07.冷笑





いつもどおり期日スレスレで滑り込むように持ってきたエドワードからの査定書を受け取って、ロイは彼の妙に心ここに在らずといった風情に眉を上げた。
「どうした。鋼の、悩み事かね」
「……」
ぐっと息を詰めた彼の態度にふむと頷いて、ロイは椅子の背凭れに体を預けた。出来るだけ柔らかい声音を心掛ける。
「人間、身長が全てじゃない。そう落ち込むな」
「誰が身長で悩んでるっつったよ、クソ花畑大佐!」
「仮にも上官に向かってクソはないだろうクソは!――む。花畑?」
全力で否定してきたエドワードの言葉に引っかかりを覚え、ロイは首を傾げた。
今の流れで、なぜ花が出る。
ロイの疑問に気づいたエドワードが、ああ、と思い出したように瞬きをした。
「中尉が。「大佐はたまに頭に花が咲いている」みたいなこと話してた」
「中尉……!」
何の話でそうなった――!
歯噛みするロイを見下ろしていたエドワードが、不意に哀れむような視線を向ける。
「戻って来いよ、三十路なんだから」
「くっ。……ふん。伸びるといいな、成長期なんだから」
「ぐおあああっ、クソムカつくおおお!!!」
売られた喧嘩は買ってやるとばかりにロイが鼻でせせら笑えば、例によってエドワードは頭を掻き毟らんばかりに大声を上げたのだった。

