11.傷痕




書庫特有の古ぼけた紙片の臭いに、地下室のひやりとした空気が相俟って、
軍服で覆われていない、露出した肌に染みわたる。
日々の激務から解放されるような、仕事がはかどるような。
そんな相対する微妙な空間を持つここは、どこの軍施設でも比較的リザのお気に入りの一つだ。
本や論文が所狭しと並べられ、それらを守るために抑えられた光彩が優しく入り込むように設計された場所は
凛とした、それでいて甘やかされた空間になるのだと思う。
そういえば、ロイの家にも書斎があって、そこにリザが入り浸ることはないけれど
同様の空気を抱いている気がする。

そんなことを脚立の上で考えながら、資料整理に精を出していたリザは、油の切れた木製の扉が重たく軋む音で現実に引き戻された。


「――中尉?」


呼ばれた声が僅かに響いて聞こえる。
横に置いた書類が散らばらないように注意を払いながら、リザはこちらに向かってくる足音を振り返った。
――いや正確には、見下ろした、だが。


「大佐?……何かお探しですか?」


電気をつけてもなお薄暗い感のある室内で、見慣れた上司の顔がより陰影の濃いものに見えた。
口調が自然と上向いたのは、何もそれに緊張した所為ではない。
ロイのスケジュールを頭の中で照らし合わせて、何故ここへと訝しんだからに他ならない。
緊急の事態が発生したような緊張感はまるでないので、呼集レベルの話ではないらしかった。
大体、そうだとしても上官自ら呼びにくるなんてあり得ない。
ロイの事務処理が片付くようにとリザが手ずから用意しておいた資料に、何か不手際でもあっただろうかと思いを巡らしたところで、
おもむろにロイが書棚の下段からファイルを抜き取った。


「……ああ。E地区の市街整備の案件がどこかにあったと思ってね」
「それなら先程私が大佐にお渡ししましたが」
「…………」
「…………」


いかにもな理由で開かれたファイルが、ぱらぱらと空虚な音を立てて閉じられる。
明らかにロイの目はそれを追っていなかった。


「サボりましたね」
「…………」
「…………」


否定も肯定もしない沈黙にリザは、ふ、と息を吐くと、腰のホルスターに手をかけた。


「違う!すまん!ごめんなさい!!」


指の先で安全装置を外す金属音が冷たい空気を心地良く震わせたのと、ロイがファイルを投げ出して両手を上げたのは同時だった。
全く油断も隙もあったものではない。
しばらくどうしたものかと逡巡し、ホルスターに戻した。
ロイは足元に散らばった書類をかき集めて元の棚に戻しながら、拗ね気味にこちらの様子を窺っているようだ。
書類の整理を再開しながらその視線を感じていると、ロイがぽつりと呟くような声で言った。


「念のため言っておくがな。あの書類の山ならきちんと終わらせたぞ」
「当然かと」
「――他に、私の指示が必要なものは特に」
「大佐」
「はい」


盛大な溜息のかわりに出された声は、思った以上に怜悧な響きを湛えていて、
それにまるで子供のように従順な返事を返すロイに、内心では苦笑を禁じえない。
それを呆れの色にすりかえて、リザは作業の手を休めず正論を口にした。
たまの気分転換なら許容できるが、サボりといわれて否定しないのでは、副官として苦言の一つも言わなければ様にならない。


「黙って座っているのも仕事のうちです。何か起こってからでは遅いんですよ?
 それに、もしもの時に居所の知れない上官なんて洒落になりません」


実際に有事の際は、実は事件の全てを計画している実行犯は彼ではないかと疑いたくなるほど確実に居所の知れるロイではあるが、
いつもそうだとは言い切れない。
それでもどこか形だけのにおいを捨てきれない諫言に、しかしロイはむすっと顔を顰めてリザを見上げた。
脚立の下に腰掛けられて、上にいるリザがその不安定さに彼を睨んだ。


「……君だっていなかったじゃないか」
「ちゃんと言ってきましたよ――ファルマン准尉に。資料整理をしてくると」
「私は、聞いていない」
「……聞きませんでしたね」


私は、を不自然に強調する言い方に溜息を零して呟けば、「居所の知れない部下も洒落にならん」と返された。
だからといって急を要する案件があるわけではないらしいロイは、脚立の上でせわしなく資料ファイルを整理しているリザを
手持ち無沙汰に眺めている。
時たま手近なファイルに手を伸ばしてはいるが、特別興味をそそられるものもないらしかった。
もしかして探しついでにサボったのかもしれない。


