10・誓い 夜中の電話は緊急の呼び出しか、滅多にない女友達との他愛ない会話、それか明日に回せない類の書類の在り処を問うものが大半だ。 だから、そろそろ寝ようと電気を消しに出た廊下で鳴った電話の音に、リザは反射的に受話器を上げた。 「はい」 「――なんで出るんだ」 しかし聞こえてきた声と台詞に、出たことを既に後悔してしまった。 人の家に、しかも真夜中にかけてきて、とんだ言われようだ。 「お言葉ですが――」 「起こしてしまったかな、エリザベス」 「……もう寝るところだったわ、ロイさん」 ムッとして反論しかけ、けれどもロイの返しに、リザは言葉を選択し直した。 「今どこにいるの?」 「あー……」 歯切れが悪い。 わざわざエリザベスの呼称で掛けてきた電話は、どうやら緊急ではないらしい。 耳を澄ませば、受話器越しに独特のざわめきが感じられた。 「マダムのお店?」 「……よくわかったね」 それでどうしてそんなに居心地の悪そうな口調になるのだろう。 何かの作戦かとも思ったが、思い当たる節もなく、リザは受話器を耳に挟んで、ロイの言葉を持った。 1、2分では切れなさそうな空気を感じて、リザは夜着の上に着込んだカーディガンの前を合わせると、少しひんやりとした廊下に、電話を持って座り込む。 「だってロイさん、お店の女の子大好きだもの」 「君ほど好きな女性はいないよ」 「ひどーい!エリザベスちゃんに振られたくせにーぃ」 「振られてない!取られただけだって言っただろう。一時的に!」 店の彼女たちの朗らかに揶揄するような笑い声が聞こえて、咬みつくように反論するロイの声が届く。 受話器を手で覆っているのかもしれない。くぐもって聞こえてくるやり取りで、リザが話の種にされていたらしいことがわかった。 「私、ロイさんを振ったのかしら」 「君までやめてくれ」 「でも他の男に取られちゃったのよね」 「……一時的に、だ」 からかい気味に言えば、意外とダメージが大きかったらしい。 どんよりとした空気が受話器から流れ込んでくるようだった。思わずリザの頬が緩む。 こんな話題を軽い世間話にしていいのかと思うくらい気さくな雰囲気にしているのは、他でもないマダムと、彼女たちのおかげに違いない。それに背中を押されて、軽やかに会話が続けられる。 こうして他愛もない話をするのは、大総統の補佐についてから、随分久し振りだった。 「ねえ、ロイさん」 「うん?」 「どうして私に電話をくれたの?」 「それはだね……」 また歯切れが悪くなる。 その様子がおかしくて、くすくす笑いそうになるのを堪えていると、ガチャリという音が聞こえて、ロイの慌てた抗議が聞こえた。すぐ傍で、見知ったマダムの豪快な声音も聞こえる。 「ロイさん?どうかし――」 「――何やってんだい。早くエリザベスちゃんに言いな。好きだ愛してる捨てないでくれって」 「マダム!さっきと話が大分変わって――いいから、ほら、わかったから!エリザベスも困ってるだろう」 「そうかい、ああ、エリザベスちゃん。アンタに振られたって落ち込んでたから、声でも聞いてシャキッとしなって言ってたんだ。今ロイ坊にかわるよ」 「え、あ、はい――お久し振りですマダム――」 「エリザベス!」 「……ロイさん?」 忙しい電話だ。 ゼイゼイと乱れた息を抑えているロイが、何とか受話器を取り返せたらしい。 「大丈夫?」 「ああ。……その……君としばらく二人で遊べないという話をしたら、マダムに今すぐここで電話をかけろと言われてだね……」 「交換条件は?」 「今までのツケの免除」 即答で返されて、リザは喉の奥をクツクツと鳴らした。 「正直者ね。声が聞きたかったくらい言って欲しかったわ」 「嘘吐きだから、本心はなかなか言い出しにくい」 おどけた口調の中に、甘い響きを漂わせたロイの声音が耳朶にするりと入り込んでくる。 リザは受話器を握る指にぎゅっと力を込めた。 「――うそつきね」 負けず甘さを含ませたつもりが、随分切なげな響きになってしまった。 「……」 「……」 何かからかいの言葉でも返るかと思ったが、ロイは何も言わなかった。 しばし受話器越しに、互いに無言の息遣いだけが聞こえる。 すぐ傍にいたら、無言の視線を交わして、堪えきれずリザが瞼を下ろしてしまうかもしれない。 「た――」 「本当は、」 思わず階級で呼びかけたリザを遮って、ロイの低音が耳奥に響いた。 「店からじゃなく、君と二人きりで話したいんだけど、今はなかなか難しくて」 「……お仕事忙しいんでしょう?わかってるわ」 「でもまた店に行くよ」 「ええ。楽しみにしてる。でも無理はしないで」 「君のためだ。多少の無理は厭わない」 軽さを含んだやり取りは、先程の沈黙のせいか、互いに随分甘ったるくなってしまった。 一方は華やいだ繁華街、一方は廊下で一人受話器を抱えて、それでもこうして繋がる時間は滑稽だ。 だからつい、聞かなくていいことが口をついて出た。 「その時はまた私を取り返してくれる?」 「当然だ」 リザの質問に、ロイは憮然を全面に押し出した声音で即答した。 やはりわざわざ聞くまでもない。 店の中で膨れっ面でもしていそうな声音に、リザの口調もまた最初の軽口の調子を取り戻した。 「嬉しい。じゃあ私も、ロイさんの好きなもの用意して待ってなくちゃ」 「そうしてくれ。じゃあ、こんな時間にすまなかったね」 「いいえ、声が聞けて嬉しかったわ」 「私もだ」 最後は慣れた調子で、互いに上得意とその女になりきってみせる。 「あんまりお店の子にデレデレしちゃダメよ」 「はは、君も手癖の悪い客に気をつけろよ」 「ええ。おやすみなさい」 「ああ、おやすみ」 言って、耳に馴染んだ声がなくなっていく。 そう思ったら、無意識に受話器に唇を寄せていた。 聞こえない程度の小さな音を立てて、受話器越しの耳に口付けを送る。 ちゅ、という音が自分の耳にも錯覚に思えるほどの微かさだった。 しばらく耳の奥にロイの余韻を響かせたくて、切電の合図まで押し付けるようにしていると、幻聴のように、小さな音が耳に届いた。 ちゅ、と、まるで時間を置いた木霊かと錯覚しそうな僅かな音だ。 それが何か、リザが理解するより早く―― 「――いっやあん!何今の!かわいい〜!」 「ロイ坊、あんた、エリザベスちゃんと毎回そんな切り方してんのかい」 「し――してない!何も!断じて――」 余韻はあっという間にざわめきで消えた。 今はもう、ガシャンッ、ツーツーツー、という機械音だけがこだましている。 どこまでリザに聞こえていたのか、あの店ではさすがのロイも考える余裕をもらえなかったに違いない。 今頃はあの店で、いいように遊ばれているのだろうロイの姿が想像できる。 随分久し振りに、リザは堪えきれずに吹き出して、夜の廊下で声を立てて笑った。 受話器越しのキス。 |