レッスン★ABC 私がまだ一介の学生に過ぎなかった頃、知り合った女の子がいた。 師と仰ぐ人の娘さんで、だが喜ばしいことに師匠の面影といえば、そのブロンドの髪色くらいの可愛い子だ。師匠の奥方にお目にかかったことはないが、娘は男親に似るらしいという世間の常識を覆した遺伝子は尊敬に値する。特に目元は拍手喝采したいくらいだ。 彼女の口数はあまり多い方ではなかったが、無愛想というわけではなかった。実際ジョークも言うし、くだらないことで笑いもする。沈黙が苦にならないタイプという意味で、そこだけはなるほど親子という感じがした。 師匠は素晴らしい知識を有する確かな学者だったが、巷に蔓延る横柄さはなく、ただ少し頑固な一面のある人だった。例えば師匠曰く、押しかけ弟子の私にはまだまだ錬金術の何たるかについて理解が足りないという理由から、錬金術の基礎の基礎しか教えるつもりはないと先に宣言されていた。そしてその言葉どおり、彼は亡くなるまで私に基礎以上のことを教えてはくれなかった。今なら、師匠の真意が私にも分かる。師匠は私が単なる空想少年に過ぎないことを、あっさりと見抜いていた。ただそれだけのことなのだ。 だからあの頃の師匠は、よく私に化学や錬金術の基本書を読むよう指示し、一人で書斎に篭ってしまわれることが多かったように思う。 そんなときの私は、彼女と二人で机を挟み分厚い参考書のページを捲るのだ。 * * * まるで化学の基礎は全て網羅していますとでも言いたげな分厚い本は、重みだけで博識になれる気がする。開く度に古紙特有の臭いがするのも知識の吸収に一役買いそうで、嫌いじゃない。だが数時間もこうしていると、そろそろ文字の羅列を追うのにも目が疲れてきた。錬金術のれの字もない本に少しばかりむくれたい気持ちになっていることも否めない。 だからというわけではないが、私は何となく本越しにリザを見た。金色の柔らかそうな髪が目に映える。私に向けられた旋毛に心の中で軽く手を上げて挨拶をすると、何かに集中しているらしい彼女の動向を窺った。 大抵の医者の子供が医学に興味を持つように、リザも錬金術に興味を持っているかというとむしろ逆で、私の薦めた推理小説や女の子が喜びそうな恋愛小説、そして何を思ったか馬鹿でかい家庭の医学大全などを読んで時間を潰していることの方が多い子だ。今日は何を持ってきたのかと、読書に飽きた私の好奇心が首を擡げた。 そう広くもない居間の机を共有している向かいの彼女は、今日は読書の日ではないらしい。机上に置いた本を見ては、難しそうな顔をして隣に開いたノートにペンを走らせている。時折指でなぞったり数ページ前に戻ったり。万年筆のキャップを下唇に当てて考え込む仕草が師匠と同じだと分かって、観察が少し面白くなった。 が、しばらくすると、彼女のペンが「x=」と書いてから止まってしまった。表情や仕草ばかりを追っていた私は、そこでようやく数学の問題だと気づく。 「……√7b」 「え?」 「答え。x=√7b」 「……」 私の声に顔を上げた彼女は、しかしそれが問題の解だと分かった途端、何も言わずに目を伏せてしまった。そしてまた何度かノートの端に同じ式を書いては同じところで行き詰まっている。せっかく教えたのに。自分で解けるまで答えを書こうとしないリザに呆れつつ、意外な頑固さにまた師匠の姿を見つけて、私は何だかまた少し面白くなった。外見はともかく、彼女は案外師匠に似ているのかもしれない。 だが師匠に私が解を教えられることなどあるわけもないし、仮にあったとしても、目の前のリザのようにむくれてペンを走らせたりはしないだろう。小さな師匠には小さいなりの愛らしさがある。それは大きな違いだ。 「……なんですか」 私の思惑に気づいたのか、彼女がむっとした表情のまま見上げてきた。