「君はまだ戻らないのか?」
「もう少しですから。大佐は先にお戻り下さい」
「もう少しならここにいるよ。何か手伝えることは?」


言われて、リザはロイを見下ろした。
さも当然とばかりにこちらを見返してくるロイは、脚立に上半身を凭れかけて口の中だけで「何?」と言ってくる。
部下の居所は分かったのに、まだ戻る気はないらしい。
二人きりというシチュエーションにか機嫌の悪くないロイに、だからといって上官に仕事を手伝わせるわけにもいかず、
リザは横に置いた資料の整理を再開した。


「……お構いなく」


丁重とは言い難いリザの口調にも、ロイは別段気を悪くした風もなく、そうかと言って踏み台部分に肘をつき姿勢を固定した。
そんなに時間のかかる量ではない。
残り数冊のファイルやら文献やらの内容を確かめて、不備がなければ所定の場所に戻すだけ。
それも粗方チェックは済ませてから来ているので、面倒というほどのこともない。
だが――


「大佐」
「ん?」


溜息とともに呼べば、優しげな男の視線と目が合って、リザは胸の内が圧迫されるのを感じた。
何とはなしに視線を逸らしてぶっきらぼうに言い放つ。


「お戻り下さい」
「……そんなに私と二人は嫌か?」
「そういうことではなく、何というか――――――邪魔です」


――気が散る。
仕事をしているのだという気負いがそがれる。
執務室でロイの仕事を監視するのではなく、プライヴェートでくつろいでいるのでもない。
ちょうどその中間に位置するような曖昧な感覚で、さらにロイからの視線を感じているのは落ち着かないのだ。


「無能の次は邪魔ときたか……君、私が上司だってこと忘れてないか?」


上司だというのなら、戻って仕事をすればいい。
ムッとして言われた台詞に少し落ち着きを取り戻して、いいえと告げる。
横目で見やれば、ロイは唇を尖らせながら、脚立に背中を預けて座り込んだ。
振動で足場が揺れたのに抗議をすると、ロイがますますムッとしたのが分かった。
優しくされるよりも、不機嫌さを身に纏ってくれていた方が落ち着くといったら、余計不興を買いそうだ。


「せっかく二人きりなんだ。もう少し甘い言葉は出てこないものかね」
「急な書類が回ってこなければ、大佐は定時であがって宜しいですよ」
「そうではなく!好きとか愛してるとか!」
「大佐!」


いくらここが地下室とはいえ、滅多なことを言うものではない。
言外に含めて睨みつければ、不服を顕わにロイが盛大な溜息を吐いた。


「勤務中にバカなことばかり言ってないで下さい。そういうのが仕事の邪魔なんです」
「勤務外でも滅多に言わないくせにな」
「――そんな、ことは」
「ある。君が言うのなんて寝ぼけてるときとベッドの中だけ――――うぉッ!?」
「すみません、ファイルが勝手に」


黒光りする分厚いファイルを頭に受けたロイが下で呻いているのを無視して、「取って頂けます?」とリザは手だけ差し出した。
どうしてこの男は時と場所を考えずにさらっと聞かれたくない、というかそもそも聞きたくない台詞を垂れ流すのか。
これで女性にもてるというのはどう考えても腑に落ちない。
口数の多い男はたいてい嫌われると相場は決まっているというのに。


「たまには声に出してくれてもバチは当たらんと思うがね」
「……たまには言ってるじゃないですか」
「『たまに言ってる』んじゃない。『滅多に言わない』んだ、君は。」


憮然として頭に当たったファイルを渡しながら、ロイが大きく息を吐いた。
諦めにも似た口調で言って肩を竦める。
童顔だが整った甘い顔立ちが苦笑を口角に乗せ、肩眉を皮肉げに上げているのが、
妙に男の色香を感じさせる、と不意にリザは思った。
会話の内容はさて置き、こうしたちょっとした仕草がやけに様になる男だと思う。
それでいて捨て犬のような切なさを視線に混ぜられては、溜息で誤魔化す以外の方法が見つけられない。
口数が多いのはリザの前だけというのなら、もてる理由に異論はないのだ。
だが。


