20.この身朽ちるまで 休憩を告げるベルの音に、私は飽きかけていた書類から顔を上げると、くたびれていつの間にか寄っていた眉間を揉み解して息を吐いた。 やれやれと首を回し、不味いコーヒーでも淹れ直そうと席を立ち掛け――。 「中尉ってフラれたことあるんスか」 「……突然ね」 聞こえてきた会話に座り直した。 「ついさっきフラれたもんで、絶賛仲間募集中っス」 中尉に苦笑いで答えようとして無理に上げた口角が完全に失敗している。 そういえば巡回で市街に出ていたハボックは、戻るなり机に突っ伏すように事務作業にかかっていた。 なるほど、そういう事情だったのかと合点がいった。 ハボックの後ろで必死に慰めの言葉を探しているフュリーを尻目に、中尉がおどけたように肩を竦めてみせた。 その休憩中のフランクさを、勤務中にも少し分けてくれればいいのにと思いながら、耳だけ集中する。 「あるわよ。基本的にフラれてばっかり」 「マジすか!」 「マジよ」 ハボックへの気遣いに歯噛みしたい私の前で、聞き捨てならない台詞をさらりと言って、中尉が席を立った。 私の内心と同じように驚いた顔で見ているハボックの前を過ぎて、湯気の立ったコーヒーをマグに注ぐと、私の机に置いた。 「お疲れ様です」 「……ああ、すまん」 また自席に戻る彼女の背を意識しながら、まったくそそられないマズい香りを吸い込んだ。 「軍だと時間の都合とかつけにくいですもんねえ」 「ほらな。中尉でさえあるんだ。お前なんか仕方ねえって」 彼女のプライベートに踏み込むでもなく、理解を示すフュリーを受けて、ブレダが諦めろと肩を叩いた。 「おまえに言われたくねえよ!」 ハボックが憤然と立ち上がって抗議の声を上げている。 ――それが、午後の休憩時の何気ない執務室の一コマだった。 ***** 陽が落ちて、夜勤の者以外は早々に帰路へ着く頃、皓々と明かりの灯った執務室で、ちらりと視線を上げた先には、生真面目な表情を崩さず、直立不動で書類に目を通している中尉がいる。その姿に、昼間のフランクさは見当たらない。 ひとまずと渡した処理済のチェックをしている彼女を前に、私は未処理分の山に手をかけながら軽口を叩いてみることにした。 「君がそんなに経験豊富だとは知らなかった」 「はい?」 問い返しながらも素早く訂正箇所を示す有能さは揺るがない。 それを大人しく受け取りながら、気のない体で話を続ける。 「昼間、あいつらと話してただろう」 「?」 「そんなに恋人がいたとは知らなかったよ」 多少の含みをこめた言い方にムッとするかと思いきや、ほんの一瞬だけ目を瞠って、それからすぐにいつもの表情に戻ってしまった。 むしろ呆れたような息をつかれて、私の方がムッとする。 「基本的に貴方のことですよ」 「――……は?」 思わず間の抜けた声が出た。 ちょっと待て。今、何と言った? 顔を上げて落としかけたペンを慌てて掴む私に、何故か困ったような微苦笑が向けられる。 「昨日も今日も――先週はほぼ毎日、残業なしで終えて下さいといったものをフラれましたし」 「ああ、そ――」 ういうことかと納得しかけて、ハタと気づく。 「待ちたまえ。基本的に、とはどういうことだ。例外は」 「……。逐一報告の義務はありませんので」 その間はなんだ。 さり気なさを装って逸らされた視線に、妙に頭がぐらぐらする。 彼女の言うとおり、プライベートのいちいちを私に報告する義務はない。義務はない。が、気にはなる。 可能性のありそうな男の顔を思い浮かべては打ち消して、しかし今回のハボックのように、市街巡回での出会いであれば、想像すらできない事実に苦虫を噛み潰したような気分になった。 