5・キスが嫌いになる




休憩の号令とともに辛気臭い溜息を吐き出したのは、本当に無意識のことだった。
が、朝から滞りなく仕事はこなしていたし、ちょっとした息抜き程度と流してくれるだろうという思いは、冷たい上官に砕かれた。
「聞かんぞ」
「……何も言ってないっスよ」
「聞かれたそうな溜息をつくな」
珍しくサボりもナンパもせず仕事に勤しんでいた大佐が、休憩だというのに更に珍しく、まだ書類を捲りながら素気無い言葉で畳み掛けてきた。へいへい、と答えつつも、また無意識に溜息が出たらしい。
「悩み事?」
俺と大佐のやりとりを黙していた向かいの中尉が、ちらりと大佐に視線をやって、俺に声を掛けてくれた。
「中尉〜」
「聞かなくていい。どうせ女絡みだ」
「ひでぇ!」
思わず縋るような声を上げると、容赦のない口調で切り捨てられる。
せっかくの中尉の厚意を、何でアンタが下そうとする。まったくもって酷すぎだ。
大体女だなんて言ってない。それに何絡みの問題だろうが、悩みある部下に対して追い討ちをかける上官がどこにいる。叫んだ俺を宥めるように、中尉が苦笑で小首を傾げた。
「で、本当のところは?」
「――女絡みっス」
「……」
「……」
沈黙が痛い。
大佐の予想が的中したのは、たまたま偶然で仕方がないのだ。断じて俺のせいじゃない。
「ほらな」
大佐が呆れたように盛大な溜息を吐き出して、書面から顔を上げた。
聞く気がないなら、部下二人の世間話と流してくれれば良さそうなものを、つまらなさそうに組んだ両手に顎を乗せて鼻を鳴らす。
「どうせまた振られたんだろ」
「ちょっと!?振られてないっスよ!」
どんな断定だ。断固抗議だ。
だというのに。
「振られそうなの?」
「……中尉まで……」
フォローのつもりか、神妙な顔つきで中尉にまでそう言われて、さすがに泣きたくなってきた。
女絡みの悩みと言って、予想されるのが別れ話までならまだ分かる。が、どうして俺が振られる側限定なんだ。揃いも揃って、部下の繊細な恋心を抉って楽しいのかアンタらは。
しかし心底驚いたように「違ったのね」と中尉に驚かれて、少なくとも彼女の方に悪意はなかったのだと自分を宥める。いや、最初からそれは分かっていた。悪意がないから余計にちょっと傷つくなんて、思った方が負けなのだ。
今度は敢えての息を吐いて、俺は中尉に向き直った。

「なんか最近彼女が妙に余所余所しいというか」
「時間の問題だろう」
「例えば?」
大佐の酷い台詞を華麗にスルーして、中尉が事例の詳細を求める。
それに大佐が一瞬だけ苦虫を噛み潰したように顔を歪めた気がしたが、半眼で中尉と、それから俺まで睨まれて、慌てて中尉に意識を戻した。
「……デートが夜まで続かなくなった気がするんスよね」
「1、退屈。2、デートより優先される事項があった。3、時間が勿体無い。4、飽きた」
更なる非情な推測は、中尉に倣って聞こえない体を装い続ける。
「あー昨日はおやすみのキスをやんわり避けられたような」
「決定的だな。5、別れたい、だ」
「選択肢増やした!」
しかし最悪の断定をされて、さすがに無視もきかなくなる。思わずつっこめば、さすがに中尉も咎めるように眉を顰めて、大佐に鋭い視線をくれる。
「言いすぎです。せめて1か4くらいに」
「……中尉、フォローになってないっス」
もう本当に泣いていいだろうか。許される気がする。なんだかんだで二人とも酷い。
袋叩きにされてる気分で顔を覆った俺を尻目に、大佐がふんと胸を反らした。
「フォローのしようがない。デートの切り上げ、挙句キスまで避けられたんだろう?諦めろ」
「だからやんわりとですって!つか本当俺の気のせいかもしれないし!」
くそう。
自分には起こらない状況だからって好き勝手に言ってくれる。
ここ最近の様子から、もしかしたらなんて自分でも考えたことがないわけではない最悪なパターンを、こうもあっさり断定されて、自分で自分を擁護してしまうのも悲しいものだ。
「たまたまタイミングが悪かったのかしらね」
が、中尉だけは他の可能性を示唆してくれた。
二人とも酷いと思ったことは撤回だ。
「中尉、その優しさは逆に罪だぞ。ハボック、現実を受け入れた方がいい」
しかしそんな中尉の言葉を、大佐がやけに真剣な面持ちで指摘した。
びっと真正面から突きつけられた指に本気で傷つく。
「アンタに聞かれてるっつーのに話した俺がバカでした。もういいんでやめてください」
いつもなら席を立つのに、何で今日に限ってまだいるんだアンタは。
八つ当たり気味に内心で毒づいてみれば、中尉がおもむろに時計を見上げた。
それから素っ気無い視線を一瞬だけ大佐に向け、
「そろそろ午後からの市街視察の準備をされた方がよろしいのでは?」
「……」
その言い方で、鈍い俺にも何となくわかってしまった。
珍しくあからさまな消えろの意味合いに、大佐が何か言いたげに口を開きかけ、しかし無言で立ち上がる。
何だ?ケンカか?いやでも朝から通常勤務で変わったところはなかった。と思う。
「あー……」
何となく緊迫した雰囲気を変えようと、俺はボリボリと後頭部を掻きながら、大佐の返しやすそうな軽口を背中にかけた。
「大佐は拒まれたことないでしょーけど、拒まれるって結構傷心ものなんスよ」
「知ってるよ」
ふん、と肩越しに自嘲気味で返されて、その表情が何故か昨夜の自分と被ってしまった。
しまった。地雷を踏んじまったかもしれない。
相変わらず前の席で飄々とポーカーフェイスを貫いているもう一人の上官に、どう話しかけるべきか多少頭を悩ませた。