「こんなこと言わせるのは君くらいだよ」
「――――私は」


だが、なんて口数の多い。


「貴方の恋人たちとは違いますから」


そんなに言われ慣れてるのなら、今更聞かなくてもいいだろうに。
ロイに投げつけたファイルを礼も言わずに受け取って、リザは無表情でそう告げた。
午後の地下室は、外でどんなに日が高くても、冷たいが空気が必要以上に温められることはない。
まるで今の自分のようだと急激に冷めた思考で呟いた。


「――ああ」
「…………何ですか」


そんなリザの様子にロイは再び脚立に両肘を預けて見上げながら、にやりとした笑みを向けた。
またくだらないことでも考えついたのかと無視をしかけて、わざと揺らされた足場に喉の奥で悲鳴を上げた。
それを楽しそうにくすくす笑いながら見上げるロイに、リザは半眼で睨みつける。
どこの悪ガキだと言いたくなる――――が、子供はこんなに性質が悪くないし、女癖も悪くない。
本当に子供なら、言動にリザが必要以上に動揺させられることもないというのに。
分厚い編上靴の上から足を撫でられ、脚立の上で蹴り上げるわけにもいかず、一段上へと体をずらした。
バランスが悪い。


「君は恋人に気持ちを素直に言わない主義か何かか」
「そんなこと言ってませ――」
「ならどうしたら言うのかな。――夫?」
「だからそんなこと――って……は……?」


どういう経緯でその単語に繋がるのか。
いまいち意図を汲み損ねたリザは呆けた声を出してから、しまったと思った。
こんな反応を返しては、また足元で悪巧みの成功したような笑みを湛えた上官にからかわれてしまう――
そう思ったのに、だがいつの間にか脚立に身を乗り上げていたロイのリザを見る瞳は意外に真剣で、彼女を揶揄する色はなかった。
思わず身を引きかけて、背中が空間だということを思い出した。
ロイがぐっと体を伸ばす。


「結婚したら言ってくれるか?」
「何言って……」
「言ってくれる?」
「い、いい加減に……――――ッ!?」
「ちょ――――リザ!」


ロイの驚愕の声と同時に、ぐらりとリザの視界が揺れた。
じりじりと狭い脚立で後退していたはずのリザの体が、ロイの軍服に遮られる。
後ろ向きに蛍光灯の影ですすけた天井の線が見えた気がしたが、規則性もなく散乱したファイルの床に当たる音が聞こえた時には
視界は固い見慣れた青い色に占領されていた気がするが、定かではなかった。


「――――ッ……」


目を瞑って耐えた衝撃は思った以上のものではなく、圧迫されたような二の腕と腰のあたりが少しだけ痛みを感じる。
軍靴を鳴らす地下室の固い床のはずなのに、頬にありえない感触を感じて、リザはおそるおそる目を開けた。
耳元でロイの声が聞こえる。
無意識にしがみついていたリザの両手に、大きな見知った掌が触れていた。


「――ザ……リザ?……大丈夫か?」
「は、い――――……ッ大佐!?」


ロイから離れようとして後ろに倒れこんだはずのリザは、ロイの胸にしっかりと抱きとめられていた。
すぐ横に、脚立が無残に転がっている。
慌てて体を起こせば、ロイもゆっくりとそれを手伝いながら方膝をついて起き上がった。
軍服のボタンが外れている。


「す、すみません!大佐、どこか――」
「問題ない。君は?どこも打ってないか?」


リザごと衝撃を受け止めたのだから、打撲も明らかにロイの方が重症なのに。
愛おしげに頬を撫でられて安否を確かめられては、ロイの顔をまともに見ることができない。
下を向いたまま辛うじて「平気です」と呟いたが、逆に「本当に?」と覗き込まれてしまった。
失態を晒してしまったことが恥ずかしくて、というよりは、脚立から落ちた原因を知られたくなくて、
リザはふるふると首を横に振った。

ロイが突然真顔でおかしなことを言ったりするから。
どうしようもなく動揺しました、とはまさか言えるわけがない。


「リザ?」


聞きなれたテノールで呼ばれて、リザはロイの間に座り込んだままで促されるように顔を上げた。


「……大佐、血が……」


間近で自分を見つめるロイの頬に、薄っすらと血の痕を見つけて、リザはそこに手を伸ばした。
乾きかけた血液が、ほんの少しリザの指に移る。
それを受けて、ロイが訝しげに視線を彷徨わせ、ああ、と合点して自分の指を持ち上げた。