   ****

「――で。何があった」
必要な認印を待つ間、来客用の黒い革張りのソファに座り手持ち無沙汰なエドワードの背中に向かって、ロイは査定書に目を通しながらで声を掛けた。
先程の言い争いは置いといて、エドワードの様子が違うというのはやはり上官として、年長者として、気にかかるというのに嘘はない。
万一、事が彼らの探しものに起因しているようなものならば尚更だった。
「別に……あー、いや、でもな……」
しかし、ちらりと肩越しにロイを振り返り、ガシガシと頭をかく姿を見て、ロイは内心だけで微笑した。
明らかに研究絡みではない悩みに翻弄されているらしいエドワードの様子に、随分素直に成長しているものだと思う。
妙に安心してしまった。
以前何かの折に、リザがエドワードを「可愛いですよ」と評していたのも、今なら100万分の1くらいなら同意してもいい気分だ。
「あー……大佐ってさ」
そう思っていると、言い難そうにエドワードが口を開いた。
「うん?」
「中尉と喧嘩することってあんの?」
いったい何を言うかと思えば。
ぶっきらぼうに問われた内容を理解して、ロイは軽く目を瞬いた。
「中尉と?ないな。部下と喧嘩してどうする」
「いや、そうじゃなくて。だってしょっちゅう怒られてんじゃん。大佐だって怒鳴り返してっだろ。あれは?」
当然といわんばかりの答えに振り返ったエドワードが、ソファの背に上半身を乗り上げるようにして聞いてきた。
この質問がどこに帰結するのかを考えつつも、ロイも真面目に返答する。
「馬鹿者。あれが喧嘩なものか。単に図星を指されて言い訳しているだけだ」
「……」
はっきりと断言すれば、エドワードが口をへの字に引き結んで、半眼に眇めた視線で小さく首を振ってみせた。
「何だその目は」
「いや……。頭の花の除草、中尉もすげー大変そうだなって」
「いらん気遣いだ。視線を逸らすな」
ふいと逸らされた視線を指摘して、ロイは奮然とページを捲った。
「私のことはい。それで。アルフォンスと喧嘩でもしたか?そういえば姿が見えないが」
査定書を持ってやって来た時から既に見かけなかった鎧の弟の名前を口にする。が、エドワードはまさかというように肩を窄めてみせた。
「アルは中庭で猫と最後の別れを惜しんでる」
「変わらんな」
その姿が容易に想像できて、ロイはくつくつと喉の奥で笑った。それを受けて、やれやれと困ったように首を振るエドワードは、なかなかどうして立派な兄然として見える。また一枚ページを捲れば、エドワードが背凭れに腕を組んで、顎を乗せて見上げてきた。どうやら会話を続ける気はあるようだと判断して、ロイもちらりと視線を合わせ、彼に続きを促した。
「つーか、本当にないの?一度も?」
「中尉との喧嘩か?」
あまり興味がないふりを装って失敗している真剣な眼差しを受けて、ロイは査定書から離した腕を組んでみせた。
正直に言えばないわけではない。が、今この場で口にできるような類の内容ではない生々しさに、ロイは一瞬片眉を上げて、それから首を横に振った。
「思い出せんな。基本的に、一方的に私が悪いものばかりだ」
しつこくし過ぎて、翌日ひやりとするほど不機嫌だったり、研究に没頭し過ぎて寝食を疎かにしたことへの激怒だったり、二人の関係についてのあれやこれやだったりで、他人にどうのと言える話ではないが、かいつまんで言うならばそういうことだ。
しかしエドワードは半眼でロイを見ると、若干引き気味な表情で吐き出した。
「胸を張って言えることに、ある種の尊敬を覚えた」
「うるさい」
「まあいいや。そんで?そういう時って、どうやって許してもらってんの」
やはり論点はそこか。
ようやく悩みの核心に迫ったらしいエドワードの態度に、ロイは内心で微苦笑を零した。
これが悩みで、しかも彼がここまで悩む相手といえば、可能性はそう多くない。
「許すも何も、鋼の」
至った結論に、ロイは表情を引締める。
「――なんだよ」
「私たちと君たち幼馴染の関係は違う。同じ喧嘩にもならんし、解決方法も違うと思うが」
「だ――だだだ誰がウィンリィの事だって言ったよ!」
一瞬で茹で上がった顔をしてそんな大声を出せば、そうですと宣言しているようなものだ。
それに当の本人だけがまるきり気づいていないあたり、本当に分かりやすくて憎めない。そこを揶揄するのは簡単だが、珍しく素直に相談事を口にした彼のプライドに免じて、ロイは気づかないふりをすることにした。
「喧嘩の原因に心当たりはないのかね」
あえてさらりと言ってやると、しばらくは往生際悪くはぐらかそうと必死になっていたエドワードだったが、やがて赤らめた顔を隠すようにソファに正しく座り直した。
「いや、そんな大したことじゃねーんだけどさ……。とりあえず女遊びの激しい大佐に、機嫌の取り方を聞こうかと」
「答える気の失せる聞き方だな」
背中を睨むが効果はない。
だんまりを決め込みそうな後姿に観念して、再び査定書を捲りながら、年長者らしく折れてやることにした。
「謝ればすむ話じゃないのか?」
「……それだけだとなんかなー……」
振り返らないままで、エドワードがぼそりと呟く。
何があったかまで言うつもりはないらしいが、とにかく自分の非は認めているようだ。
「彼女が求めていることをすればいいだろう」
「それがわかれば苦労しねーよ」
「直接聞きたまえよ」
妙なところに矜持をちらつかせれば悪化するだけだ。ロイの直球の提案は、しかし思春期真っ只中の彼には受け入れにくいものらしい。嫌そうに顔を歪めて唸るエドワードの気持ちもわからないわけではない。苦笑して、ロイは別の案を提示した。
「なら、気にかけることだな」
「……気にかける?」
窺うような視線が向けられたことに気づいたが、書面から視線は上げずにロイは続けた。
「彼女が何故不機嫌になったのか、何をどうして欲しいのか、どういうときに笑顔を見せてくれるのか――。そういうことは彼女の一挙一動を気にかけていれば自然とわかってくるものだ。そうすれば、謝罪の仕方も自ずと違ってくるだろうからな」
「へえー」
「何だね」
思わずといったエドワードの相槌に、大人の余裕で口角を上げる。だが、
「さすが女たらし」
「フェミニストといえ」
ふてぶてしく言われた言葉に、ロイはすかさず訂正した。

