4・罰ゲーム 基盤の上をナイトがすべる。 「――チェック」 「チェックメイト」 「む」 すかさず静かに返された動きに、ロイは喉の奥で小さく唸った。 「あーこりゃ大佐の負けですね」 「……」 二人の対戦をひょいと覗き込んだブレダが、あっさりと勝敗を口にする。 眉根を寄せたロイを無視して、リザが実にあっさりと駒を盤上から退け始めた。 慣れた手つきで盤を返し、駒たちを丁寧に仕舞ってしまう。 まったく、敗因を吟味する時間すら与えてくれるつもりはないらしい。 「約束どおり、今日中に終わらせてくださいね」 「わかってる!」 机上に山となっている大量の書類を一瞥し、リザにしれっと念を押されて、渡されたチェス盤を受け取りながら、ロイはくそうと毒づいてみせた。 ***** 夜半を過ぎて、夜勤者が持ち場を衛る気配が色濃くなった頃、そろそろデスクワークに終わりの兆しが見えてきた。息抜きにコーヒーでも淹れようと首を回して立ち上がり、執務室のドアを開けて、ロイはそこに見つけた人物に僅かに驚いた風で声をかけた。 「――帰らないのか」 「ええ。もう少し」 必要な仕事は終えていたはずのリザが、お疲れ様ですと微笑で返す。 手元にあるファイルは緊急を要するものではないはずだ。 それだけで、彼女が何故残っているのが知れてしまう。 「付き合わなくてもいいぞ。賭けに負けたのは事実だし」 「賭けも仕事を溜めていらっしゃったのも事実ですけど、そこまで酷い部下ではないつもりです」 そういえば、リザに退勤の挨拶をされていなかったことを今更ながらに思い出し、ロイは苦笑でリザの分もコーヒーを淹れる。 昼間にはない上官からの心遣いに、リザが些か慌てたように立ち上がった。 「大佐、私が」 「いや、どうせついでだ。それに最終チェックを頼む下心も込みだから、気にしなくていい」 ロイの言葉で、リザは苦笑しつつも礼を言ってマグを受け取る。執務室へと軽く顎を向けてみせると、リザは目だけで頷いて、ロイの後ろについてきた。歩きながら自分のマグに口をつけて、ほとんど苦味だけのコーヒーを飲み込む。相変わらずの不味さに笑いが込み上げてきた。 「……何か?」 「いや。自分で淹れといて何だが、これ等価交換にならんなと思ってね」 不味いコーヒーと時間外勤務。 そうですね、と応じるリザの声も心なしか笑っている。 「あと少しで終わる。そしたら何か食って帰るか」 どうせ断られる体で、いつものように軽口を叩けば、そうですねと同じように返された。 思わず振り向くが、自分について執務室へ入ったリザが、律儀にドアを閉めている背中と目が合って、聞き返すのは止めにした。断られたら元も子もない。さっさと終わらせてさっさと食事だ。それが利口だ。 静かにソファに腰を下ろしたリザを確認して、ロイは大人しく口を噤むと、残りの処理に取り掛かった。 ** やる気を出せば、こんなものだ。 それからものの数分と経たないうちに終えた書類のチェックをリザが受け、応接用のテーブルへ処理済の束が置かれている。それも順調なようで、あと10分もないだろう。 白い手が丁寧に紙を捲るのを黙って見ていたロイは、おもむろに立ち上がると、ソファの背もたれから集中しているリザを覗き込むようにして体を傾けた。 「ところで、君、チェス上手くなったな」 「対戦相手が上の空だったようですから」 若干唐突気味に投げた台詞に、しかしリザは動じず返す。 昼間の対戦の感想も、実にシンプルなものだった。 「……なんだ。バレてたのか」 決して手を抜いたつもりではないが、真実本気だったかと問われると否だ。 書類整理の期日を賭けたお遊びのようなものではあったけれど、勝負事には厳しいリザのことだ。気分を害しているのかと顔色を伺ってみたが、どうやらそうではないらしい。 「あそこでビショップを切るのはいただけません」 横目で合った視線には、僅かにロイを気遣う色が見える。 暗に、チェスに身を入れられない問題でもあったのかと心配を掛けてしまっていたらしい。なるほど。だから残務に付き合ってくれたのか。 ロイはまいったなというように後頭部を軽く掻いて、正直に白状した。 「うん。いや、君と対戦というのも随分久し振りだと思ってたらだな、ビショップがいつの間にやらこう――」 「……」 君の手に。 