** ブーケ ** ――いつまでも震えてばかりではいられない。 受話器を置いて、愛犬の温もりと痛いくらいに叩きつけてくる尻尾の愛情に勇気を貰い、私はようやく軍服を脱いだ。 着替えて簡単な食事を作る。 空かない胃に無理矢理押し込んで、だが満たされないのは仕方ないだろう。 眉を寄せて、今日自分の身に起きたことを反芻してみる。 おそらくは陣地の中枢に触れることに成功した。――いや、今の私たちの態勢を考えるなら、触れてしまったと言うのが正しい。 特に私は、これからどうすれば彼の役に立てるだろうか。 目蓋を閉じて真っ先に浮かんでくるのは、情けないことに恐怖以外の何ものでもないというのに。 平面にあるはずの影が、音もなく忍び寄ってくる恐怖。 絶対的不可避の者への本能的で根源的な恐怖だった。 理屈ではどうしようもない相手に絡み取られて、冷たい死の誘いを告げられて―― 「――っ」 気づけば、私は肩で荒く息をしていた。 クン、と鼻を鳴らすハヤテ号にさえびくりと反応してしまった。 常にない私の態度に何かを察したのだろう、私に伸ばされていた鼻先が止まる。 伺いをたてるように耳を伏せ、低い姿勢から見上げられた。本当にいい子。 「ごめんなさい。大丈夫よ。……おいで?」 手を出すと、そっと指先に触れてくれた。 私を驚かさないようにとの配慮が感じられて、気遣いに自然と笑みが零れた。 「あなたがいてくれて良かった」 段々と調子付いてきたハヤテ号が、椅子に背伸びをして撫でてくれと催促する。 頬や喉元をいつもより念入りに撫で回してやると、余計背伸びをして、顔を舐めようと必死になった。 ――と、その時。 不意に玄関のチャイムが鳴って、私の体が跳ね上がった。 喉に張り付いた悲鳴をどうにか飲み込む。 そんな私に驚いて、ハヤテ号が後退った。 素早く銃を取って胸に引きつけると、染み付いた動作で玄関に進む。 「……はい」 「夜分に申し訳ありません。花屋です」 「――大、佐……?」 緩みきらないまでも、筋肉が弛緩する音が聞こえた気がする。 そういえばとハヤテ号を振り返ると、お行儀良く床に座って、来訪者を迎える準備は整っているようだった。 扉の向こうの不審者に吠える気配は全くない。 それでも念のためにスコープを覗くが、やはりそこにいたのは見紛うことなき大佐だった。 といっても、言葉どおり花屋にでもなるつもりか、両手いっぱいに抱え込んだ花たちのせいで、顔の半分は埋もれていたが。 「……何をなさっているんですかっ」 チェーンを外し、玄関先に招き入れると、思わず声が大きくなる。 今の互いの状況や関係、その他諸々入り乱れた感情の結果だ。 しかし彼は私の苦言などまるで意に介さずに、持っていた花束を無造作に放ると、 「言っただろう? 貰ってくれ」 そう、しれっと言ってのけた。 「だから花瓶はありませんと――」 「まあまあ。バケツでいいだろ」 口調だけ笑いながら、大佐の指が私の頬に添えられた。 指先が触れた場所に、忘れかけていた痛みがチリリと走って、咄嗟に身を引いてしまう。 だがほとんど同時に腕を取られて、距離を置くのに失敗してしまった。 大佐の視線が私についた痕を確かめるようになぞっていく。 「花瓶がいいなら買ってこよう」 「いえ――」 「――バケツもない?」 手首に残る痕に行き着いて、大佐の目が細められた。 軽い調子とは裏腹に、剣呑な視線が向けられる。私はさっと視線を逸らして、答えられない追究から逃れようと必死だった。 「――大、佐!?」 だがいきなり抱きすくめられて、私は反応に戸惑った。 次の瞬間、彼の肩越しに見えたダイニングテーブルの脚の影に、言いようのない悪寒が走る。 『私はいつでも貴女を影から見ていますからね』 脳裏に伸びる触手が浮かび、愉悦すら感じるあの声が蘇える。 いけない。 私は咄嗟にそう思った。 「――だ、ダメです!」 今までにないくらい本気で彼を突き放そうとして、しかし思った以上に強い力で押さえられて適わない。 さっきの今で、私の傍は危険に過ぎる。 監視の恐怖は独りの時ばかりだと考えていたが、今はそれより怖いと思う。 今はまだ、知らせることすらできないのに。 不安で怯える気持ちと、護りたいと思う相反する気持ち。 それに全てを伝えられないもどかしさで、次第に混乱していく私を抱く大佐の手に力がこもった。 「バケツもないなら吊るせばいい」 「え?」 軽い口調と真摯な抱擁がアンバランスだ。 大佐の肩に鼻から下を押し付けられたままで問い返す。 「花を飾る方法なんて、君が思う以上にいくらでもある。だから――泣くな」 「――」 泣いてません。 そういう代わりに、私は花の香りが染み込んだ彼のベストをぎゅっと握る。 言えないもどかしさも、迫る恐怖も、何ひとつ変わらないはずなのに。 必要な場所が繋がっていた。 そんなことを改めて思い知らせてくれる。 「……お花、頂きます。意外と長くもちそうですから」 「それは良かった」 持ってきた甲斐があったよ、と耳元で微笑されて、迂闊にも視界が滲んできた。 |