  *****

「まあ、表情や反応は、普段から良く気にしてみるといい」
簡単に言ってしまえば、つまりはそういうことだ。
「反応ねえ」
しかしエドワードは唇を尖らせて、判然としない呟きで答えた。
おそらく今までのことを色々と思い出しでもしているのだろうが、やけに難しげに腕を組んだ後姿に、ロイは思いついた例を挙げた。
「どこを触ったら喜ぶかとか」
「触んねえよ!」
「――ああ、すまん。まだか」
「まっ……!!!!」
怒鳴り返そうと口を開いたエドワードは、また沸騰寸前のように真っ赤だった。
揶揄でもなんでもなく言ったつもりが、さらに琴線に触れたらしい。
思春期は難しいと柄にもなく考え始めた矢先に、ノックの音が響いて、リザが顔を出した。
「――賑やかですね」
「まあな」
トレーの上にはエドワードのコーヒーと皿にクッキーが乗せられている。
「あ、中尉、こんにちは」
「こんにちは。コーヒーをどうぞ。大佐も休憩なさいますか?」
「うん、もう終わるしな」
リザの手に新しい書類が携えられているのは見えないふりで肩を鳴らす。
「では大佐の分もお持ちしますね」
先にエドワードにだけ用意した分を置いて、それからものの数分で、ロイの用意をしたリザが戻ってきた。
それに合わせるようにして、ロイも最後のページを素早く読み終えると、サインを済ませ、エドワードの向かいのソファに移動した。
どうぞ、と置かれたカップを受け取って、リザにも隣を勧める。
躊躇したリザは、しかしエドワードにも勧められて、ロイの左隣へと腰を落ち着けた。
「……本当に君、甘くないか?」
「はい?」
「いや、何でもない」
この差は何だと問い詰めたい気がしないではないが、先程の実に素直な打ち明け話をなかったかのように振舞う目の前の少年に対して、八つ当たりめいた悪戯心が先に出た。
「査定は順調そうね」
「うん、どうにかって感じだけど」
「それより重要な悩みがあるんだよな、鋼の」
「大佐!」
いかにも子供らしい笑顔で応じてみせたエドワードに話題を振れば、リザが心配そうにエドワードを見た。
「悩み事?」
「や、あの、何でもな――」
「ウィンリィ嬢と仲直りする方法だそうだ」
「大佐、てめ!」
「あら。ウィンリィちゃんと喧嘩したの?」
ロイとは違い、本心からの気遣いを見せられてしまえば何も言えまい。
思惑通り、あたふたと手を振って見せたエドワードにしてやったりとほくそ笑む。
「いや、ホント大したことじゃないし!今日もこれからメンテナンスの予約入れてるし!」
「そう。ウィンリィちゃんによろしくね」
「そりゃあもう!」
ゆでダコのような顔をして取り繕う様は、非常に素直で可愛らしい。
と、エドワードが忌々しげな視線を向けた。
「……余計なこと言いやがって」
ギリギリと歯噛みしそうな低音に気づいて、リザが咎めるようにロイを見る。
「大佐……何を言われたんですか」
「至極真っ当なアドバイスだ。なあ?」
「…………」
どこがだ、とでも怒鳴り返してくるだろうというロイの予測は、しかしどうやら外れたようだ。
まだ薄っすらと赤らめた頬をわざわざ両手で軽く叩いたエドワードが、物言いたげにリザを見る。
それからロイにも視線をくれて、居心地悪そうに指先をもじもじと擦り合わせ出した。ちらりちらりと二人を交互に見比べ始める。
何だ?若干、演技くさい。
「エドワード君?」
「鋼の?」
二人同時の呼び掛けに、エドワードはまたおずおずと二人を見比べて、
「大佐が中尉の機嫌損ねた時の方法聞いたんだけど」
「え?」
「は?何を――」
「大佐は、その……どこをどう触ったら喜ぶか考えるんだ、って」
そうして、とんでもないことを口にした。

