Please let me protect XXX.――10





「中尉?大丈夫っスか?」


主のいない執務室で、先客のリザに出迎えられ、ハボックは開口一番そう言った。
寝不足ですと顔に張りつけた覇気のないリザから書類を受け取ると、ハボックは火の点いていない煙草をくわえ直す。
大丈夫、と全くそうは見えない顔で言うリザに、最近これといった事件が続いていないことを頭の中で確認して、考えた。


「……夜泣き?」
「って何かしら――と考えられちゃうくらい、手のかからないイイ子」


顔に落ちた陰を隠すように片手を当てて、リザは苦笑して見せた。
生まれるまでは気を張りすぎてグレイシアの前ではよく泣いていたかもしれない。
が、生まれてからは、これまで子供の所為で、という悩みは健康面でも精神面でもなかったことに、改めて驚かされる。
まったく本当に手のかからない。
育児中を慮ったロイの計らいもあり、現在夜勤のほとんどを免除されているリザだったが、
ハボックの言う夜泣きが原因の寝不足など、それこそ数えるほどしかないのだ。
むしろ寝不足の原因は他にある。


「じゃあ大佐と何があったんですか?」
「何も」


何かあったことを前提とする話し方に、敏い男だと内心で歯噛みしつつ、そっけなく答えた。
事実、昨日のロイとは何もなかった。
だから余計泣きたくなった、なんて言えるわけがない。


「そんなことより、彼女元気?」
「おかげさまで」
「振られないようにね」
「中尉、それ縁起でもない…………」


冗談交じりのリザの台詞に心底嫌そうな顔を向ければ笑われた。
だがその笑顔にも、拭い切れない疲労の色が伺えて、ハボックは僅かに眉を寄せた。


「――中尉。マジで大丈夫ですか?休まれた方が……」
「今日はそうも行かないでしょう?視察地区はどう考えても上層部の考えそうな場所よ。狙撃手はいた方がいい。大丈夫よ」
「でも――――と、大佐」


さらに言い募ろうと伸ばしかけたハボックの手をやんわりと遮ったリザの後ろで、ドアが開く。
そこに現れた部屋の主は、いっそ乱暴とも取れる手つきで無造作に扉を閉めた。
リザの視線がロイを捉える。
彼の眉間には、盛大に深い皺が刻まれていた。
リザがそれに疑問の声を上げるより早く、


「――離れろ、馬鹿者」


ズカズカと荒い足音を立てて、ロイが二人の距離を強引に割った。


「――は?」
「ちょ……大佐!」


そのままリザの腕を引き、体を反転させると、軍服の胸に抱きとめる。
見慣れた、だがあまりにも久し振りすぎる堂々としたロイの行動に、ハボックは咄嗟に言葉が出てこなかった。
突然のロイの行動に、あっさりその腕に抱きしめられていたリザが、漸く我に返ったのか、声を荒げる。


「は、離して下さい!」
「断る」
「大佐!今は勤務中で――」
「実は私は休憩中だ。あと5分」
「私達には関係ありません」
「変わらない関係を求めたのは君だろう?」
「――――なッ」


ハボックに背を向けた状態で動きを封じられているリザの耳が、羞恥とも怒りともつかぬもので紅く染まっていく様を、
どうすることも出来ず、ハボックはただ黙ってみている他なかった。


「何を考えているんですか、貴方は…っ」


胸板に押し付けられている所為でくぐもる声が、抗議する。
まったくだ。
変わらない関係とやらをリザが求めていたのは紛れもない事実だが、
それは何も今目の前で行われるような戯れを多分に含んだものではないことくらい、
おそらくは純粋を絵に描いたようなフュリーでさえ気づけそうなことだろうに。
口を開きかけて、しかしロイが不意に鋭い視線を投げかけてきた所為で、ハボックはまた口を閉ざすしかなかった。
代わりにロイが口を開く。


「変わらず、君に私の女でいてもらおうと思ってな」
「――――」


わざと耳元に口唇を寄せて、直接囁きかけるようにロイの声が執務室に甘く響く。
視線だけはハボックに止めたままで。
瞬間その眼光に気圧されていたハボックだったが、ロイの台詞を頭の中で反芻し、
やはり二人の間で「何か」はあったのだと行き当たった。
それが何かなど分かるはずもないが、少なくともロイは、行動を起こしているではないか。


