秘密の賭け事




「ねーぇ?」
「……」
甘えた口調が耳に届いて、頭で理解するより先に、柔らかな感触がうつ伏せで枕を抱きしめていたらしい左腕に当たった。
「起きてる?」
誰だったか。というより、ここはどこだ。
まだぼんやりとした頭で考えて、慣れたベッドの硬さと匂いに、自分の部屋だと確信した。
途端に昨夜のことが鮮明に思い出され、私は枕に押し付けていた顔をさらにめり込ませたくなった。
「……起きてる」
「意外にお寝坊さんなのね」
くすくすと笑みを含んだ声音は愛らしく、朝の気付けには少し足りない気もするが悪くない。
何よりイヤミのない甘えは、まるで人柄を表しているかのようで、非常に可愛らしい。
「いいの?軍人さんがそんなに無防備で」
「……今日は非番」
「あらあら」
面白そうに言って、彼女が私の頭を優しく撫でた。毛先を弄る動作が手慣れている。なるほど。ハヤテ号がそうしてやると気持ちよさそうに頭を押しつけてくるのも頷けるなと場違いな感想を持った。

「ねぇ?昨日のこと――覚えてるわよね?」
「…………」
覚えていないと言えば良かった。
馬鹿正直に返してしまった沈黙が真実を雄弁に語ってしまい、私は更に枕に顔を押しつけると低く呻いた。悪戯っ子のようにのしかかられた甘い重さに、更に呻く。
腕から背中に移動してきた柔らかな双丘は相変わらず気持ちが良いのに、心はなんて最悪だ。
「お酒のせいにもしないなんて、正直者ね」
そうだ。この呻きの原因は、元はと言えば酒の席でのことなのだから、その手もあった。
というかむしろ酒が入っていたからこそ、交わしてしまった約束だ。が今更気づいても後の祭りだ。いっそ記憶をなくすくらいに酔えば良かったと思ってしまうこの体たらく。
「そんなに恥ずかしいこと?」
あまりに呻き続けていたせいだろう。彼女が可笑しそうに聞いてきた。
「……」
恥ずかしいこと?当然だ。
しかもやらなくてはならないという義務感がまたなんともいえない気持ちにさせる。それに私が約束実行したとして、後で何を言われるのかわかったものではない。

考えれば考えるほど、昨晩もう無理と負けを認めてしまった自分を今更ながらに罵倒してやりたい。
帰りの足がないの、と可愛いことを言っていたから、賭の代償はてっきり足代と高をくくっていたのがマズかった。あの店の女の子達が一筋縄でいくはずがないのに。
「――あら」
その彼女が私の横から退く気配があった。安普請のベッドが軋んで、すぐに別の気配に変わる。
まさか。急に近づいた慣れた空気に、胸の辺りがすうっと冷えた。
「随分楽しそうだな」
「……気配を殺して入ってくるの、やめてください」
思考に捕らわれすぎていた私が悪い。文句は分かった上での悪足掻きで、昨夜から負けが込んでいる私の立場は圧倒的に弱かった。
「やあ。おはよう、ヴァネッサ」
「おはよう、ロイさん。マダムに聞いたの?」
「せっかく戻ってきたエリザベスちゃんが別のヤツにお持ち帰りされた、なんて聞いたら居ても立ってもいられなくてね」
「やーん。ヤキモチー」

軽妙なやり取りに顔も上げられない私を後目に、2人は私を挟んで朗らかな笑い声を上げた。
「君が相手だと知っていたら、邪魔はしなかったんだけどね。随分楽しそうだった」
嘘だ。知っていて来たに決まっている。
「ガールズトークよ。気になる?」
「ははは、気になるなあ」
いつもの大佐然とした口調とは異なるロイさんの砕けた調子で、彼の手が私の髪を緩くとかしていく。
朝から感心するくらいよく回る口だ。仕事も同じようにこなしてくれればいいものを。
「どーしよっかなあ。ねえ、エリザベスちゃん?」
「何だ。私だけ仲間外れか。さびしいなあ」
軽口を叩く彼の長い指が、顔の横に流れる髪をすくって耳にかけた。
「ところで」
ぎ、と軋む音と同時に肩口に彼の重みが増す。ヴァネッサの柔らかさとはまるで逆な硬い厚みに、ビクリとする間もなく、こめかみのあたりに、ちゅ、と唇の感触がきた。
「おはよう。――リザ」
「――っ!」
名前だけ耳元で低く囁くなんて最悪だ。

「あー!」
しかし私の内心の悲鳴は、ヴァネッサの不満気な声でかき消されてしまった。
「ダメよ、ロイさんからしたらいつもと同じになっちゃうんでしょ?」
「何だ。いつもしてるってエリザベスから聞いたの?仲良いね」
そんなことを私が言うわけがない。わかっていながら面白そうに彼女に問う彼は絶対に確信犯だろう。
「次はエリザベスちゃんから、って約束したのに」
「ふぅん?何を?エリザベス?」
「知りません。覚えていません」
「私がお酒で勝ったら、ロイさんにおはようのキスするって。ね、エリザベスちゃん」
「――ヴァネッサ!」
「いやーん、怒られちゃった〜」
飲み比べなんて、ましてや本職となんて二度としたりするものか。
ヴァネッサはウチでは随分弱い方だ、とあの時煽ったマダムの演技も大したものだ。
「なるほど。良い賭だ。今度君を指名で店に行こう」
「きゃー、嬉しい。新作のドレスとバックが欲しかったの!」
やられた。彼女の真の狙いはそこだったのか。
「じゃあエリザベスちゃんにも怒られちゃっし帰るわね。ロイさん、あとよろしく」
「ああ。気をつけて」
こんな時こそ、送る気概を見せればいいものを。
私を完全に置き去りにして頭上を素通りする2人の会話は、まるで打ち合わせでもしたかのように流暢だった。

「……さて?」
「……」
バタンと閉まったドアの音を合図に、急に甘さを増した低い声音が耳朶をくすぐる。
「そろそろ、おはようの返事が欲しいんだがね」
いいだけ圧し掛かってきておいて、その言い方もどうだろう。
抵抗のつもりで顔を上げないまま、私は渋々口を開いた。
「……おはようございま――、っ!」
「足りない。彼女と約束したんだろう?」
枕と一体化していた体はいとも簡単に反転させられてしまった。
口角をいかにも愉しげに釣り上げた彼が、私をベッドに縫いつけるように近づいてくる。
「おはようのキス。ほら、早く」
「ちょ、大……」
「それともまだ寝ぼけているのかな、軍人さんは非番だから」
「――!」
一体いつから聞いていたのだろう。思わず口を噤んでしまった私の唇に、彼が人指し指を充てた。
睨む私に、彼が更に近づいて、わざとらしく眉を上げる。
「…む、何だ。違う?」
それから、一人合点がいったように息を吐いた。
「そうか。やり方がわからないならそう言いたまえ。仕方ない。私がじっくり教えてあげよう」
「違――大佐、いい加減に――、んっ」
どんな解釈でそうなった。
健やかな目覚めのキスには有り得ない甘ったるさを、楽しそうに降り注がれながら、これもした内に入るのかしら、と私は上がる息で考えたのだった。




爽やかな感じにしようと思ったんですが、脳内ピンクな私には無理ですた。

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