が、そんな思いはどうやら杞憂に終わったようだ。
「また会う約束はあるんでしょう?ならちゃんと話せば大丈夫よ」
大佐が執務室を出てしまえば、中尉はまるで何事もなかったかのように、俺の悩みに話題を戻した。
正直二人に何があったのか気にならないわけではなかったが、蜂の巣も消し炭も遠慮したい。
中尉の言葉にこれ幸いと気持ちを戻す。
「……正直なところ、女がキスを拒むってどういう時なんスかね。あ、セクハラになります?」
「大丈夫よ」
そういえばと付け加えた台詞に、目尻を下げて中尉の許可が下りた。
もう冷え切って残り少ないコーヒーに口をつけながら答えを待っていると、中尉が思案気に視線を廻らせ、俺に戻す。
「やっぱりタイミングが合わなかったとかかしら」
「他は?」
「実は嫌い。口が臭い。体臭が嫌。生理的に受け付けない」
「もうちょっとソフトなやつを頼んます」
立て板に水の如くな例題に、四方八方からぶちのめされてる気になった。
片手をあげて制すれば、再びしばしの黙考。
それから思いついたように視線をひたと俺に合わせた。
「他に気になる人がいる――くらいなら、キスくらいする人もいるかしらね」
「とどめ!?」
前言撤回。やっぱり大佐と同類だ。
悪意がない分、突き刺さる率が尋常じゃない。
「例えば中尉なら?」
「え?」
これ以上俺の傷が抉られる前に、矛先を中尉に向けてみる。
虚をつかれて瞬きをした彼女に、セクハラと言われれば話を切り上げてもいいタイミングだ。
「イヤになるってどんな時スか」
「そうね……」
「さっきの意外で!」
しかし存外普通に受け答えしてくれるつもりらしい中尉に、俺は慌てて念を押した。
せっかく変えたはずの矛先で、串刺しにはされたくない。
今度は案外早く考えをまとめた中尉が、真面目な口調で回答をくれた。
「気分が乗らない時、かしら」
「さっきの、タイミング合わないってのとは違うんですか?」
「違うわ。諸々の気分だもの」
そんな身も蓋もない。
昨日の彼女に当て嵌めてみても、その場合男はどうしたらいいのか。悩むところだ。
気分の問題――それは気分を害したという事だろうか。

「それってケンカした時とか?」
「撃ち殺したくなる時とかよ」
例えばの質問に、中尉はポーカーフェイスのまま、実にあっさりと嘯いてくれた。
ああこれ、対象人物は一人しかいないな。
「……俺たちはまだ、そこまでじゃないと、思うんスけど……」
むしろそこまで思ってなお、関係を続けてるアンタらに比べれば、俺達はまだ始まってすらいないのかもしれないと思う。
「ならまだチャンスはあるんじゃないかしら。知らず彼女の気に障るこをとしたのかもしれないし」
知らず、気に障ること。
あのいかにも女性の扱いなら任せてくれ的なあの人でも、そんなポカをするんだろうか。
いやでも執務室出る時のあの人の口調は、多分気づいてはいるような。
「中尉の場合、もうチャンスはないんスか?」
「どうかしら」
「あー……難しいっスねー……」
ないわけではないのか。そうか。
ていうか、本当に何やらかしたんだあの人は。
「でも好きなんでしょう?」
俺の思案を別の意味で受け取ったらしい中尉が、励ますようにそう言ってくれる。
だが、すっかり別のことに気を取られて、俺は浮かんだ疑問を直球で投げてしまった。
「ちなみに最近拒んだことは?」
「少尉、セクハラ」
「失礼しました」
さすがに軽口には乗らないか。
しかし否定されない中尉の言葉に、大佐の言葉が蘇る。

――知ってるよ。

なるほど。同様の傷心は、きちんと経験済みらしい。
撃ち殺したくなるほどの、何をして彼女に拒まれたのか。詳細は非常に気になるところだが、これ以上の突っ込みは避ける。藪蛇はなかなかどうしておそろしい。
話は終わりとばかりに切り上げて、書類に取り掛かり始めた中尉から視線を外して、俺はおとなしくタバコで口に蓋をした。




END



中尉が拒むほどの何かした増田。
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