休日とはいえ、昼近くまで寝ていることはほとんどない。
仕事がある日と違い、目覚し時計のセットに敏感にならないくらいの余裕で、
朝といわれる時間帯に起きることはリザにとって苦痛ではなかった。
もちろん疲労困憊で思わず寝坊、という事態が一度もないといえば嘘になるが、
ブラックハヤテ号が来てからその率も格段に減っている。

それは生物を飼うことへの責任感も然ることながら、
人間よりも生に貪欲な本能を持つ彼によって起こされるというのが正しい。
餌や散歩を吠え立てて強請ることはしないが、
控えめに活動を開始する彼のカチカチという爪音がフローリングに良く響いて、
朝の澄んだ空気を伝わり、リザの起床に役立っていた ―――― というのに。


「なんで――――あなたがいるんですか」






賭けの代償  (19.策士)






主人の目覚めに気付いて、鼻先を押し付けながら全身で喜びを表現してくる愛犬の足が
微かに湿り気を帯びているのを訝しめば、


「散歩と餌は済ませた。コーヒーも淹れたぞ。後は我々の餌が欲しい」


悪びれずにそう言って、ロイは未だベッドの中で思い切り眉間に皺を寄せたままのリザの額にキスを落とす。
適度に暖められた室内。
ロイの証言、鼻腔をくすぐるコーヒーの香り、満足げな愛犬の表情。
それら全てがロイの侵入時間の経過を如実に物語っていて、リザはガクリと項垂れた。


「…………」


どうやって入ったかなど聞くのも馬鹿らしい。 鍵は後で直してもらおう。
そんなことよりもさして眠りの深くない軍人であるリザが、いくら同じ軍人で上官とはいえ、
ここまでの侵入に気づけず眠りこけていたことのほうが重大だ。
昨夜は特別疲れてもいないし夜更かしもしていないというのに。
無意識にロイの気配に気を許しているのではないかと考えると、悔しくて涙が出そうだった。


「……約束したじゃないか」
「約束?」


リザの無言をロイへの怒りととったのか、ロイがベッドの端に腰を掛け、リザの顔を覗き込んだ。
休日の朝っぱらに不法侵入をしてもいい、なんてバカげた約束をした覚えはない。
しかし疑問の声に不満げにリザを抱き寄せる男が不覚にも可愛らしくて、「約束」の意味に思考を巡らせてみる。

休日にロイがリザの家へ来る約束――――?


「――あ」

思い出した。


「一日私のいうことを何でも聞く、と」
「言ってません!10個だけです!」

確かに約束はした。だがしかし。

「事実を勝手に歪曲しないで下さい。第一よく覚えてましたね……2ヶ月近く前の話じゃないですか」
「君こそよく思い出したな……数まで」


付け足された小さな台詞にロイの心情が表れている、とリザは思う。
そうだ。ロイと約束をした。
そんなつもりは全くなかったのだが、息抜きと称して対戦させられたチェスで、
「君が勝てたら今日の仕事を定時であげよう」というロイの言葉に、
旧友と久し振りの食事会を予定していたリザはバカらしいと思いつつも首肯したのだ。

――結果は惜敗。
対して出されたロイの条件は「負けたら何でも言うことをきく」。

期限と対象が明確でないことの指摘で30分以上もめた挙句、
勤務中のそれでは単なる上官命令でつまらないというロイの意見を考慮して、
次の二人の休日が重なった日に、ロイの我儘を10個きく、ということで収集したのだった。


「当然です」
「まあ言ってみただけだがね。ところで、朝の挨拶をまだしてないんじゃないかな」
「おはようございますいらっしゃいませ……というか勝手に入っていいという約束はなかったと思いますが」
「おはよう、リザ。細かいことは気にするな」


どこが細かいことだ。
言いたいのをぐっと堪え、リザはロイの腕を外す。


「着替えたら朝食にしますから出てて下さい。――これで一個目」
「ちょ、何だそれは!?」

ベッドからロイを押し出した背中につぶやいたリザに、ロイが思わず振り返る。


「さっき言ったじゃないですか、「餌が欲しい」って。
 本当は不法侵入への許可も数に入れたいところですけど……大佐?
 早く出ててもらえます?それともそこにいるのは2つ目ですか?」
「…………君、実は怒ってないか?」
「怒ってないとでも思ってたんですか」
「…………コーヒーの準備をしてくる」


しぶしぶ出て行く哀愁漂う背中に溜息を吐いて、一緒に待っててねとハヤテ号をついて行かせた。
賭けの内容に限定をつけて正解だったとリザは思う。
際限のないロイの我儘など、一日中きいていたのでは体が持たない。
普段からふてぶてしい態度のロイだ。
小さな要求を小刻みに数えていこうと心に決めて、リザはクローゼットの扉を開けた。



