Please let me protect XXX.――7





「ああ、ハボック」


今まさに休憩に入ろうと立ち上がりかけたハボックは、執務室から徐に出てきた上司に呼び止められて、
傍目にもげんなりという表情を隠しもせずに毒づいた。


「なんすかー…オレ、今から休憩入りたいんすけど」
「15分ずらせ」


不遜な態度で言い放つと、ハボックを部屋の中へと呼ぶ。


「この私が珍しくサボりもしないで書類を片付けてるんだ。5分で終わらせてやるから遅滞なく提出しろ」
「んな勝手な。てかその量、5分でできるんスか」


今日は朝から働きどうしだったのに。
どうみても不可能そうな書類の山を一瞥して、ハボックは肩を落とした。
来客用のソファに腰掛けるわけにもいかず、いっそ終わってから呼んでくれと言いたいのを堪え、
無言の尋常じゃない速さで書類を捲るロイの顔を盗み見た。


(……わっかんねー…)


こんな速度で処理ができるのなら、最初からすればいいのだ。
溜めて溜めて、最後に一気にだなんて、夏休みの宿題を末日に行うガキじゃあるまいし。
長い赴任の後でただ一度、視線だけで焼き殺されると思ったのが昔日のようだとハボックは思った。
あの時――――貼り付けた笑顔の奥で燻る痛いほどの悪意に、戦場ですら感じられないだろう恐怖を確かに感じていた。

真実はリザの口から直接聞いた方がいいことくらいハボックにも理解できたが、
一度言い出したら梃子でも動かない彼女には、どこかで綻びを作る必要があると考えていたし、
自分の身の安全のためにも、はやく収まって欲しいというのが本音だったのだが。
たった一度のロイの視線で、チャンスを逸してしまったではないか。


(しかもあれから何もねえしな)


いたって平穏に時は流れていく。
リザとロイの関係は傍目には何ら変化はなかったが、だからといって話がついたと言うわけでもなさそうだ。
二人の関係が世間一般の恋人同士と違うことは百も承知だったが、
何もないことが逆にハボックの心情をもやもやとしたものが覆ってしまう。

リザは当初、ロイの不機嫌さを「お気に入りのおもちゃを取られた子供」と表現していた。
面白く思ってないだけで、すぐに忘れると。
だが、あの視線はそんな簡単なものじゃないことをハボックは知っている。
あれが単なる子供の我儘からくるものなら、禍々しいことこの上ない。
男の顔で、ハボックを睨みつけたりは絶対にしない。
それに、自分はロイの駒で狗で玩具で、それでいいと本心から思うなら、何故そんな悲痛な顔で告げるのか。
馬鹿じゃねえのと言いたいくらい、分かりきった答えなのに。


(オレが口出すことじゃないんだろうけど……でもオレすげー被害者じゃね?)


リザに悪意と好奇のろくでもない噂が立てられていることは周知の事実だったが、
彼女自身、それを承知で子供を産んだという自負からか、変わらなさ過ぎるその態度に、低俗な中傷はなりを潜めつつある。
しかしハボックにはやはりというべきかなんというか、『孕ませた挙句責任取らずにいる男』という
不名誉極まりないレッテルが貼られているのだ。
お詫びにとリザに紹介された彼女が出来た人間で本当に良かったと心から思う。掃き溜めに鶴。心のオアシス。


「――…ック」
「あー…彼女に会いてー…」
「――恋人、にか?」
「え……ってうおぁちっ!!」


思考の波にとらわれすぎて無意識に呟いたハボックの言葉が終わる前に、口にくわえていた煙草が一気に燃焼した。
灰も残さず消え失せる。


「あ、危…ッ」
「勤務中だ、馬鹿者」


擦り合わせた指先から発火布を抜き取り、ロイは机上の書類を示した。
終わっている。
時計を見て、本当にジャスト5分で仕上げたロイに心底敬意を払ってしまう。
この集中力と処理能力は異常だろう。


「残り10分か」
「いや、オレ、この書類を早く総務に持って行きま」
「15分ずらせと言ったはずだ。よく聞こえるように耳の穴を広げるか?」
「すっげー大佐とお話してー!」
「そうか。私は大してしたくはないが、そこまでいうなら付き合ってやる」
「アンタな……」
「で?」


勝手極まりない言い分を平然と言ってのけ、ロイは椅子の背凭れにだらしなく体重を預け直した。
ハボックの抗議の声をまるきり無視して、ロイは先を促す。
嫌いな書類処理を済ませてまでこんな時間を作っておいて、あくまで話題の提供をハボックに求めるあたりは
ロイのロイたるところかもしれない。
どうせ知りたい話の内容は一つだというのに。


「……あー…っと、この間どうでした?」
「何のことだ」
「いや、だから、二人で飲みに行ったんでしょ?」
「――――ああ」


ハボックはやれやれと溜息を吐いて、後頭を掻いた。
どこからどこまで話せというのか。
いっそリザを直接問い詰めてくれれば手っ取り早くことが済むんじゃないスか、と叫びたい。
一拍間を置いてどこか視線を泳がせたロイに訝しみながら続ける。
もしかしたらリザが何かを言ったのか?