「紙で切ったかな。大したことじゃ――」


血が出ていた。
傷口と呼ぶにはあまりに些細な主張をしているそこから、ぷくりと赤い液体が盛り上がり、落ちる。
問題ないと笑ってみせるロイを見たら、体が勝手に動いていた。
口腔に鉄の味がする。


「――……役得、か?」
「ごめんなさい」


指先に唇を押し付けたままで、リザは呻くように呟いた。
勝手に動揺して、庇われて、挙句怪我まで負わせてしまった。
重症と呼べる部類ではないことなどリザにも分かってはいたが、そうではなく、ただロイに傷を負わせてしまったという事実に
胸が締め付けられる思いだった。
ロイのペースに乗せられてしまった自分が悪い。


「気にするな。これくらい、デスクワークをしていれば誰にでもできる」
「――――」


もう一方の手で眉根を寄せるリザの腕を優しく撫でながら、ロイがことさら軽い口調でそう言った。
そういう優しさにも頼ってしまいそうな自分が情けなくて、リザは返事をするかわりに、奥歯をぐっとかみ締めた。
いつもロイを上手くかわしきれないのは何故なのか。
仕掛けてくるのはたいていロイからだが、上手く切り上げるのもいつも彼だ。
経験の差だとかそういうものとは別に、自分がひどく未熟な気がして恥ずかしかった。

ひたすら俯くリザに苦笑して、ロイは案外強い力で引き寄せられていた自分の指を振ってみせる。


「……こんなの怪我のうちにも入らんだろう?――――……と、惜しかったかな」


トーンを下げて言われた台詞に、漸くリザの意識が向けられた。
それに口角を上げて、ロイが、今度ははっきりと揶揄する口調でリザの瞳を覗き込む。
何を、と疑問の声をあげるより早く、ロイがリザの耳に唇を寄せた。


「痕が残れば責任とって結婚しろと言えたのに」
「な――」
「消えなかったら責任取れよ」


耳元に艶っぽい声で囁いて、うなじを強く抑え込まれて、
リザは背中を這い上がるぞくりとした感覚を抑え込もうと、思い切りロイの手を振り払った。
顔が熱い。
首元を抑えて、リザは目の前でにやつくロイを怒鳴りつけた。


「の、残るわけないでしょう、そんな傷!」
「いや分からんぞ?よく見たら結構深い。痛い。ほらまた血が出てきた」
「無理やり押すからです!わざと広げないで下さい!舐めてれば治ります!」


珍しく肩で息するリザを一瞥して、ロイはおもむろに薄っすらと血の滲む指先を差し出した。


「ならせめて責任もって君が消毒してくれたまえ」
「……医務室に――」
「消毒薬は染みるからイヤだ」
「子供ですか貴方は!」


目の前でピコピコ楽しそうに振ってみせる。


「護衛官が護衛対象を負傷させて放置するつもりか?ホークアイ中尉?現場での迅速な応急処置は?」


本当に楽しそうで溜息が出る。
ふふんと鼻を鳴らしそうな得意げな顔で立てた指を遊ばせるロイから視線を落として、
リザは先程の下降した気分が、別の意味で下降していきそうだと肩を落とした。


「……一度済ませました。的確な医療処置を施すために現場からの即時撤退を」
「痕が残るかもな。まあ、それならそれで私は別に構わんが」


マニュアル通りの回答で切り替えしたリザに、ロイは即座に言ってのける。
残るわけがないではないか。
だがそう言い捨てることができないのは、答えを渋るリザの目の前で、少しだけ機嫌を損ねたらしいロイが、
傷口を爪で弄る行為に走っているからだ。
この男、本気で傷口を広げかねない。
これでもかというくらい眉間に皺を寄せて、リザは吐き捨てるように呟いた。


「…………いやな人」
「ほう。それが上官に対する態度かね」


それに面白そうに眉を上げたロイから、乱暴に指を引き抜く。
無理やり押されて広げられた傷口に溜息一つ――


「染みますよ」
「リ――」


整理するためにまとめたファイルが床に散乱して、また最初からやり直さなくてはならない。
視界の隅にちらつくそれに胸中で息を吐いて、リザは、おそらく無意識に引き抜こうとしたロイの指を咥え直した。







コメ

ドギ☆マギ・しますたんぐ>増田談
…なんか無理矢理な感がしますが、ご愛嬌ということで☆★

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