1.レモンの味




「――味見ですか」
「そ。頼むよ、リザちゃん」
電話の向こうでぱん、と両手を合わせた音がして、リザは受話器を肩で挟みながら、ロイ宛に届けられた小さな箱包みを開けた。少し焦げ目のついた、いびつな形の小さなクッキーが数枚入っている。しかし製作者の人柄を表すような素朴な温かみがあった。
「こっちだと皆大丈夫とは言ってくれんだけど、やっぱ心配でな。これくらいならいけるか?」
「それは……ご本人に直接聞いた方がいいのでは」
「やっぱサプライズが喜ぶかなと!」
「……」
やはりロイの親友だ。
グレイシアの妊娠が発覚してからというもの、ヒューズの惚気ぶりにはロイが相当愚痴を溢していたが、まさか自分がヒューズお手製クッキーの試食を進められる羽目になるとは思ってもいなかった。
しかも皆ということは、中央では周囲が既に惚気の盛大な犠牲になったということか。

いつもながら書類の受け取りに執務室のドアを開ければ、そこに居るべきべきロイの姿はそこになく、未処理の書類が累々と積まれているだけで。息を吐いて探しに行こうと、リザが踵を返しかけた瞬間。
ロイ・マスタング大佐にと回された軍内回線を受けて、不在を伝えた相手がヒューズだった。
伝言を承ると言い掛けたリザの言葉を遮って、それならばとロイの代わりに味見をしてくれと頼まれたのだ。
「グレイシアさん、体調はいかがですか」
「まだ悪阻とかそういうのはないって言ってたな。なあ、それ悪阻あるとダメそう?」
「未経験なので返答しかねますが」
「酸味のあるものが良いって聞いたからさー」
「……」
なるほど。いっそ小気味良いくらいに、人の話を聞いてくれない。
常日頃ロイが頭を掻き毟りたくなると言っていた気持ちが少し分かった。
「ささ、うるさいのが戻ってくる前に食べてみて」
「はあ、では」
本来ロイに食べさせるはずのものではなかったのか、とか、悪阻の程度は人によると聞くが、本当に重い人になら、どんな味だろうとダメなものはダメではないのか、とか。
それらを何となく言い出しにくいまま、受話器越しの勢いに圧されて、リザは一枚口に入れた。咀嚼する。
「――美味しいですよ」
「おー!そっか!うまいか!」
予想外に口当たりが良かった。バターが程好く生地に馴染んでいて、しつこくなく、それでいてしっとりとした食感だ。甘さは控えられていて、女性受けしそうでもある。
妊婦を基準に、というクッキーの評価は分からないが、素直に美味しいと思った。
「レモンですか?」
「あ、わかる?風味を研究したらいきついたんだよなー」
エッセンス的に使われているのだろうレモンの香りが、後味をより爽やかにしている。
妊婦=酸味といういかにも男らしい無骨で簡素な図式だが、彼の妻に対する愛情があけすけに見えて、微笑ましく思えた。

しかし純粋なクッキーの感想からヒューズお得意の盛大な惚気に移行する気配を察したリザが、自分の仕事を理由に受話器を置けたのは、それでも数十分が経過した後だった。
ロイへの伝言は、結局何もないままだったことに気づいて、少し可笑しくなる。
「ずいぶん長電話だったな」
「――大佐」
背後に憮然とした表情で執務室のドアにもたれたロイを認め、リザは頬を引き締めた。
口調から相手がヒューズだったことは知られているらしい。
「貴方は随分と長い休憩でしたね」
「……君の電話の邪魔をしてはいけないと思ってだな」
「別の気遣いをいただきたいものですが」
未処理の書類に視線をやれば、途端に目を泳がせて口篭る。
「惚気話はどうだった?」
分が悪いと悟ったロイは、話題を変えることにしたらしい。
視線だけは、リザから机上の書類の山へと移動させ、やる気のあることを示唆してみせる。
「お菓子の味見を頼まれました」
「菓子?ああ、夫人にクッキーを焼くとか言っていたな」
小箱を見せると納得顔でロイがリザに歩み寄った。
そんなことより机に向かえと視線で促したが、そこはまったく意に介されない。
大体そこまでヒューズの話を聞いていたなら、味見の件も聞いていただろうに。大方サボりに託けて、味見と称する惚気から逃げたに違いない。

「うまかったか?」
「ええ」
「あいつが菓子作りね」
リザの持った小箱を覗き込んでロイが言った。
呆れたような揶揄するようなその口調に、気の置けない仲の良さが伺える。
「美味しかったですよ。それに中佐の愛情がこもってました」
「……ふうん」
感想を告げると、ロイはおもむろに黙ってしまった。
不思議に思って顔を見るが、リザを見るではなく小箱に向けた視線からはロイの感情は読めない。
ただ何とはなしに、不機嫌そうなことだけが分かる程度だ。
「大佐?まだありますよ?」
まさか全部食べてしまったとでも思われたのだろうか。
どうせしばらく机にかじりついてもらわねばならない書類の量だ。そもそもこのクッキーをお茶請けにコーヒーでも淹れてこようと思っていたのだ。
(また逃げられる前に用意してこようかしら)
そう判断して小箱を渡そうとしたリザの手首は、ロイにおもむろに掴まれた。勢いで落としかけた小箱は器用にもう片方でキャッチして、掴んだリザの指を口に運ぶ。
「どれ」
「――」

言うが早いが、指先にじっとりと濡れた感覚。
「な」
含まれて舐られた。
理解と同時に引き抜こうとした指を、しかし思いのほか強い力で止められる。
指についていただろうクッキーの残滓と油分を、馬鹿丁寧に掬われるのが、ロイの舌の動きで分かった。
指の腹に感じるざらつきに思わず視線を窄めれば、してやったりと言わんばかりの笑みで、ロイがふんと鼻を鳴らしてリザを見下ろす。
「愛情?ただのレモン味だ」
だから、それが愛情だろう。
真っ当なリザの抗議は、しかし再び指を含まれて喉の奥に張り付いてしまった。





指にキス。

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