咄嗟に否定しかけて、 「別に――いや、ちょっと可愛くないなあと思って」 笑いながら言い直す。と、一瞬だけ呆けたような瞳を見せて、すぐに剣呑な目つきで睨まれてしまった。眼光の鋭さもやはり師匠に遠く及ばない。 「ありがとうございました。ごめんなさい」 それでも自分の態度に少しは反省すべき点を見つけたのか、素早く反応して返すのは流石だ。しかしもの凄い早口と棒読みに、どの感情が一番上にあるのか露骨過ぎて余計に可愛い。 「が――頑固だなあ!」 子供らしからぬ機転と子供っぽい口調におかしさが込み上げて、私はくつくつと笑ってしまった。宿題の答えひとつ、教えられたら素直に書き込んでしまえばいいのに。変なところで自分を曲げないのは、師匠にも言えるが損な性分だと思う。が、リザがするとやはり可愛く思えてしまう。少し歳の離れた妹がいたら、こんな感じなのかもしれない。 「君はもっと融通の利くタイプかと思ってたよ」 普段は控えめで柔らかそうに見える彼女の新しい一面を今日知った。 「私も、マスタングさんはもっと紳士的な人だと思ってましたっ」 ガリガリという音を立てて、万年筆を紙に食い込ませながら抗議する彼女は、外見に似合わず結構気性が激しいらしい。教科書を私に見立てて語気を強めるのは、私を見ないという意思表示だ。まったくなんて強情な。 腹の底に湧いてくる笑いを押し留めて、私も参考書に視線を戻した。読んではいないがページを捲る。リザが私を見ないなら、私も彼女を見ない。変なルールを勝手に決めると、面白い遊びが浮かんだ。顔を見ないで会話をするなら、こういうのはどうだろう。 「なら、今度は紳士的に進言してみせよう」 思わせぶりな私の台詞に、リザがちらりと私を見たのを視界の端で確認したが、気づかないふりをする。ひとつ咳払いをして、私は声を落ちつかせた。 「君の気持ちは分かるよ。だけど今回は一旦その答えを受け入れて、笑顔を見せてくれないかな?――エリザベス?」 「……」 少々演技がかった言い回しで、ついでに彼女の名前も勝手に遊ばせてもらう。本名に近すぎて全くの偽名にはならないだろうが、フランクな言葉遊びには丁度いいと思う範囲だ。 が、落ちる沈黙と紙を指がなぞる音に、だんだん不安になってきた。もしかして結構怒っているのだろうか。 あんなことくらいで? そう思う気持ちがないでもないが、彼女は師匠の娘だと思い直す。侮ってはいけない。 わざとページを捲る音を大きく響かせながら、今度は私がちらりと彼女を盗み見た。 と、リザは万年筆を下唇に当てて、言葉を探しているような仕草をしていた。 ……良かった。怒っているわけではなさそうだ。 視線を戻して、彼女の出方を待つことにする。 「――…紳士と気障の違いが紙一重だとご存知?マ……ロイさん」 ようやく彼女が口を開いた。険はあるが、とりあえず会話の許可は下りたらしい。私に合わせて呼称も変えてくれる柔軟性があったとは驚きだ。 「はっはっは。これは手厳しいな、エリザベス」 言いながら、すっかり集中力の切れた参考書のページを悪戯に捲る。彼女の指が教科書の問題文を追う音が聞こえる。互いにいつもの口調と呼び名を変えただけで目の前にいるというのに、視線を合わせないだけで別人格と話をしているような面白さが出た。奇妙な不安定さを楽しむといえば分かるだろうか。 「ところでエリザベス。私の答えはやはり受け入れてもらえないのかな」 「ごめんなさい。ロイさんは性急過ぎるわ。もう少し自分で考えたいの」 カリカリと今度は大人しい筆跡の音が聞こえてきた。新しく式を書き直している音だろう。きちんと自分で理解してから進みたいという彼女の意思も、こういう言い方では違って聞こえる。紳士というより、私は悪い男みたいだ。なかなかどうして、彼女の演技は上手いじゃないか。 