「なんも言ってなかったっスか」
「何を」
「……こど……いや、オレの事…とか?」
「知らん」


今度は睨まれてしまった。しかも舌打ちというオプションまで付けて。


「――もう!なんなんスか!何が聞きたいんスか!それとも中尉と喧嘩でも!?」
「――――――」


埒のあかない問答にハボックは思わず声を荒げた。リザの名前を出したのは勿論わざとだ。
ロイに怒鳴りつけられることも覚悟で言ってみたのだが、眉根を寄せたまま黙りこくってしまったロイに毒気を抜かれる。


「……大佐?あの、」
「――――分からん」


恐る恐る声をかけたハボックに、ロイはブツブツと呟き始めた。
背凭れに深く預けていた体を剥がし、机に肘をついて両手を組む。
その上に顎を乗せて眉を顰めるのは、ロイが何かを考え込む時に良くやる仕種だ。


「――――分からん」
「何がスか」


ロイの口から幾度も繰り返される同じ言葉に、どうせ答える気なんてないと予想しつつ聞いてみる。


「マジに喧嘩したんですか?中尉と?」
「……喧嘩?いや、そんなものは――何だ?何故拒まない
 ――――この如何にもアホらしいヒヨコ頭を選んだんじゃなかったのか?」
「ひでぇ……」


やはりまともに答えるつもりはないらしい。
微妙に睨みをきかせた視線で言われた言葉に、ハボックは唸った。
だが思考の波に完全に囚われたわけでもないようだ。
聞いていないようで耳聡い。


(てか『拒まない』?……てことは何?ヤッちゃった?いや、まさかなー…)


この状況でロイが関係を迫るとも思えないし、ましてリザからだなんて論外だ。
再び視線を机に戻し、分からんを繰り返すロイに、ハボックはそっと息を零した。
このままでは自分の休憩時間が本気でなくなる。
話を前に進めなくては。


「ぶっちゃけ何したんスか、アンタ」
「キスした」
「へー…………っえ!?」
「安心しろ。それ以上のことはしてない」
「そ、そんなことはどうでもいいっスよ!え?ていうか――」


素っ頓狂な声が男二人のむさ苦しい室内にこだまする。
常より甲高い声音が振動率を上げているのかもしれない。
何かあったなとは思っていたが、まさか一足飛びに襲っているとは知らなかった。
いや、拒まなかったのなら同意の下か。
思い切り眉を寄せた上官に、どうでもいい発言は流石にヤバイか?と思ったが、
欲望の赴くままに言葉を重ねてしまう。


「それで中尉は!?何か言ってなかったんですか!?」
「……何をだ」


もしかしたら伝えたのかと。
淡い期待で問えば怪訝な表情で睨まれて、一気に消沈してしまう。

なるほど。
ロイにとってはこれだけあやふやな状況で、昔のようにキスまでさせて、何でもありませんでは済まないだろう。
最後まで拒むことなんて出来やしないのだから、リザも素直になればいいものを。
余計状況がややこしくなるではないか。


「あー……なんか……ご愁傷様です」
「――――お前も、分からん奴だな」


同じ男としてロイの心情思わず慮ってしまったハボックの言葉に、ロイがふんと鼻を鳴らした。
少し小馬鹿にした態度で、ロイが続ける。


「キスをした、と言ったんだぞ」
「はあ…」
「随分寛大だな」


間の抜けた返事を返すしか出来ないハボックに、ロイは忌々しげに吐き捨てた。
ここはどうするべきなのだろう。
ロイの苛つきが肥大していく空気は読めるが、的確な態度がわからないで頭を抱える。
怒る――理由がハボックにはない。
良かったっスね――では余計怒りを買うだけだ。
自分の女を寝取った相手にそんな言葉をかけられて喜ぶ男はいないのだから。
どう足掻いても、今のハボックではロイの不況を買う言動にしかならない。


「――その程度か」
「は?」


何でもない、といった態度を取るしかないハボックをしばしの間、窺っていたロイが呟いた。
上手く聞き取れずにロイを見やれば、握り締めた拳の爪が発火布の上からでもそれと分かるように
はっきりと食い込んでいる。




「その程度の想いで、ひとの――――ッ」




どうしてそこで止めるんだ、アンタは。
いつも傲岸不遜が服を着て歩いているのかというくらい自信家なくせに、肝心な時に及び腰になる上官を
許されるなら蹴り倒したい。
どうして自分が宙ぶらりんな二人の関係にこんなにやきもきしなければいけないのかと思うと、腹立たしい。


