6・共有する秘密




「隣いい?」
「マスタングさん」
顔を上げれば、重そうな専門書を何冊も重ねて、律儀にリザの返事を待っているロイと目が合った。
どうぞ、と少し体をずらしてソファの横を空ける。ロイは礼を言ってテーブルに本を置くと、ぷらぷらと手を振りながら、リザの隣に腰を下ろした。
「宿題ですか?」
「うん。あと少しなんだ」
「……少し?」
積み上げられた書籍の高さは、ゆうに30cmはあるだろう。たまに目にする難解な文章が細かく所狭しと書き連なっているページを簡単に想像できて、リザは心底感心した。
錬金術の師である父が出す課題を、こうして着実にこなすロイの真面目さと勤勉さは、錬金術に深く携わってはいないリザでさえ、素晴らしい素養だと本気で思う。
「これでもこの三倍はあったんだよ。でもさすがにちょっと休憩」
「お疲れ様です。お茶入れましょうか」
目頭を押さえて苦笑するロイに言えば、ありがとうと照れたように頷かれた。
年上の男の人なのに、そういうときの表情が、何故だか可愛いと思えるから不思議だ。
すっかり彼専用になって馴染んだ白いマグカップを用意して、茶葉に手を伸ばす。
随分疲れているようだったから胃に馴染む温かいものをと考えて、ロイがシャツを腕まくりしていたことを思い出した。
少しの間キッチンで逡巡し、
「マスタングさん、冷たいのと温かいの、どちらが――」
いいのかと聞こうとして、リザは思わず口元に手をやった。
ロイがソファの背に頭を預けて、目を閉じている。
考え事をしているのか、いや、薄っすら口が開いている。
「……寝てる」
リザは心なし足音を忍ばせながらキッチンへ戻ると、氷を入れて紅茶をマグに注いだ。転寝くらいだろうから、起きたときにぬるいものよりはいいはずだ。
大好きな錬金術に没頭して、息をつくや否や寝入るだなんて、小さな子供のようで、リザは口元を緩めた。
そっとテーブルにマグを置いて、埃除けの布を掛けると、リザは自分の分のカップに口をつけながら、じっとロイの寝顔を見つめた。

よく勉強用にと宛がわれた部屋で、参考書に突っ伏している姿は見かけるが、正面切っての寝顔はあまり見たことがない。気持ち良さそうな寝息と表情は本当に子供のようで、リザはくすりと微笑した。
(――あ、意外と睫長い)
新たな発見だ。髪と同じ黒い睫を覗き込んで、ふと自分の睫も気になった。気にしたこともなかったが、ロイのように黒ければ、もっとはっきりわかったのにと思うと、無意識に唇が尖ってしまう。
ブルネットは綺麗だと思う。いつだったか、そうこぼした時、ロイはリザの金髪を褒めてくれた。が、リザはいつか自分の色とは全く違う彼のその黒髪を撫でてみたいと密かに願っていたことを思い出した。
「……マスタングさん?」
ひっそりと名前を読んでみる。反応はない。
「もう少し、寝ててくださいねー……」
別に髪くらい、きっと彼なら頼めば触らせてくれるだろう。
けれど何故か今無性に触れたくて仕方がなくなってきた。
いつもは師匠の娘だからか、何やかんやと気にかけてくれる年上の男の子然としたロイの、珍しい無防備さに付け込めるチャンスだ。
右手で前髪の先に触れる。
もっと硬めかと思っていた短い前髪は意外に柔らかい。
「猫っ毛……?」
そっと撫でるように移動させると、自分の呟きが正しいことを実感した。柔らかくて、気持ちが良い。
癖になりそうな手触りにリザはそっと息を吐いた。
もっと撫でていたいかもしれない。だがさすがにこれ以上は起きるだろうか。
彼の髪に手を置いたまま、左手のマグを持つ手に力を込めて逡巡していると、
「……ん……」
ロイが小さく喉を鳴らした。
びくりとして固まってしまったリザの前で、ロイがゆるゆると瞼をこする。
「……リザ?ああ、ごめん……眠っていた――」
「――す、す、すみませんっ!」
「え……?」
名前を呼ばれて我に返った。
自分でも驚くくらいの大声で謝ると、まだ半分寝ぼけ眼だったロイが訳が分からないといった風に目を丸くした。その表情に弾かれたように、近すぎる自分の距離を思い出して、リザの体が跳ねた。

「――わっ」
その拍子に手にしていたマグから紅茶が零れる。
かかったわけではなかったが、ロイの声に動揺が走る。
寝込みを襲っていたかのような後ろめたさが羞恥となって、思わず後退ったリザの足がテーブルの脚に阻まれた。
「すみませ――きゃっ」
「リザ!」
後ろに倒れる寸でのところで、ロイに腕を引っぱられ、今度は前に倒れこむ。
どちらも咄嗟のことで踏ん張りがきかず、衝撃に目を瞑る瞬間、ロイの顔がやけに間近で見えた気がする。
「――っ!」
「……んっ」
目を瞑ってしまったから、食いしばった唇にあたったものが何かなど、リザにわかるわけがない。
だがすぐそばで同じように声を漏らしたロイと、あまりの至近距離で目が合って、二人でばっと顔を離した。
「あ、えーと……今のは、その」
「…………」
リザの腰を抱いたまま倒れ込んでいるロイに馬乗りの姿勢で、リザの方が声にならない。
すぐさま飛び退いて謝らなければと、異常に早鐘を打ち始めた心臓に言い聞かせて、ようやく口を開きかけた瞬間。
「何だ今の音は――――リザ、ロイを殺したのか?」
「お父さ……え?」
居間に現われた父に問われて、ロイを見下ろす。持っていたはずのマグが見当たらない。
「せ、師匠――あの、これは、その……っ」
何故だか慌てふためいているロイの胸に、見覚えのある自分のマグが横倒しで乗っていた。
「すすすすすみません、マスタングさん!」
完全に、紅茶はロイのシャツに染み込んでいる。
熱くないだけマシとは言えない。こんなの完全な大失態だ。
「脱いでください、すぐに洗わないと!」
「じ、自分で!自分で脱げるから、リザ!大丈夫だから!」
慌ててシャツのボタンに手を掛けたリザへ、見る間に青褪めていくロイが更に慌ててシャツの前を掻き抱く。
「何をしているんだお前達は……」
至極真っ当な父の質問に、二人は聞こえないふりで、シャツの攻防に勤しむしかなかった。


END



まさか娘の唇を奪われたとまでは思っていない父。
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