いい加減な所で手を打たなければ最終的に面倒を被る可能性があるのは貴方だけなのだと何度言って聞かせても、
公私混同甚だしい言動を繰り返すくせに、こんな時だけ有能な上官ぶるのは
腹立たしいし、やるせない。





06.上官命令





「前にお食事を取られたのはいつだか記憶にありますか」

一心不乱に書類に目を通すロイなど滅多に見られるものではないが、通常業務をこなした後の執務室が、
ロイのプライベートルームと化すほど走り書きされたメモ等で埋もれているのを見る限り、
少なくとも3日はまともな物を食していないだろうとリザは思う。
睡眠時間いついての言及は「たしかさっき」という明らかな嘘で強制終了させられていた。
本当に数分でも眠りについていたなら、リザがせめて夜食でも、と思い席を外したたった数分で、
こんなに難解な文字式の描かれたメモ紙が散乱しているわけがない。

「あー…さっき」
「食べてるわけないでしょう」
「いや?あー…そうか、うん?うん」

誰と話しているんですか。
本当は思い切り胸座を掴んで、分厚いその執務机に頭を叩き込んでやりたかった。
それで多少の痛みと引き換えに穏やかな眠りにロイを誘えるなら、安いものだと思う。
ここが職場でなければ、上下関係を無視してそうすることが出来たのに。

「……大佐」

相変わらずうんともああともつかない音を咽喉から辛うじて返しつつも、視線と脳味噌はリザを認識しようとしない。
空気のようだと自分を喩え、しかしすぐさまその考えを一蹴した。
そんな大それたものに自分を置くなんて出来るわけがない。

空気は日常でその存在を忘れられているだろうが、なくなればその偉大さを思い知らされる崇高な存在だ。
今、例えロイの前から姿を消したとして、リザがここにいたことすらロイの記憶には残らないに違いない。

「もう少しご自分を大切にして下さい」

――だけれども貴方にいなくなられたら、私は馬鹿みたいに困ります。

「大佐」

国家錬金術師で完全な軍属であるロイに、エルリック兄弟に課せられるような一般の査定がないことくらいは知っている。
しかしやはり研究に心血を注ぎたいという科学者の性も知っている。
こうして何年もロイの傍にいれば、その欲求が定期的に抑え難くなると
こうして仕事にも研究にも驚異的な集中力で没頭してしまうことも知っている。
だがしかし。

「大佐」

返事くらいは返して欲しい。
そう思うのは我侭なのだろうか。
声がなくなるだけで、姿は変わらず目の前に在り、ページを捲り、ペンを走らせ、
生の証を其処彼処に溢れさせているというのに、何故だか無性に怖くなる。

「…大佐」
「――――なんだ、ホークアイ中尉」

諦めつつも諦めきれずに、随分弱々しく聞こえてきたリザの声すら鬱陶しいと言わんばかりに緩慢な動作でペンを上げたロイが、声を出した。
漸くロイの視線がリザを捕らえる。

「食事を、取られた方が、よろしいのでは?」
「取る。分かってる」
「それに睡眠も」
「知ってる。他には?」
「……それだけ、です」

上官を労わる言葉が上手く口から出てこないことに軽く舌打ちしたい気分になる。
だがそれにも増して、ロイの言い方が無性に癇に障った。
いつすすめるべきか期を逃してしまったサンドウィッチがロイの視界に入れず、リザの落とした視界に揺れる。

「ところでホークアイ中尉」
「はい」

二人きりでも職場で名前は呼ぶな、と何度も言ったことがあるが、
こうもわざとらしく階級を口に出されると、それはそれで面白くない。
そう思ってしまうのは、下官にあるまじき感情なのだと心の中で叱咤した。
敬礼をしかけたリザを制して、ロイが続ける。

「見ての通り、これは君に関係のない業務だ」
「…………」
「だから帰っていい」
「……それは命令ですか」
「いいや。だが今いいところなんだ。少し静かに――」
「――部下が」

再び視線を外されて再開されたカリカリという音が耳に障る。
リザはロイの言葉を遮って言った。

「上官の体を心配してはいけませんか」

まして私は貴方の副官でもあるのに。



「研究をするなと言っているのではありません。ただ」

自己管理不足で体調を少しでも崩せば、悲鳴を上げたくなるほどの干渉を惜しげもなくしてくるロイよりは、
真っ当な理由でいたたまれないのだと言ってやりたかった。
今すぐ鏡を差し出して、その青白い肌にくっきりと刻まれた目の下に落ちる翳を知らせたい。
童顔に無精髭はアンバランス過ぎて笑えないと、剃刀を叩きつけてやりたい。

「お体を崩されては元も子もありません」

お願いだから傍にいさせて下さい。

本当は泣き出したいくらいの感情を吐露することなど出来るはずもなく、
リザはいつもの淡々とした口調でロイに諭した。
正論は、しかしいつも受け入られるとは限らない。


「――分かった。取る。だからもう言うな」
「大佐――」
「君が帰れば取る!食事も、睡眠も!」

眉間に皺を寄せ、ロイにしては珍しく苛立たしげに吐き捨てられて、
リザは無性に叫びだしたい気持ちになった。
研究の邪魔をされたと拗ねているわけではなく、顔に腹立たしいほどはっきりと
『煩い』と書いてあるではないか。

いつもいつもいつも。
リザには煩わしいほどの干渉を強制的に許させるくせに、
リザの干渉はこうもあっさりと手を振り払うのか。


「体調は万全だ。君の心配している通常業務も滞らない。誓う」
「そんなことを心配しているわけでは――!」
「だから」

知らず大きくなりかけたリザの台詞を遮って、ロイが素気無い視線を向けた。
拒絶の色が見て取れる。
執務室で、上官と下官で、それ以上リザに何が出来るというのか。

「――帰れ」
「………………ッ」

自分でも息を飲む音がはっきりと聞こえ過ぎるほどに鼓膜に響いた。
無意識に保ち続けていたポーカーフェイスが崩れていく音すら聞こえる気がする。
ロイの部下として心配する権利すらくれないのなら、
普段から中途半端にリザを求めなければいいのに。

泣くな泣くな泣くな。

もう一度、今度は「命令だ」とまで言われ、リザは無言で立ち上がりかけ、
ふと置き去りにされた皿が目に入った。
乾燥よけにかけていた布巾を必要以上に力の篭った指先が取り払う。
サンドウィッチがひどく滑稽に思えた。
罪のないガラスの皿ごとロイに叩き付けたいのをぐっと堪えて、
リザは無意識にサンドウィッチを掴みあげる。
既にリザの行為に一欠片の関心も示していない風のロイに向かって、投げつけた。

「――――何…を」

瞠目したロイの声が聞こえた。
答えない。答えてなんかやるものか。
書きかけの構築式だか何だか知らないメモ書きの上に、無様に潰れたサンドウィッチだった物が落ちているのを認めて、
リザは一礼をした。

出て行けば食べると言ったのだ。
食べるつもりなど本当はさらさらないくせに、口先だけでもそう言うのなら
食べやすいように近くに置いてやろうという思考回路しか、リザには思いつかなかった。
せめて一睨みだけはしてやろうと顔を上げて、不覚にも視界が揺れる。

「――リザッ」

ロイが立ち上がりかけていたような気もするが、それを確かめる余裕すらなく、
リザは踵を返すとありえない音を立てて扉を閉めることに成功した。



コメ

お題13.花一輪の前な感じでお願いします。



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