Please let me protect XXX.――2





電話も手紙も――――――――彼女との遣り取りは何も。



何も変わったことはなかったはずだ、とロイはこれまでの記憶を懸命に遡っていた。
昇進を餌にした上からの圧力を正面から受け止めて、これまで以上に書類処理も真面目にこなしてきた。
それでも彼女の負担は東方にいた時とは比べようもないものだっただろうことは知っている。
しかしそれを不満に思うような彼女ではなかったし、第一そんなことは関係ない。

こんなに二人が離れて仕事をすることになったのは、イシュバールの戦いで共に行動を起こし始めてからは確かに初めてだったかもしれないが、
だからこそ今まで以上に連絡も緊密にしていたし、揺ぎ無い関係が自分たちの間にはあると信じていた。

信用、信頼、敬愛。

それなら確かに今もここにある。
一年近くも離れていても、変わらない関係がここにはある。

だが。


「産休とはどういうことだ、ハボック」
「生まれたんスよ、子供」
「誰の」
「中尉の」
「…………私は普段ミディアムレアが好みなんだが、たまにはウェルダンも悪くない。お前はどう思う?」


久し振りに目の前に立つ長身の部下は、さして変わった様子もなく、平然を装って起立している。
ロイはふと溜息をついて、ハボックに意見を求めた。
聞きたいことを全て知った上でこの会話をしているのであろうハボックに訳もなく腹が立つ。


「私がここへ戻るなり耳にした噂は何だったと思う?ああ、ブレダ少尉の彼女が実はスーパーミラクル美女だなんて事ではないぞ。お前のよく知っている私の補佐官の噂だ。妊娠?出産?まさに寝耳に水だ。だが注目すべきはそこじゃない。それ以上に面白い話題を耳にした。その相手の名前だよ。誰だか知ってるか?お前も耳にしたことくらいはあるだろう。確か、あー…そうそう。“ジャン・ハボック”とかいう男らしい。知っているか?どうやら金髪の男らしいんだが、私の記憶には炭化した人型しか浮かばない」
「――ちょっ、タンマ!いきなり母子家庭はかわいそうっス!!」
「心配するな。軍属者の死後は家族への手当てが厚い」


本気でハボックを消し炭にする気はさらさらなかったが、ロイに発火布をはめた右手を差し出されて、
いつも飄然としているくせにこういう時だけクソ真面目に受け止める部下が、いっそ憐れだとも思った。
火の点いていないくわえ煙草を床に転がしてしまったことにも気づいていないだろうくらい青褪めているのを、ロイは無性に冷めた頭で捉えていた。

自分は疲れている。

そう確信していた。
一生の内ではほんの些細な出張ではあったが、漸く人心地つけると帰還してみれば、こんな胃の中が淀むような三面記事な出来事を知る羽目になるなんて。
何に対しての疲労なのか考えられないくらい、酷く、疲れているのだ。


「――――冗談だ」
「……は?」


ロイは目の前でちらつかせていた発火布に視線を落とした。
有体に疑問と不安を貼り付けてロイを見つめるハボックに掲げた右手をぷらぷら振って、外す。


「本気で消し炭にするわけがなかろう。たかが――――――そんなことで」


そうだ。そんなことだ。
これからの業務に何ら差し支えなければ瑣事なのだ。
しかし言った台詞に無意識下で眉がひくりと引き攣ったのをロイは感じて、胃の中がまたうねりをあげた。


「……いいんスか?」
「良いも悪いもお前らの問題だ。私に許可を求めることか?」


職場恋愛は御法度、というナンセンスな規定を設けたつもりはさらさらない。
さもありなんな返事をつまらなそうに返してから、知らず握りしめていた発火布を引き出しへ仕舞う。
安堵と疑問が綯い交ぜのハボックへ戻るように指示を出すと、ロイは背を向けた長身の部下から目を逸らした。
両手をしっかりと組み直す。

ハボックは必要な部下だ。そう、リザと同様に有能で、有用だ。
失うわけにはいかないし、そのつもりもない。
だのにこのままその背を見ていれば、如何ともし難い感情に支配されそうにな自分に気づいて、ロイはさらに視界を閉ざした。
扉の前で一旦振り返る気配でロイはぼんやりと敬礼をするハボックに再び視線を向ける。
普段の気だるさの中に、僅かな緊張感が感じられる表情を笑い飛ばしたくなった。

