02.集中豪雨





野外演習から戻ったばかりのハボックが汗を拭いつつドアを開けると、一瞬冷気の奔流を感じて、思わず動きを止めてしまった。こういう時の理由は大抵相場が決まっている。
ハボックはなるべく音を立てないように小声で期待を告げながら、自分の席に辿り着いた。
あまり露骨にならない程度に横目を流せば、リザがその横顔からもはっきりとわかるくらい眉を顰めて、盛大な溜息をついたところだった。対してロイは罰が悪そうに目を逸らしている。これはもう十中八九間違いない。
「また何やらかしたんだ、大佐」
今日は終日内勤のフュリーに聞くと、手持ちのファイルで口元を隠して声を潜めた回答がきた。
「先程の軍議で、資料に悪戯描きしてたのがバレたらしいですよ」
「へー。またハヤテ号でも描いてたのか?」
なんだ。意外に大したことないな、と言いかけて。
「いえ。――ハクロ将軍がエドワード君に嘲笑われてる絵を、ハクロ将軍本人に見つかったそうです」
「へー。…………マジか」
「マジです」
意外に大したことだった。
なるほど。
それで無言だというのにリザの全身から静かとは言い難い怒りが渦を巻いて、部屋全体が凍えるわけだ。
わざわざ各支部の幹部会合である定例軍議で、しかもつい先日この東部で起きたテロの、はからずも一被害者となってしまったニューオプティンの将軍に対してのそれは、同席していた副官として胸中察してあまりある。
どこまでも冷ややかな激情を放出し続けるリザに痺れを切らしたのか、ロイが小さく呟いた。


「……だから悪かった」
「謝るくらいなら最初からしないでください」
間髪入れずに断言されて、ロイはむくれたように肘をついた。
「まさかバレるとは思わなかったんだ」
「そういう問題ですか」
「だが退屈だったんだ。寝るよりマシだろう」
「比較すべきが違うかと」
あくまでも冷静な正論で対する副官を上目遣いでチラチラと様子を窺う上官の姿は、どこからどう見ても格好がつかない。
しばらく無言の睨み合いが続き、やはり分の悪いロイが、やけくそ気味に肩を竦めて鼻を鳴らした。
「君だってかなり眠そうだった」
「退屈でしたが居眠りも落描きもしていません」
ああ、そこは正直に言っていいんだ。
聞き耳を立てていたハボックとフュリーにも想像はつく、お堅い文言が並ぶ報告会は、我慢比べな面も少なからずあるのだろう。それに負けたロイは、何故か横柄な態度を崩さず、リザの諫言を振り払うように、頭の上で手を振って見せた。
「見ていたのに止めなかったじゃないか」
「それは――」
「何だ」
ここで初めてリザの方が言いよどんだ。
こういう場面では珍しいリザの態度に、ハボックたちも思わず顔を上げて様子を窺う。


もう一度「何だ」と責めるような口振りのロイに促されて、それでもしばし逡巡の後、リザは意を決したようにロイを見つめた。
「はっきり申し上げてもよろしいですか」
「ああ」
「何を描かれているのかわかりませんでした」
「……は?」
きっぱりと告げられた台詞に、ロイが間の抜けた声を出した。
ハボックも隣のフュリーと思わず顔を見合わせてしまう。
一方リザは、苦しそうな表情でハァと息を吐き出すと、左手で額を抑え、それでも堪えきれずといったように首を振った。
「なので新しい作戦の構図でも描かれているのかと。まさか対テロ事件の風刺絵とは、まさか」
「どこからどう見ても、鋼のとハクロ将軍だろう!」
「どこをどう見ればそう取れるのかわかりかねます」
「将軍はすぐにわかったぞ!」
そういう問題か。
声を荒げ腰を上げたロイが、机上の紙片を叩きつけた。
細かい文字列がびっしりと書き込まれているのは、おそらく今日の軍議の資料か。
少ない余白部分に、確かに何か描かれていたようにも見えたが、いかんせん二人の位置からでは、それが何なのかまではわからなかった。
「ご自分の負い目があったからでは?」
逆切れという言葉にピッタリなロイの態度に、リザがさらに目を細める。


「現に、ハクロ将軍が取り上げられた絵を示されて、さすがのグラマン中将も渋い顔をされてらしたでしょう」
「む……。それは私が軍議中に落描きを……」
「落描きくらい中将も頻繁にされています。あれは完全に何を示されたのか理解できない顔でしたよ」
「いや、グラマン中将はわかっていた!」
「大佐」
「――はい」
絶対零度を保っていたリザの空気が、氷点下に変わったのを察したロイが、油の切れた機械のようなぎこちない動きで再びリザから視線を逸らす。リザの視線が更に冷ややかに眇められた。
「私が何を言いたいのかおわかりですか」
「……軍議中の落描きを相手に悟られたこ――」
「こんなものを会議に列席された方々の前で披露されたことです」
言い終わらない内に被せられたリザの台詞に、ロイがぎぎぎと顔を動かした。
「………………はい?」
充分過ぎるほどの間を置いて、おそるおそる顔を上げる。
「抽象画過ぎてフォローのしようがありませんでした」
「な」
今までの無言が嘘のように、リザの言葉が急速に熱を帯びていく。
「ブラックハヤテ号の時より精度が落ちています」
「ちょ、中尉――」
「これは何だと思う、というハクロ将軍に答えようがありませんでしたっ」
「そん――」
「せめてもう少しマシな絵を描いてください!」
「…………」
だん、と机にリザの拳が叩きつけられる頃には、ロイががっくりと肩を落としてさめざめと顔を両手で覆っていた。執務室ではあはあと息を乱し肩を怒らせるリザの姿など滅多に拝めるものではないが、あえて拝んではいけないだろう。あんぐりと口を開けてしまっているフュリーを尻目に、ハボックはそろりと席を立った。


「……集中砲火を浴びた気分だ」
撃沈しながら呟くロイの横手から、問題の資料をひょいと覗いて、ハボックはリザの言葉の正しさを知った。
ロイに向かっていやいやと手を振る。
ついでにフュリーにも見えるように、持ち上げてやった。
「大佐ぁ、これぁ集中豪雨の間違いじゃないスか」
「うわあ……それは……」
「濡れすぎだよなあ」
「た、確かにちょっと……」
「うるさい」
「ぅあちぃっ!」
リザ曰く、過ぎた抽象画を正直に評せば、うっすらと涙で光る目元に険を滲ませたロイの指がハボックに向けて音を弾く。思わず取り落とした資料は、しかし抽象画が描かれていた部分だけ、ものの見事に焼け落ちていた。
眉を寄せたリザが、拾い上げて机に戻す。
「大佐、室内で焔を出さないでください」
「しかしだな――」
今度は静かな口調で焦げ後を非難する彼女に、やはりロイがもごもごと反論しかけて――。
「夜、オネショしてもしりませんよ」
「――するかっ!」
真剣な口調で言われた言葉に、ロイが涙声で大きく怒鳴ったのだった。



END



オマケについてたブラハにも絵に対する微妙なセンスが見受けられたので。
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