「――え……え!?そ、それって大佐、まさか中尉の子ど」
「ジャンッ!!」


淡い希望を口にしかけたハボックの言葉を、リザが今までにない力でロイをはねのけ、遮った。
振り向いた視線が余計なことを言うなと語っている。


(あー……まだこっちは何も済んでないわけね)


リザのあまりの勢いに、不覚にも咥え煙草を落としてしまい、ハボックはやれやれと後頭部を掻いた。
そのまま逃げるようにハボックの側へ立ち位置を変えたリザを、ロイはそれ以上拘束しようとはしなかった。


「あと3分、か」


ロイは腕時計に目を走らせると、頭一つ分は高い部下を真正面から睨み据えた。
完全に見上げる姿勢で視線を合わせられているにもかかわらず、ロイが口角を吊り上げた途端、
何もかも洗いざらい吐き出したい衝動に駆られるのは何故だろうか。


「ハボック」
「…………なんスかね」


静かに名前を呼ばれて、鼓動が否が応にも高まった。


「お前の宣戦布告、受けることにしたぞ」
「――――……せんせんふこく?」

(……してね――――ッ!!)


胃がキリキリと見えない糸で縛り上げられている気分だ。
男に向けるには残酷すぎる笑顔でそう宣言され、ハボックはただ只管ロイの休憩が過ぎるのを祈った。



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * * *



怪訝な顔でリザがハボックを見上げるのを視界の隅に捉え、嫌な汗が背筋を通るのを確かに感じた。
ロイに宣戦布告をしたつもりなどさらさらなかったが、男同士の遣り取りをリザに伝えてもいなかった。
伝えていたとして、何も現状は変わらないとは思うのだが、如何せんこの状況は心情に悪い。


「少尉、あなた何を……」
「――オレは別に何も」
「軽い気持ちで君に手を出すなと釘を刺された」
「刺してねえし!」


違う。全然違う。大いに違う。
ロイの気持ちをはっきりさせてみようと挑発じみた言動をしたのは事実だが、何もそこまでは言っていない。
いやむしろ、それを言ったのはロイの方ではなかったのか。


「少尉……」
「ち、違いますって!大佐――」
「思わず消し炭にするところだった。意外に反射神経が良かったな、ハボック」
「はあ、どうも――でなくて!」
「消しず……大佐!?」


ロイの言葉に床に転がるハボックの煙草から視線を上げて、リザが瞠目した。
冗談めいた口調とは裏腹に、ロイは笑っていなかった。


「――さて。時間もないことだし、ここらではっきりさせたいことがあるんだが」


鷹揚に肩を竦めて、ロイが小首を傾げた。
視線は一瞬ハボックを掠め、リザで止まる。
ロイが一歩、距離を縮めた。


「君、ハボックを好きか?」
「当たり前です」


単刀直入なロイの言葉に、リザも負けじと即答する。


「では私は?」
「好きです。上官として」
「上手いな。さすが中尉」


クツクツと笑うロイに、傍で聞いてるハボックの方が逃げ出したい気分だった。
罠にかかった非捕食者は、概ねこんな情けない気分を味わうのだな、と思う。
先程ロイは時間を宣告していた。
おそらくこの問答を無駄に長引かせるつもりはないのだろうが、立ち去ることも叶わず、
同じく罠の中で捕食者を毅然と見据える隣の上官が、僅かに唇を引き結ぶ気配を感じていた。


「聞き方を変えようか。――愛してる?」
「……」
「…………どっちっスか?」


沈黙の降りたリザに代わって、ハボックが疑問を投げかけた。
ごく小さな声だったにもかかわらず、3人しかいない執務室では、自分の声がやたらとノイズに聞こえるものだと
ちらとロイに睨まれながら思った。


「コイツを。男として、だ」


また一歩、リザに近づく。
半歩、リザが後退った。


「それは――――当たり前です」
「ウソだな」


一瞬、リザの視線が床とハボックの間を逡巡し――それはほんの僅かの事であったのだけれど――、
ロイは間髪入れずに切り捨てた。


「君が本気でハボックを好きなら、それはそれで仕方がないと思った。感情はどうしようもない。ただ私が面白くないだけだ。
 だが違うだろう?君の中には少なからず私がいる。
 君も自覚しているはずだ。ここに戻って、私は君に躊躇い以外の拒否を受けたことはない」
「そんな、ことは、」
「なくはない」
「――――」