「それよりも」 人があれやこれやと思い巡らしているというのに、それときたものだ。 胸中に去来する苛立ちを何とか押し隠して顔を上げれば、あっさりといつもの表情に戻った中尉と目が合った。 「聞いてらしたなら、適当なところで止めてください」 昼間のことを思い出したのか、眉間を薄く寄せて不満を言われてしまった。 あの後、男二人で不毛な言い争いに発展しそうになったところを、彼女が「女々しいとモテないわよ」と溜息混じりに言った一言で、実にあっさりとお開きになっていた。私が何か言う間のない、実に見事な幕切れだった。 彼らの中尉に対する態度は、ともすれば私への忠誠心を凌駕しているんじゃないかとさえ思う程だ。 私は椅子に深く座り直して、肘をついて組んだ手に顎を乗せた。 「君の暴露話が聞けるかと思ったらついな」 「悪趣味ですね」 「仕方ないだろう。君に振られた身としては、君を振った相手に興味がある」 もう大分昔の話か。 上下関係を抜きにしても、互いに気の置けないという自覚があって、尚且つ、そう悪くないと思う雰囲気になったことだって、一度や二度ではないはずの相手に素気無く拒否されたという事実は、いまだに燻ぶるものがある。 今でこそこうして冗談交じりを装い話題に乗せているが、その実これはただの虚勢だという自覚があるのが情けないところだ。 そうだ。あの時も彼女は「それよりも」と仕事の話を切り出したのだ。 半ば自嘲のつもりで掘り返した聞き方に、中尉がしばらく無言で私をじっと見つめ、それからおもむろに睫を伏せた。 「ご冗談を。振った貴方が言いますか」 「はっはっは。それこそ冗談だろう」 めずらしい。 夜とはいえ、中尉が勤務中に冗談で返した。 「そうですか。そろそろ手を動かしてください」 と思ったが、くるはずの冷たい視線はやってこない。 いつまでも合わない視線を待つ私から逃げるように、完成した書類だけを持って、自分の席へと戻ってしまった。 彼女が椅子を引く音に我に返って、思わずその場に立ち上がる。 「――て、待て。ちょっと待て。何の話だ」 「大佐、書類が残っていますよ」 「君を振った?私が?いつ」 「大佐」 足を出しかけて、顔を上げた中尉にまっすぐ睨まれてしまった。その目には照れでも羞恥でもなく、単なる副官としての諌めの色しか見て取れない。その態度にも余計に混乱してきた頭を落ち着かせようと両手を上げて、大きく息を吐いて椅子に戻る。万年筆も持ち直して、書きかけの書類をとん、と叩いた。 「わかった。動かしながらだ。文句は聞かん。いつだ」 口早に言いながら、サインも済ませる。 数枚ページを捲れば、中尉が細く息を吐き出す空気が伝わってきた。 呆れているのか。それでもいい。真実が知りたい。 しかしなかなか切り出そうとしない彼女を促すように、また万年筆のキャップで書類を叩く。 ようやく困ったような声が聞こえてきた。 「……随分昔の話ですから」 「だからいつの話だ。……なんだ?冗談じゃない。全く思いだせん。私が酔っていたとか、まさかそういう――……」 「素面でしたよ」 「冗談だろう……」 頭を抱えたくなってきた。 本当に全く全然、これっぽっちも記憶にない。 私が彼女を振っただと? それでも今ここで会話を途切れさせてなるものかと、手だけは執拗に処理を進めていると、中尉が苦笑交じりで私に言った。 「冗談にしてください」 「できるかっ」 「……どっちですか」 否定とともに顔を上げて、こちらを見ていたらしい中尉と目が合った。 ここでパッと逸らすなり、交わす視線の中に想いを込めた何かが見え隠れしていてくれればいいものを、完璧なまでの呆れ一色で泣きたくなる。 