* * * * * * * * * * * * * * * * 



「……」
「不満そうだな。そんなにマズイか?」
「……イイエ。特に美味しくもありませんけど」
「君ね」


寝室での結論が如何に甘かったのか、リザは今更ながら歯噛みする思いだった。
今こうして、ロイの膝の上で、ロイの淹れた食後の紅茶を飲みながら。
さっさとこの賭けを終わらせてしまいたいと考えていた以上に焦れていたのかもしれない。
それとも寝起きでいつものような冷静な態度が崩壊していたのか。
朝食のリクエスト一つ、コーヒーのおかわり一つ、日常生活で使う言葉尻を捉えて
事細かに数え上げるリザに、ロイが何より迅速に学習し適応する生物であるということを失念していた。


「貴方が国家錬金術師だってことを忘れてました」
「全く関係ないと思うがね。君が小ズルイ手を使うからいけない」

くすくす笑ってリザの腰を器用に抱き寄せ、もう片方の手で紅茶を啜る。

「飲み難くないですか、大佐」
「うん」
「降ろして下さい」
「ダメ」


即答して抱き締める腕に力を込められ、リザはこの拒否も約束に入らないものかと身を捩った。
しかしその動きすら面白そうに首筋で笑うロイが憎らしい。


「……もうっ、大佐!これじゃ何も出来ません!いい加減に離して下さい!」


飲み終えたカップを抱えて、自由になる首だけ捻り睨みつける。


「酷いな。頼んでもいないことは勝手に数に入れといて、頼んだ約束は反故にする気か?」
「限度というものがあるでしょう」
「そう、約束には限度があったな。君のおかげで残りは幾つだった?4つ?」
「3つです!」
「知ってるよ」


油断も隙もあったものじゃない。
分かっていて言うところが本当に性質が悪い。
こんな類の我儘をそう増やされてたまるか、と頭を押さえた。
ロイが来てから今日は溜息が止められない。

不意にカップが取られたかと思うとテーブルの上のソーサーに戻され、リザの体が反転した。


「――ちょっ、今度は何ですか!」


軽く両脇に添えられた手に抵抗して体を捻れば、自然とロイの足の間に膝をつく形になる。
崩れそうになるバランスを、ロイの肩を掴むことで何とか取り直しそのまま睨めば、
苦笑を浮かべたロイの手がリザの腰に回された。


「機嫌の悪い君を抱いているのもどうもね……笑ってみない?」

貴方の所為でしょう、と言いかけて、リザは暫し逡巡し、

「それ、数に入れてもいいですか」
「…………今日一日怒らないというので手を打つよ」
「そんな微妙な……」


また溜息一つ。
面白くもないのに笑えと言われるのと、この状態で怒るなと言われるのと、一体どちらが理不尽だろう。


「機嫌直った?」
「……直しました」


下から覗き込まれるロイの視線を何とはなしに避けて、シャツから覗く鎖骨を見やる。


「本当に?」
「本当に――――って大・佐!何してるんですか!」


不安定なバランスの上にいたリザの腰が急に引かれたのと同時に、
ロイの掌がセーターの裾から侵入し、背骨をなぞる。
制止のため咄嗟に回したリザの腕を掠め逃げ、今度はカーゴパンツの上から大腿部を器用になぞり始めた。


「怒らないんだろう?」
「限度があるってさっきも……や…ッ…!こ、これも我儘の一つ、です…かッ!?」


片手でリザを抱きとめて、ロイはリザの胸に甘えるように顔を埋める。


「んー……そうすると残り一つか?」

リザの胸に顔を埋めたまま、つまらないかと呟いて、下腹部をなぞっていた手をようやく制止し、また腰の辺りで組んだ。

「せっかくの我儘だからな。滅多に出来ないことがいい」
「…………」
「そうだな……よし――」


あ。なんかヤバそう。
本能が逃走指令を下すより早く、ロイの指令がリザに下された。


「リザからキスして」



* * * * * * * * * * * * * * * * * * * 



死ぬほど恥かしい。
ロイとするのが初めてなわけでは無論なく、リザからするのが初めてというわけでもなかったが、
こんな真昼間からムードもへったくれもなく、自分の腰を抱えてキスを待つ男に口付けるなどは前代未聞だった。

――――ハヤテ号だと思えば……!