手の甲を裏返して、消えた様子を表すロイに、リザが目を瞬いた。 上の空の原因がわかったという安堵よりは、そんなことでと呆れに近い表情だ。 書類に戻ってしまった視線を追って、ロイも再びリザの手の動きにあわせながら、邪魔にならない程度の感想を続ける。 「それ抜きにしても、強くなったと思う」 昔は駒の動きひとつ知らなかったことを知る身であれば尚更だ。 「先生が良かったんですよ、きっと」 「先生?」 無視されるか、少し黙っていてくださいとあしらわれるかと思ったのに、リザは意味ありげにそう言った。 グラマン中将のことだろうか。いや、軍部内でそんな手ほどきを中尉階級にした等という話は聞かない。 誰のことだと訝るロイへ、リザはあっさりと答えをくれた。 「昔、父のところへよく来ていた男の子が教えてくれたんです」 それにロイの方が目を瞠る。 私のことか?いや、私のはずだ。 「……ふぅん?初恋か?」 確信してロイは口角が試すように上がるのを感じた。 が、リザはまるで意に介さず、ページを捲る手を止めない。 「さあ……あ、誤字ですね。訂正お願いします」 「ん。ペン貸りる」 「どうぞ」 不精だが肩越しに手を伸ばしたロイへ、リザが万年筆を渡してくれた。 該当箇所を訂正し、彼女へ返す。 「で?その少年が初恋だったのか?」 「どうでしょう。忘れました」 他愛ない世間話のようにもう一度聞くが、やはりあっさりとかわされてしまった。 だが、否定されないというのは上々だ。 この姿勢では表情が見え難い。 「どんな少年だった?それくらいなら覚えているんだろう?」 「そうですね……」 軽口を叩きながら、ソファを回ってリザの横に腰を落ち着ける。 ロイの方を向きこそしないが、リザは少しだけ考えるように手を止めて、それからふ、と表情を緩めた。 「真面目で勤勉な人でしたよ。大佐とは正反対ですね」 「そういう奴に限って、碌な大人にならないんだ」 思わぬ返しに憮然と言えば、そこで初めてリザはロイの方を向いた。 じっと見つめ、物言いたげに小さく首を横に振る。 「…………本当ですね」 いかにも今が碌でもないというかのようだ。 「……その目は何だね、ホークアイ中尉」 「いいえ」 半眼で返せばまたあっさりと書類に視線を戻されてしまった。 憮然として、ソファに片腕を預ける。来客用にと誂えられた革張りのソファが、ぎっと軋んで体に馴染んだ。 「彼のそんなところが気に入っていたわけか」 「いえ、別に?」 「…………」 これには極あっさりと否定されて、ロイは更に渋面を作った。 「熱心な人だなとは思っていましたけど」 「あ、そう……」 それはつまり、別段恋心などなかったといっているようなものではないか。 珍しく彼女の方から昔の話を振っといて、随分落としてくれるものだ。 残り数枚となった書類を手繰るリザに僅かに背を向け、溜息を吐く。 「でも」 しかし。 「父が亡くなって独りになって、部屋で彼を思い出す程度には気になっていましたけど」 想像もしなかった告白はやはりあっさりとしたもので、だからこそそれが冗談などではないのだとわかる。思わずリザを振り返ると、まるで今の話はなかったかのように、最後の一枚に目を走らせていた。 「大佐は――」 「な、何だ」 やおら名前を呼ばれて上擦った声が出てしまった。それにリザが顔を上げて、どうかしました?と首を傾げる。気恥ずかしさを誤魔化すように咳払いをひとつして、ロイはもう一度「何だ」と促した。 「チェスの師も女性ぽいですよね」 も、とは何だ。も、とは 揶揄するようなリザの口調に、ロイはがっくりと肩を落とした。 確かに最初にチェスを教えてくれたのは養母だが、上達の師なら中将だ。知っているくせにどの口が言う。 ロイはちらりとリザを見て、憮然と胸を反らしてやった。 「まあ私は昔からすこぶるモテて大変だったからな」 「そうですか良かったですね。大佐、ここも訂正です」 「すみません」 平坦な口調は相変わらずのリザから差し出された書類に頭を下げた。 受け取って、これが最後の一枚だと気づく。 このまませっかくの会話を終わらせるのも惜しい気がした。 それに、動揺したのが自分だけというのも何やら面白くないではないか。 昔話なら、ロイの方にだって、リザの知らない話もあるのだ。 