本当にそんなに昔の話だというのか。もう、想いの残滓もないくらい? そう思ったら、独り善がりな苛立ちが沸々と胸に湧き上がってきた。 振られて尚、いまだにその想いを払拭しきれないでいる女々しい私は馬鹿の権化か。 乱暴に次の書類を手繰りかけ、理性で抑えて勢いを殺いだ。 「中尉、その時の状況を詳細に頼む」 彼女が私に告白だなど、そんな奇跡があったというなら、せめてその記憶だけでも思い出したい。 どうせ女々しいのなら、最大限の女々しさを発揮してやる。 妙な開き直りで冷静な声音を繕って指示を出した。 「覚えていません」 しかし、これでもかというくらいの早さで一蹴されて、私は今度こそ不満を全開で鼻で笑った。 そんなわけあるか、と悲しい自信を持って踏ん反り返る。 「嘘を吐け。大抵の場合、振った側は覚えてなくとも、振られた側はいつまでも覚えているものだ」 現に私が証人だ。 あの時僅かに寄せられた眉も、伏せられた視線も、忘れたくても忘れられない。 挙句返された言葉は「そうですか」の一言だけ。 否も応もない返しに焦れて名前を呼べば、「冗談は顔だけにしてください」と言って、何事もなかったように仕事の話題を出された時の私を彼女がすっかり忘れていても、関係ない。 「随分言い切りますね」 「当事者だ」 「大佐が?振られた経験おありなんですか?」 「だからあると言っただろう」 だというのに、まさかというような声音で問われて、折角飲み込んだ苛立ちが再燃してきた。 書類に目を戻して、努めて平静を装うのも楽じゃない。 「はあ……?」 その気持ちを知ってか知らずか、どうにも要領を得ない相槌を打たれて、私は堪えきれずに書面で机を叩いた。 「君にだ!」 「……………はあ」 しかし次の相槌も、本当に分からないといった顔でされて、泣くかと思った。 右手で額を覆えば、さすがに戸惑った様子を見せた中尉が、手を止めた私を非難するでもなく、じっと様子を窺っているのがわかる。 大人気ないのは充分承知で、私は皮肉気に目を顰めたまま、口元を歪めて見せた。 「私の気持ちは、君にとって、随分心に届かなかったようだな」 「――え」 「あれでも真剣に言ったつもりだったんだがね」 「ちょ」 「ここまで相手にされていなかったわけか」 「待っ――」 「忘れてくれ――ああいや、覚えられてさえいないんだったな」 「待ってくださいっ」 苛立ち任せに言い募っていた私を、中尉が慌てたように席を立って声を荒げる。 今更思い出したと謝られたら、今度こそ本当に泣いてやる。 ……いや、彼女なら本当にやりそうだ。それをされたら、立ち直れる自信がない。 考え出した自分の結論に「悪かった」と先手を打ちかけて、 「――な、何のことですか……?」 不自然にどもって言われた台詞に、これ以上ない苛立ちを感じて睨みつけ――ようとして、私は我が目を疑った。 「……」 「……」 中尉が、完全に動揺を顕わにして、私を見つめる目尻が僅かに赤くなっている。 「な――」 いつものポーカーフェイスを失った頬が、気のせいではなく上気している。 「なんで君が赤くなるんだ!」 思わず怒鳴れば、隠すように口元を手で隠した中尉が、私からバッと顔を背けた。 「あ――貴方がおかしなことを言うからですっ」 そのまま負けじと怒鳴り返される。 「おかしな……?」 「わ、私に告白だなんて……そういう冗談は止めてくださいっ。セクハラで訴えられても知りませ」 「冗談で言えるか!相手は君だぞ!」 「何ですかそれ!!」 おかしな言い争いになってきた。 互いにハァハァと荒くなった息を一旦落ち着けようと、息を吸って、細く吐き出す。 肺が痛くなるくらい出し切ったところで再び相見えれば、やはり赤い顔の中尉が私をきっと睨みつけていた。 