「待ってるよ。――君に私を受け入れる準備が出来るのを」 負けじと私も紳士ではなく少し甘さを出した口調に変えてみる。 「……それにはまだ時間がかかると思うけれど。貴方に待てるかしら?」 「早急に君の気持ちが解れるよう、私が手取り足取り優しく教えてあげたいくらいだよ」 「ロイさんお上手そうだものね。そうやって優しく教えてあげるのは私で何人目なの?」 ……参った。くすくすと笑いながらそういう彼女の声がいつもより高くて、本当に他の女と話している気になりかけた。まだ同じ問題で行き詰まっているくせに、私をからかう余裕があるとは。どこで覚えるんだそんな台詞、と言いかけて、私は先日彼女に渡した小説を思い出した。確か貴族の娘に恋をした身分違いのツバメの話だ。リザには少し早過ぎるかとも思ったが、女の子は早熟だと聞いた気がする。……今度からあまりリザに恋愛小説は薦めないでおこう。 「……まさか!君だけだよ、エリザベス」 「お上手ね。でも嬉しいわ」 ふふ、と笑うリザに、私は苦笑を漏らすしかない。彼女は確かに師匠譲りの頑固者だが、予想以上に融通も利くタイプのようだ。まったく前言撤回だ。 「――じゃあロイさん、何から教えてくれるのかしら?」 ぎ、と椅子を引く音がして思わず見ると、リザが万年筆をことんと机に置くところだった。手元には公式が書き散らかされていて、どうやら結局彼女はそれが解けなかったらしい。悪戯に指で教科書をとととんっと叩いているのは、教えてくれということだろうか。 「何からがいい?」 ただ開いているだけに過ぎない参考書をどうすべきか逡巡しながら聞いてみる。彼女はまだこの遊びを続ける気なのか良く分からない。 「――進みすぎてもダメみたい」 ふう、とリザがむくれた溜息を溢した。つまり、この問題を解く前にもっと基礎から教えて欲しいと言うことだ。 「ならどこから?」 聞くと、リザが宿題の束を捲る音がし始めた。んー、という唸り声はきっと無意識なのだろう。頬が緩みそうになるが、バレたら本気でへそを曲げそうなのでしない。真面目に私に聞く問いを吟味しているその姿が可愛いだなんて言ったら、きっと馬鹿にされたと思うだろうし。 「……B?」 ようやく捲る音が止むと、伺うようにリザが言った。その声は先生に自信のない解答を提出する生徒のように真剣で、やはり少し面白かったが、彼女の熱意に応えて私も大人しく会話遊びを止めにする。 分厚い参考書は閉じて机の隅に置く。ここからは彼女の家庭教師だと頭を切り替える。私は心持ち身を乗り出して、リザの手元を覗き込んだ。 ざっと設問に目を通して、何となくリザが問題に詰まった理由が分かる気がした。基礎と応用がめちゃくちゃな配置だ。性格のあまりよろしくない数学教師に当たったらしい。 どこからやれば分かりやすいだろう。使う公式を頭の中で思い浮かべると、Bよりも先に別の問いをするべきだと思った。 私は椅子から腰を浮かしながら、教科書の問いに指を伸ばし―― 「いや、Cから――」 「――Aから始めるのが道理だろう」 ――た途端、リザの背中のドアが開いた。師匠だ。 だが気のせいか、師匠は周りに冷気を伴っているように見えた。理由は分からないが、溢れ出る空気に圧されるように、私は浮かしていた腰を椅子に戻すと姿勢を正した。 何だ?表情は変わらないが、私が元素の分量を誤って小火騒ぎを出した時より、怒っている気がするのは何故だ?無条件に背筋が伸びる。 「そもそもお前達いつの間に……」 軽く首を振りながら呟かれた師匠の言葉に、私は師匠が何かとんでもなく大きな誤解をしていることにようやく気づいた。 ――師匠。一体いつから聞いてらしたんですか私たちの会話遊びを。 気づいた途端、師匠の顔にただならぬ怒気すら渦巻いて見えて、私の頬がどんどん引きつる。