「――昔、とてもお世話になった師に良く出来た娘さんがいたよ」 単純なスペルミスをゆっくりと訂正しながら、ロイが思い出したように言うと、リザが一瞬だけこちらを見たようだった。誰とは言わないし、リザも聞かない。 「初恋、なわけありませんね」 「どうだったかな」 意趣返しのつもりか、リザの言葉を、しかしロイも先程のリザのように曖昧に答える。 「幸運にも師匠に全く似てなくて可愛かった。早くに亡くなったそうだがね、きっと母親似だったんだろうな」 「……存命ならば母親を狙っていた、と」 「誤解だっ」 そんなわけがあるか。 冗談なのか本気なのか、僅かに身を離そうとしたリザに思い切り訂正を入れて、目を合わせて断言する。 「本当に可愛い子だったんだよ」 「そうですか」 しかし反応は面白くない。 「気になるかね」 「いいえ」 あまりに簡素な結論に、むしろロイの方が焦れてきた。 せっかくの昔話だ。もっと別の反応があってもいいじゃないか。 「気にしたまえよ」 「しましたよ。熟女狙いだったかどうか。――大佐、訂正終わりました?」 「終わってない」 もうとっくに書き終えている書類を、ロイはキャップをし終えた万年筆の後ろでコツコツと叩く。 まだ会話を終わらせる気がないことを理解して、リザは観念したように息を吐いた。 「どんな子でしたか」 やや棒読みともとれる口調で、ようやくリザが聞いた。 どんな子。 真面目、勤勉、頑固、純粋。 そんな単純なものではなくて、ロイが一時考えないでもなかったことは。 「妹がいたら、こんな感じなのかと思ったことがある」 初めて師匠に娘だと紹介された時だろうか。 自分よりも頭2つ以上小さな女の子と挨拶を交わして、ほんの数瞬そう思った。 「そう、なんですか」 初めての告白に、リザが僅かに驚いたようにロイを見る。 ロイはしてやったりの気分で続けた。 「すぐに勘違いだと気づいたがね」 「……そうですか」 今度は少し間があった。 横を見ると、隣に座るリザの視線も落ちている。 その瞳に翳りを見つけて、ロイはいらぬ誤解を払拭するようにリザの前髪をさっと掬った。 「寝顔にうっかりキスしたからな。妹にはしないだろ」 「――は?」 リザがまるまる一呼吸置いて、撥ねたようにロイを見た。 意表をつかれて、まるでわからないといった顔だ。 ロイはわざとらしく顎をさすり、首を傾げてみせた。 「いつだったか……隣に座って本を読んでいた彼女が珍しく居眠りを初めてね、そのままもたれかかってきた」 おそらく記憶をたどっているのだろうリザも、眉を寄せて視線を彷徨わせている。 だが思い出せなかったらしい。僅かに瞳を揺らすリザの視線を受けながら、ロイは片眉を上げてみせた。 「名前を呼んでも起きなくて、疲れていたんだろうと思って」 「あの、それはいつの――」 「寝顔を見てて、気づいたら」 思わず口を挟んだリザの瞼を、掌で覆う。咄嗟に背を伸ばしたリザへ、掠めるように唇を奪った。 ちゅ、と二度目はわざと音を立てる。一瞬遅れて首を竦めたリザの瞼から、ゆっくりと手をはずしてやる。 「こんな風に」 「……」 ゆるゆると瞼を持ち上げたリザが、ロイを見て口を開きかけ、そのまま息を飲み込むように、自分の手で口を覆った。思い切り顔を背けたせいでこちらを向いた耳が、心なしか赤い気がして、ロイはこっそりとほくそ笑んだ。 「まあアレだ。無意識だな」 悪びれなく肩を竦めて楽しげに言えば、リザがむっとして横目でロイを睨んできた。 「……今のどこが無意識ですかっ」 「昔の話だ。若かったからな。自制が利かなかったんだろう」 「もう若くないんですから、自制してくださいっ」 とげとげしい口調で言うと、リザがロイの訂正を終えた書類を取ろうと身を乗り出してきた。 この話は終わりとばかりに手を伸ばす。 それより先に書類を掠め取ると、ロイはリザの側に積まれていた書類の上に、さっと乗せる。 不意をつかれたリザの体が僅かにバランスを崩した隙をついて、ロイがもう一度唇を重ねた。 「うん。だからちゃんと起きている時にするようにしてる」 「――た」 「あの時は出来なかったから、な」 やはりキスは、気づかれた方がしがいがある。 思い切り顎を引いたリザの態度にくつくつと肩を揺らしながら、ロイは改めてそう思った。 むしろ中尉の罰ゲーム。 |