そんな顔をするくらいなら何故。




          ―――― コン コン コン




嘲笑が口の端に乗る寸前、耳慣れた音が鼓膜に響いた。
ああ。この音は知っている。


「入りたまえ」


誰何の声をあげることもなく答えて、ロイはそこにまだハボックが立ち尽くしているのを思い出した。
なんて間の悪さだろう。
ハボックの顔がそう告げていた。
扉の向こうに凛とした姿勢で立っているであろう人物が浮かんだのは、ハボックも同じということか。
おそらくポーカーフェイスと名高い自分の顔も、一皮向けば同じ表情に違いないとロイは内心で嗤う。
ロイがそう感じる必要性はないというのに。


「失礼致します――あら、少尉」
「やっぱり……!?まだ休暇のはずじゃなかったんスか」
「ハボック、戻れ」


ごく自然に言ったつもりだったのだが、何かまずかっただろうか。
逃げるように立ち去ったハボックと入れ替わりに、聞きなれた溜息が聞こえてロイは肩を竦めた。
目が笑えていなかったのかもしれないな、と己の未熟さを恥じる。
しかし二人がすれ違い様、そこに秘密を共有する者達特有の何ともいえない空気が充満した気がして、
ロイの感覚を圧迫したのだから仕方がないといい訳にもならない判断を下した。

一年は長い。
帰ってみれば、ロイの不在を知らせるように、知らない埃が知らない場所に舞っているし、
異動者の名簿も新しく、これから目を通さねばならないのかと考えると気分が滅入る。
新しい人間関係は見極めが肝心なのだ。信頼は一朝一夕で得られるものではない。
だが、その信頼を裏切らない見知った部下の見知らぬ関係には、どうにも釈然としない苛立たしさを感じてしまうのだ。
この感情を何と表現すれば良いのかは判然としなかったが、ただ苛立つ。


憤怒、侮蔑、嘲り、後悔、悲哀、失望。
どれもしっくりとこない感情だ。

強いて言うなら、そう ―――― 喪失。


とらえようのない空間に放り込まれたような異質感とでもいうのだろうか。
足場が揺らぎ、吐気を含む軽い眩暈に襲われた錯覚は、わずか一瞬の間ではあったけれど。


「やあ中尉。君、産休じゃなかったのかね」


哀れみを込めた視線でハボックの去った扉を見つめていたリザに、多少の嫌悪感がこみ上げてきたが嚥下する。
以外にあっさりとその言葉を言えた自分に瞠目して、一つの諺が浮かんだ。
案ずるより産むが易し。
皮肉なものだ。


「大佐が戻られると聞きましたので。……お久し振りです
「――本当にな」


模範のような敬礼の後、薄く微笑を浮かべたリザに、先程とは違う意味で眩暈がした。
そこに甘やかな色を感じ取った気がしたのは、ロイの気のせいなのだろうか。


「少し、お痩せになりましたか?」
「君は変わらんな」


赴任先で幾度も思い描いていたリザと寸分違わぬように思える。
産前産後で体型が崩れることを懸念する女性が多いのが世の理だと思っていたのだが、リザには通用しないらしい。
少なくとも、目の前にいる女が母親の色を臭わせていないことに、ロイは奇妙に安堵した。
しかしいっそ思いきり違っていた方が、あきらめもついたのかもしれない。


「ところで。産休中だろう、君」
「そうでした――が、期間を繰り上げて返上しますので、お帰り早々で申し訳ありませんが、
こちらの書類にサインを頂けますか」


ロイの言葉に、聞きなれた淡々とした口調で小脇に抱えていた書類を差し出す。


「それはかまわんがね……子供は?」


リザの口から休暇名の訂正が得られなかったことで、噂は現実的になった、とロイは思う。
いや、子供が出来た、ではなく、子供が生まれた、なんて大それた話は、そもそも事実以外の何物でもないことくらい
端からロイは感づいていたのだけれど。


「グレイシアが色々力になってくれまして」
「……そうか」


渡された書類を受け取れば、否応なしに飛び込んできた育児の二文字に、ロイは何とも言いようのない気分にされた。
亡き親友の妻とリザが旧知の間柄ということは知っていたが、そのグレイシアは今の状況をどう受け止めているのだろう。
そこにヒューズがいたのなら、今の結果は違う方向へ進んでいただろうか。
絶対にあり得ない仮定に、それを思い浮かべて縋った自分に吐気がした。
それを悟られまいと、たかだかサインを落とすだけの書面を仰々しく一文字一文字目で追って、
リザの署名に行き当たったところで視線が止まった








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