「は、鋼の――ちょっ、中尉、誤解だ!違う。断じて違う!そんなことは言っていない」
「…………大佐」
左隣を見るのが怖い。いや、むしろ見てはいけない。絶対だ。
今まで聞いたことのないような低音がすぐ隣から地響きのように聞こえて、ロイは咽喉の奥から搾り出すように声を荒げ、エドワードにびしりと指を突きつける。
「違う!言っていない!本当だ。鋼の、今すぐ撤回したまえ!」
「言ったじゃん。表情や反応気にしろって。だから俺には出来ないなーと」
「妙な省略をするな!」
頼むから、これ以上馬鹿なことを言ってくれるな――!
悲鳴にも近い思いで叫んだロイに、にやりと笑ったエドワードの口元が、ざまあみろと言っている。
ロイの反応に満足したらしい彼は、うん、と伸びをしてクッキーに手を伸ばした。
「やっぱ素直に謝ることにするわ。食べたがってたケーキ買ってくしか出来ないけどな」
「良い判断だと思うわ」
「――」
にこりと笑って言うリザの表情に、エドワードがびくりと体を揺らした。
きれいな微笑というには、纏う雰囲気に背筋を凍らせる何かがある。
さすがのエドワードもリザの微笑の奥に潜むものを感じたようだった。
クッキーへと伸ばした指先を無意識に引っ込めたエドワードが、そろりと腰を持ち上げた。
「あ――ええと、じゃあオレ、そろそろアル迎えに行こうかな、と」
「逃げるな鋼のっ」
縋るように伸ばした腕を、リザの手が横手から素早く捕らえた。
そのまま指先を優しく撫でるように包む仕草にはどきりとさせられるものがあるのに、そのまま膝に戻させて完璧な微笑を浮かべたその表情が怖い。
「少し大佐と話し合いが必要みたいだから送れないけど、気をつけてね」
そう言われて、エドワードは弾かれたようにぶぶぶんと首を横に振った。
「いやいやいやっ。うん、大丈夫。コーヒーご馳走様!それじゃあ、お邪魔しました」
「邪魔じゃない!むしろいろ!いや、いてくれたまえ!」
「大佐――」
「鋼の……っ」
かつて、こんなに熱く視線を交わしたことがあっただろうか。
懇願を顕わにしたロイを肩越しに振り返ったエドワードが、瞳いっぱいに謝罪の色を湛えている。
言っただろう。君たちと私たちの関係は違うのだ、と。
悪いと思うのか。思うんだろう。それなら今すぐその足の向きをこちらに戻せ。
交錯する眼差しにありったけの思いを込めたロイへ、エドワードが深く頷く。
ホッとしかけて、だが次の瞬間、エドワードはぐっと力強く両手で握り拳をつくってみせた。
「――ガンバッ」
「待――!」
誰がそんなエールを頼んだ。
パタン、と閉められたドアの向こうで、足早に靴音が遠ざかる。
「……」
「…………」
変わらず身の凍るような微笑を浮かべたままのリザから、ロイは黙って視線を逸らした。
「大佐」
「…………す、すみません」
もうそれ以外に言葉を言ったらダメな気がする。
「エドワード君を見習うのが少し遅かったようですね」
しかしリザの柔らかな声音と表情が、余計なものを一切取り払った恐怖を感じさせて、謝罪は届かなかったと思い知らされた。
今のリザのどこの何を気にしてみても、一目瞭然、完璧な微笑の中に冷気立ち昇る怒りが目に見えるようだ。
気にかけてわかること。謝罪の仕方――。
つい先程までエドワードに言っていたことを、実践出来る状況にない。
求められているものは、謝罪ではなく命のようだと感じたら負けだ。
「ご、誤解だっ」
次の動作でリザが愛銃を取り出す前に、ロイは必死で説明という名の言い訳を試みるしかなかった。



END



エドをからかったら命を賭ける羽目になったかわいそうなマスタング。
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