小慣れた男女の会話に続いて、手取り足取り恋愛ABCといえば、父親の気持ちはいかばかりか。ちょっと待て。私は一足飛びに大事な娘をCに誘った最低男か! 弟子の継続よりも人としての生存が危ぶまれる状況だ。どうすれば穏便に誤解を解けるのか必死に頭をめぐらしているところへ、きょとんとした彼女が首を傾げた。 「――でも……Aはもう終わってるのに?」 「リザ、さんっ!」 火に油を注ぐ真似を! 「ローーーイーーー……」 彼女の台詞を受けて、ゆらめき始めた師匠の微笑がこれほど恐ろしく見えるとは。 師匠が手にした紙に何かの陣を書き終える前に、この場から絶対に逃げるべきだ。誤解を解くのは次の機会にしよう。瞬時にそう弾き出し、脊椎反射で飛び退った瞬間、今まで座っていた椅子がおかしな吹っ飛び方をした。そこから煙が上るのを見ては駄目だ。気のせいだ。 「さ、算術ですっ!」 必死に怒鳴った私に、しかし師匠が不敵に笑う。 「――計算づく、か。いい度胸だ」 呟かれた師匠の台詞は、どうか被害妄想に取り付かれた私の空耳であって下さい。祈る私の後ろ髪が、ちりりと焦げた臭いをだした。 * * * 「――というわけで、また君の店に邪魔するよ、エリザベス」 「嬉しいわ。久し振りだもの。今度はゆっくりしていけるんでしょう?お店の子達にも声かけておくわ。ジャクリーンと……ケイトもいいわね」 受話器の向こうで楽しそうな女の声が聞こえる。予定の日のカレンダーにハートマークでもつけてそうな雰囲気に、私もだらしなく眦を下げて応対した。その会話に辟易とした表情を浮かべる部下達を尻目に、誰に気取られることなく私達の打ち合わせは進んでいく。 まさかあの時の会話遊びが、こんなに続くとは思わなかった。意外に乗り気だった彼女の青春時代を思い出しながら、私は微かな感慨を抱いた。あの日始めた私たちの化かし合いは、幸か不幸かいまだに日々こうして洗練されているのだ。 「ロイさんが来る前に、ハイ子には買出しに行ってもらうわね」 「そうだな――って、ハイ子……?」 流れるようなリザの会話に相槌を打ち掛けて、妙な名前に我に返った。 誰だ?今回の作戦はハボック、フュリー、それにブレダとリザのはず―― 「あら、紹介してなかったかしら。あ、ブレ子? ……マン」 「ああああっ!ハイデリヒだな!分かった、あの新しく店にきた給仕!そうだな、君の細腕だと買出しも中々大変だろう。私が手伝ってあげたいのは山々なんだが、仕事で抜けられそうにないんだ、すまんな!はっはっは、やはり買出しに男手は必要だろう!」 次に続くだろう名前は、どうしても彼女の口から言わせてはいけない単語になる気がして、思わず大声で遮った。咄嗟に男の名前になってしまったが、緊急事態だ。仕方あるまい。 「――君にはいつも敵わないよ、エリザベス」 「?どうかしたの?」 あの日のきょとんとした顔が目に浮かぶような声を出す。私は苦笑するほかない。 「――あら、そろそろ開店準備の時間だわ」 「じゃあまた電話する。愛してるよエリザベス」 「あらあら、ありがとう。でもそちらのお仕事も頑張ってね。怖〜い副官さんにもよろしく」 「それを言うなよ」 最後の彼女の駄目押しに、やはり苦笑で答えつつ、私はゆっくりと受話器を置いた。 打ち合わせは恙無く終わった。いや、一人おかしな名前の奴が出てしまったか。だが馴染のクラブを考えてみても、まったく男っ気がないのもおかしいだろうからまあいいとしよう。 ……しかしあのネーミングはないだろう。 あの日、私が遊びでつけたエリザベスに捻りの欠片もなかったことは認める。そして対するリザが、私へ咄嗟に彼女流の名前を与えなかった幸運を思う。通じたら怒られそうな感謝の祈りを、私は心の中でエリザベスにそっと捧げた。 ロイロイの思い出話→現在、みたいな話。 |