何だその顔は。うっかり可愛いと思わせてどうする。 どうせ無自覚な態度だということは、付き合いの長さで理解している。 先走らないうようにと気を落ち着けて、私は祈るように目を閉じた。 「あー……中尉」 「……はい」 「状況を整理しよう。君が私に振られたというのは本当に事実か」 「……そうです。古傷を抉るのがお好きですか。良いご趣味ですね」 「さっきまで散々抉った君が言うか。――いい、いや、良くはないが置いておく。私が君に振られたのも事実だ」 「……記憶にありません」 「だが事実だ」 私を見上げる瞳が潤んでいるのも無自覚だろう。 「私も振った記憶はない」 きっぱり言い切って視線を合わせる。 中尉が何かを言いかけて、気圧されたようにふいと私から視線を逸らした。 代わりに向けられた耳も薄っすらと朱に染まっている。 「中尉」 その様子になけなしの勇気を得て、私は彼女を呼んだ。 「………………はい」 随分長い間があったが、視線を伏せたままで得られた返事に、小心者の内心で安堵の息を吐く。 「ちょっと言ってみたまえ」 「……何をですか?」 ようやく私を見返した中尉の頬はまだ薄っすらと赤いものの、大分冷静さを取り戻しつつあるようだ。 「告白」 「は?」 更に言えば、今度は思い切り怪訝な顔をされてしまった。 一瞬覚えられてさえいなかった玉砕の記憶が過ぎったが、ここが正念場だと踏みとどまる。 「今なら違う答えかもしれないだろう」 「……バカですか」 「バカで結構。物は試しだ。ほら」 「結構ですっ」 思わずといったように声を荒げた中尉の視線を真っ向から受けて、私は真剣な口調を崩さず言う。 「なら、私が言えば、昔と違う答えをくれるか?」 「む――……昔の答えを覚えていません」 挑むような目の奥に僅かな怯えを感じ取り、私は苦笑を零した。 こんな時の微妙な笑いに怒るかとも思ったが、明らかにホッとした表情を見せた彼女の気持ちもわかった。 「堂々巡りになりそうだな」 互いに振られたと思い込んで短くない年月が経っている。 それでも相手の傍で、気持ちを押し隠す術がその身に馴染みすぎている。 今更の一歩はなかなかどうして難しい。 そうですね、と小さく同意した中尉も多分――、いや、絶対に同じ想いだ。 拒絶のできない確信があるからこそ、試しに程度では言えないのは私も同じなのだから。 「これはもうアレだな。我慢比べだ」 どちらが先に溢れ出してしまうか、一対一の真剣勝負だ。 言った私に中尉は大きく目を瞬かせ、呆れたように盛大な溜息を吐いた。こういう時の溜息が、男の心をどう抉るのか、彼女はもっと自覚すべきだと真剣に思う。――が、書類のまとめを再開した中尉の目元が、どことはなしに柔らかい。 また小言を言われる前にと、私も残務に戻りかけ――。 「負けません」 「――」 はっきりとされた宣戦布告に、私は一拍遅れて顔を上げた。 「手が止まっています」 先に日常を取り戻したらしい中尉が、私を見もせずそう言った。 「私も負けん」 書類に必要なサインをしながら、私も彼女に宣戦を告げる。 どうやら長期戦になりそうだ。 が、できるだけ早めに折れてくれるとありがたい。 赤く染まった頬の彼女を思い返せば、胸に広がる温かいぬくもりを止められない私は、どのみちだいぶ分が悪いのだ。 ともすれば防戦一方になりそうな内心を叱咤しながら、私はそんな本音を飲み込んで、少なくない書類のページを捲くった。 冬新刊テーマの告白を別だとこんなんもありかなーと思ってつい妄想の赴くままに。 完全両想いでも、すれ違い両想いでも、一粒で二度おいしい。それがロイアイwww |