったロイの手は、そのまま空間で固まっていた。 「――……」 「……」 ひったくるようにして掻き抱いたロイの上着に鼻を埋めるリザは、耳まで真っ赤になってしまった。 二人の間に落ちた沈黙を先に壊したのは、堪えきれないロイの忍び笑いだった。 「――くくっ……君、寝相いいのに、寝起きは案外悪いんだな」 「ち、違います!」 目元までロイの上着を持ち上げて、リザはきっとロイを睨んだ。 一体どんな寝起きだと言うのだ。 小馬鹿にされてむくれたリザに、ロイが喉の奥で笑いを必死に押し込めながら、リザに右手を差し出した。一通り息を整えてから微笑んだロイの瞳が笑いの名残で潤んでいる。 向けられた顔に夕日を映して柔らかく微笑むと、叩き落すつもりで伸ばしたリザの手が躊躇う間にすっと取られた。強い力で抱き起こされる。 「さて、そろそろ夕食の時間かな」 ぽんぽんと頭に置かれたロイの手に不機嫌さをあやされているような気になって、気恥ずかしさより何故だか腹立たしさが先にきた。リザは今度こそその手を叩く。 「勝手に人の頭に乗せないで下さい」 「今度からは了承を取ろう。リザ、触っても」 「――許可しませんっ」 叩かれた右手の甲を擦りながら、わざと真摯な表情を向けたロイの目の前でリザは扉を思い切り閉めた。遊ばれている。いつかこの礼節をわきまえた不遜な彼を、どうしてやり込めてやれるだろうかと考えながら、胸に抱えたロイの上着に力をこめた。 |