そうだ相手は幸か不幸か愛犬と同じ黒髪だし。
キスするまで離す気はございませんとばかりにきつく組まれた腕を感じ、リザは顔から火が出る思いだ。
意を決してロイを見下ろす。


「――――ッ」


こういうことはもしかしたら勢いも大変有効なのかもしれない。
肩を掴む自分の手が馬鹿みたいに力んでいるのを感じていたが、そのまま軽くロイの唇に影を落とす。
後で触れてなかったと文句をつけられないようにと、感触が分かる程度に、だが軽く。


「これで、あと一個です!」
「…………」


キッと睨みつけてロイに怒鳴るが、全く意に関せずといった風にロイは小首を傾げた。
こんなことならむしろ抱かれていた方が良かったかもしれないとさえ思ってしまう。
なおも緩まない腕を解こうとリザが体を捩ったその時、


「リザ違う」
「はい?」

より強く抱かれたかと思うと、前のめりにロイにしがみ付いてしまったリザの頬に手を移してロイが言った。

「私はキスと言ったんだ」
「……だから」

したじゃないですか。
言いかけた言葉はロイの言葉に遮られた。


「ちゅうとキスは違うよ。やり直し」
「――な……っ」


何を言い出すのかこの男は。
ちゅうもキスもクソもない。
そもそもキスに具体的な定義などあるべくもない。
ママにキスして、と乳幼児に語りかけたら、舌を突っ込めと同義になるのかと鼓膜に直接問いかけてやりたい。
平然とリザを見据えるその瞳が悪戯に細められたのを感じ、リザは拒否を示そうとした。


「そんな馬鹿なこと――」
「――さっき君もしたじゃないか。朝食にコーヒーに……あと何だったっけ?
 不当にリクエストを変えられたからな。さて、世の理は等価交換だよ、中尉」
「な、なら!リクエストを戻し」
「却下。過去には戻れない」
「――――たい、」
「早くキスをしてくれたまえ」


自分の過ちをこんなにあからさまに認識させられたのは一体何年ぶりだろう。
しかも何年も傍にいて、いやむしろ傍にいすぎてロイのあざとさを忘れてしまっていた。
おそらく彼はリザの作意を読み取ったときから、ずっとこの機会を窺っていたのだ。
突発的に見えて実は綿密な計画。
さらに彼は執念深い。
先程と違い、薄く開けられた唇とロイの視線がやたらとリザの心臓を急かす。


――――思い出したときにはもう遅い。




* * * * * * * * * * * * * * 




「――――完璧v」
「〜〜〜〜〜〜〜ッッッ!!」


羞恥で涙が滲んできた。
ずるずるとロイの間にへたり込んで、これでもかというほど強く胸に顔を押し付ける。
顔が熱い。顔だけじゃなく全身火達磨になった気分だった。

どうして言いようにされているのか、自分が酷く間抜けに思える。
本意でなかったとはいえ、仮にも自分から仕掛けたキスでなんでこんな。
異様に長く感じられたキスの後、間近にあったロイの喜色満面な笑みがまた余計に腹立たしくも恥かしい。


「さて」


張り付いてしまったリザの顔を無理に引き剥がすこともなく、優しく頭を撫でていたロイが、
リザの耳元に唇を寄せて酷く優しい声音で囁く。


「このまま続きも勿論いいが。
 本当はデートとか膝枕とかそういう我儘をきいてもらいたかったんだがね……残り一つじゃ本気で迷うな」


そこにからかいが含まれていれば、リザはロイを突き飛ばしていたかもしれない。
だがリザを抱き締めゆっくりと髪を撫でさするロイの大きな手にも、声にも、甘く真摯な振動しか伝わってこなかった。
こそりと盗み見たロイの表情も真剣に悩んでいるようで、リザは少し胸が痛む。

膝で抱っこだのディープキスだの、そういった戯れをロイが絶対に望まなかったはずもないと思うが、
今回のそれはロイ曰くリザが「小ズルイ手を使うからいけない」というのも事実だろう。
せっかく二人重なった休日に、ロイは何を望みたかったのか。


「決まりました……?」


リザを抱きかかえたまま唸るロイに視線をやって、上目遣いに問う。


「何でも私の言うことをき」
「却下」


半眼で睨みつけるリザにはは、と笑ってロイはもう一度リザを強く抱き寄せた。


「冗談だ。――――決まったよ」


耳朶に直接囁きかけられて、リザの肩が一瞬竦む。


「……何です?」
「うんと甘えさせてくれ」









コメ

17001を踏んで下さいましたにゃんこさんのキリリクで
「攻め攻めな強気ロイロイと、困って弱って弱気リザたんの、イチャイチャもの」
……ど、どうっすか; イ、イチャイチャ出来てます?(滝汗)

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