リザの表情が揺れた。
無意識のうちにハボックへ縋るような視線を送っていることに、彼女は気づいてはいまい。
これが場末の女なら、男心をそそる為の手馴れた仕草にも映るというのに、
ストイックなリザからは演技のえの字も浮かばないというのは、いっそ同情に値するとハボックは思った。
おそらくロイが無理矢理にでも抱こうとすれば、リザは本気で抵抗しない。できない。
リザという女を何年も傍に置いてきた男が、彼女を取り戻す為の手っ取り早い方法を取らないのは、それを知っているからだろう。
そしてそれを許すのが、ロイだけだったということを知っているのだ。


「嫌な仮定が浮かんだんだ」
「…………」
「まさか、私のためにハボックに抱かれたなんてことはないだろうな」
「――――――――」


心変わりは誰にでもあると認めた上で、出てくる仮定は残酷だ。
そうであるなら、リザはロイとの関係を迅速かつストレートに清算しようとするのだろうから。
そうでないのなら、一体どこにリザがハボックの子供を産み育てる利益があるのか。


「赴任前から私達の関係において口さがない噂があったことは周知の事実だ」


ロイの好色家ぶりは、それを補って余りあった。
対してリザはストイックすぎた。
だとしたら、それを消す為に女であるリザの取れる行動は何だ。


「私との噂を全て抹消する為の既成事実としては最高だ。相手に申し分もない。
 君が誰にでも簡単に体を許す女だとしたら、事実私との関係があったとしても瑣末なことだ。それが問題になるはずも無い。」
 女好きな上官の単なる性欲処理に過ぎないからな。たまたま手近な部下がそういう女だっただけだ」


ハボックの言う通り、単なるスキモノで全てが終わる。


「噂の片割れが長期不在中に女の方が妊娠出産。相手は他でもないハボック。後腐れがありすぎる私の忠実な部下との子供だ。
 それは尻軽女の失敗か、あるいは本気で愛していたからか――――どちらにせよ戻った私との間に変化はなし。
 ならばその関係は単なる大人の割り切った付き合いだった、と」
「たい、」
「ハボックを本気で愛しているとの仮定も充分あり得たんだが、そうだとすると納得がいかない」
「何故――――」
「…………どうして逃げないのかな、君は」
「――――ッ」
「チャンスはいくらでもあっただろう」


いつの間にか、ハボックは二人の遣り取りを完全に後ろへ向き直った状態で見遣っていた。
静かに追い詰められたリザが、ロイの軍服を押し返そうと掴んでいる。
見せつけるようにその手を取ると、ロイは恭しく手の甲にキスを落とした。
たったそれだけのことで、リザの喉が小さく悲鳴をあげるのを聞いて、ハボックは瞠目した。

(潮時、だよなぁ……)

拒む女の声じゃない。
これで他の男を愛してるだなど、どこの三流が信じるというのだ。


「……時間が過ぎてしまったな。続きは終わってからにしよう。5分後に車を回せ」


言って、その場にどうにか佇んでいるリザから手を離すと、ロイは踵を返した。
コートを取って自ら袖を通す。
ロイの唇が触れた手を隠すように触れたままのリザに一瞥をくれると、そのままドアに向かって歩き始めた。


「覚えてろよ」


すれ違いざまあまりにも穏やかに呟かれ、流れ落ちる汗が一瞬で凍った。
二人きりで対峙した時よりも数倍性質が悪い悪寒を感じて、ハボックはゆっくりと閉められたドアを見つめる。
ロイの仮定が事実だとすれば、確実に消される。
それが今日なのか10年後なのかは定かではないが、次の襲撃は以前のしれよりはるかに計画的に。

淀んだ空気を払拭する為、ハボックは自分の頬を両手で打ち挟んだ。
パンと小気味良い音が耳に響く。
いつまでもここに止まるわけにはいかないのだ。
ロイの言葉どおり、続きはある――――だが、それは仕事の後だ。
本来なら真っ先に言い出すはずのリザの肩に手を置いて促す。


「オレらも行きますか、中尉」
「――――ええ」


一呼吸置いて詰めていた息を吐き出すようなリザの声に、ハボックは苦笑した。
振り向いて、無意識にロイに触れられた片手をなぞるリザの表情を指摘する。


「そういう顔、大佐の前でしてたらバレバレですよ」
「……どんな顔」
「そういう顔っスよ」


(もの欲しそうな顔、なんて言えるかっての)


タイムリミットは近い。





あ、甘くならなかった…
消化不良でゴメンナサイ;



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