「もういい。行け」


ロイは続きを中途半端に飲み込んだ顔で処理済の書類を渡し手を振るロイに、ハボックは苛立ちが募るのを感じた。
こんなときに大人なふりをする必要などない。
この状態が続いたら、繊細な自分はきっと胃潰瘍で死んでしまうだろう。そんなのはゴメンだ。
苛つく頭の中でだけ糾弾して、ハボックは腹を括った。
扉の前で意を決して振り返る。


「大佐」
「何だ」
「それなら、あんたの想いはどの程度なんスか?」
「……なんだと?」


わざと主語を抜かした台詞にロイが食い付く。
寝取った男の宣戦布告とも取れる発言に、ロイの声音はあからさまに低まった。
真昼間から執務室で流血沙汰にはならないだろうが、心臓が痛いくらいに脈動を早める。


「留守の間にオレを誘って勝手にガキ産んで、それでも何もない顔してあんたの傍に戻って、挙句キスまで受け入れちゃって。
 ――――結構な女ですよね、ホークアイ中尉って」
「…………貴様」


ロイの視線に悪意が篭もる。
両の拳の間から憎悪に満ちた視線がハボックを射る。


「あんたが戻ればオレは用無し。また抱いて欲しいって言われたらどうするつもりなんスか?」
「……黙れ」


煽って煽って。
ここでスマートな応対を完遂できるほどロイが腑抜けでなくて良かったと思う。


「実は相当スキモノなんじゃないの?」


リザが聞いたらと恐怖で震える台詞も、言い過ぎてアドレナリンが大放出されているとしか思えないくらい
次から次へと浮かぶものだと、ハボックは自分に感心していた。


「黙れと言ってる」


ロイの声に険が入る。
それでもハボックはやめなかった。


「女たらしの大佐ですら手玉に取られるくらい――――」
「――――ハボック!!」


怒声と同時にハボックの目前で巨大な火の玉が爆ぜ飛んだ。
咄嗟に身をかわさなければ、間違いなく大火傷を負っていたであろう勢いだった。
辛うじて――というよりも運良く――免れた災害に、内心で自分に拍手を送り、そのまま距離を保っているロイを見やる。
椅子から身を乗り出したロイの目には、憎しみの色がありありと見て取れた。


(やべぇ、オレってばマジで五体満足無理かも)


だが、あと少し。
勤務中の錬金術の暴発なんて、国家錬金術師が使える言い訳ではないし、
ましてや今のこの状況で、ロイの相手がハボックなら、何があったかなんて一目瞭然だ。
横たわるその現実を前にして、それでもかなり本気で狙ってきたロイに、
気を抜けば全てぶちまけてしまいそうになるのを堪え、胸ポケットに忍ばせていた煙草をくわえた。
真実をぶちまければ、蜂の巣だ。


(どっち転んでもオレって可哀想だなぁ、おい……)


気持ちを落ち着かせる為に、火のない煙草を一息吸い込んで、わざと鷹揚にロイを睨めつける。


「……何でそこまでキレてんですか。らしくない」


会話の応酬ではポーカーフェイスほど重要なものはない。
特に男女の事柄に関するとなると必要不可欠といってもいい。
そんなものは基本中の基本だと、いつも余裕をかまして部下たちを嘲笑してくれていたはずのロイは、
ハボックの台詞で我に返ったかのように、息を吐いた。
向けていた腕を下ろし、視線を逸らす。


「大佐、理由分かってるんスか?」
「――行け」


ポーカーフェイスとは程遠い表情で。
その表情をハボックは苦々しげに睨みつけた。
そこで大人しくなるだけなら、三歳の子供にだって出来るのだ。
意味がない。
切れる理由を自覚しなけりゃ意味がない。


「オレが、あんたの女、に手ェ出したからでしょ」
「――――――……ッ!?」


言い聞かせるような物言いに、驚愕というニュアンスがぴたりと嵌まる表情で振り向かれ、ハボックは情けなさで泣きたくなった。
気づかないとでも思ってたんですか。
そもそもアンタ、自分で苛つく原因、マジで分かってなかったんですか。


「オレもあんたら分かんねえわ」


あれだけ一緒にいて、互いのことを思い合って。

それ以上、ロイの顔を見るのも馬鹿らしく思えて、ハボックはさっさと踵を返した。
礼もせず背を向けたままで、扉に手をかける。
知らず口に挟んだ煙草を噛み締めていた事に気づいて、舌打ちをした。
これではもう旨くない。


「何で気づかないかね、ンな単純な事」


それもみんなロイの所為だといわんばかりに吐き捨てた。
扉を足蹴にするなんて、リザに見つかればどやされるかなと思いつつ、ハボックは乱暴に扉を閉めた。










ハボック編…という感じで(汗)。

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