★キス今昔物語★20120611 彼の手が頬に滑る。 キスだ、と理解した途端、無意識に身体が強張るのがわかった。 近づく吐息に促されて瞼を下ろした私にわかるくらいだから、触れている彼には丸わかりだろう。 キスが嫌いなわけではなく、むしろ彼に触られた先から甘い痺れがゆっくりと全身に広がっていくくらいの心持ちだ。だというのに、いつもいつも最初の接触でこうなってしまうのは、たぶん彼の手がいつになく優しく触れてくるからだ。絶対そうに違いない。 「……リザ」 こういうときに思い知らされる大きさの違う彼の掌が私を軽く上向かせる。 呼ぶ声も随分甘くて、けれども逃げられない威嚇のような低さに、背筋が嫌悪ではなく粟立った。 軽く合わせるだけの唇はすぐに離れて、それでも手は頬を包んだまま、瞼にも唇が添えられる。 「んっ」 その指先に遊ぶように耳朶を触れられて、首を竦めると同時に声が出てしまった。 息を詰めたような、跳ねたような。 「リザ」 自分でも驚いてしまったその声に一瞬だけ動きを止めて、彼が私を呼ぶ。 「は――んっ」 答える前に、さっきより少し強引に顎を取られて、言葉ごと唇を封じられてしまった。 息の次間に、間近に感じる吐息が熱い。 ――なんだろう。今日は少し長い気がする。 こんな真夜中、いつもの別れ際のキスとは違う、じっとりと絡まる甘さは初めてだ。 もともと人通りの少ない田舎道ではあるけれど、いつ誰が来るとも知れないのに、とか、少し怖いです、とか、言い訳が頭の端に浮かんでは吐息に消えて、まとまらない。 何度も啄ばむようなキスを交わした後で、彼が唇をほとんどくっつけたままで、ぐっと身体を寄せてきた。 「…………ングさん?」 「リザ、口開けて」 「く、ち?」 疑問符を乗せるためだけに開いた口中に、思う間もなく、彼の息がぬるりと舌ごと入ってきた。 「んぅ……っ、ぁ、な」 咄嗟に身を引きかけた私を、しかし彼の手が許してくれない。 逃げた舌先も絡め取られて、ぞくりと背筋に何かが這った。同時に生理的な涙が瞼の裏に溢れてくる。 どう反応すればいいのかわからず、彼の動きに合わせるように必死で息をつないでいると、合間に漏れる自分の声が、まるで知らない人みたいで恥ずかしくなる。変に思われたらどうしよう。 抵抗ではなく、羞恥から彼のシャツを握り締めた私に気づいてか、彼がハッとしたように唇を離した。 ようやく新しい酸素に夢中で息を整える私の呼吸が乱れている。 「……嫌だった、か?」 恥ずかしくて俯いていた私の頬に添えていた手を離しながら、彼がおそるおそるという口調で聞いてきた。 「…じゃ、ない、です」 まだおさまらない荒い呼吸を押した言葉は途切れがちで、首を振る動作すらもどかしい。 嫌じゃない。全然そういうのじゃなくて――ああもう。うまく言葉が繋げない。 必要以上におかしくなっている自覚はあるが、どう伝えたらいいのかわからない。 いまだに触れられただけで固まってしまうことのある私がどう言っても、本当だと思われないかも。 このまま帰ってしまうかもしれない。そう思うとだんだん不安になってきて、つい彼のシャツを掴むと、戸惑いを含んだ優しい声で名前を呼ばれた。 「リザ?」 言葉の足りない私の話を、辛抱強く汲み取ろうとしてくれている優しさに、私は意を決して顔を上げた。 夜の帳がなかったら、たぶん真っ赤な顔が丸見えだろう。 少し不安げに私を見つめる彼の視線に、私は必死に言葉を探した。 「あ、あの、……ふ、ふわふわして……。その、嫌なわけじゃないんです、ほ、本当に……」 「――ああ」 尻すぼみになっていく私の言い訳めいた真実を黙って聞いていた彼が、ふっと目元を和らげた。 何が、ああ、なんだろう。 安堵にも聞こえる息のような言葉の意味はわからない。が、彼の手がもう一度私の頬を包んで、互いの鼻先が触れ合った。 「わかった。うん。リザ、大丈夫。……ゆっくりするから」 さっきのキスをもう一度? 窺うように彼の唇が触れる。薄く唇を開けたままでそれに応えると、それだけで、次第に彼のシャツを握る私の指先に力が入っていくのがわかった。 こういうキスの仕方を全く知らなかったわけじゃない。 でも、――どうなるのかは知らなかった。 「……もち、イイんですね」 角度を変えて深まるキスの合間に正直な感想を漏らす。 と、彼の甘い動きが止まった。 何か言い方が悪かっただろうか。 うっとりと閉じていた目蓋を上げると、妙に真面目な顔をした彼が堪えるように私を見ていた。 「……」 「マスタングさん?」 一瞬、切羽詰ったように見えたのは暗がりのせいなのかもしれない。 「ゆっくり出来なかったら悪い」 瞬いた私の唇を、決まり悪そうな顔で彼の親指がなぞった。 ****************************** 退院祝いと称して彼の部屋に招かれた。というより、そのまま直行した形だ。 何よりもう戻れないことを覚悟しての戦いに、私の部屋は清算してしまっていたし、むしろ同じ状況だったはずの彼が、軍の施設ではなく、前と同じ部屋を用意出来ていたことの方が驚きだった。 入院中、一人にしてしまうハヤテ号の世話を快諾してくれたのも彼で、既にまるで我が家のように勝手知ったる堂々とした態度で私を出迎えてくれたハヤテ号にも驚いたが。 「なんだ?」 「……いえ、何でも」 少し悔しい気もするが仕方ない。 ああでも、寝床は私のあげたマットの上で、少しだけ飼い主としてのプライドが喜ぶ。 夕食はどうしてもキッチンに立つことを許してくれなかったので、ものすごく久し振りに彼の手料理をご馳走になった。相変わらず食材の切り方は大雑把なのに、味付けが抜群の料理は美味しい。 調味料も薬品の配合も同じだろう、という彼の思考の基を知らなければ料理上手で済ませられるのに、そこが残念と言えなくもない。 同じ錬金術師だった父がそれほど料理を得手としていなかったのだから、たぶん素質的な問題だ。 不在の間の軍の様子や今後の展望をぽつぽつと交えながら、久し振りの病院食以外の料理らしい料理を堪能させてもらう。それから、ご馳走様でした、と席を立ちかけて、しかし後片付けさえ手伝わせてもらえずに、リビングのソファを指定されてしまった。 家主の意向が存外強く、仕方なしに手持ち無沙汰に彼を待つしかできなかった。 「リザ」 ワイングラスを片手に現れた彼が、ボトルを軽く掲げて見せた。 ラベルにふと目が留まり、彼らしい演出に私は思わず微笑した。私の好きな銘柄だ。 だが自分には半分、私には彩り程度に注いで渡されたグラスに、物言いたげな視線を送る。 「……違うぞ。病み上がりだからだ」 私の不満を感じ取ったらしい彼の言葉にしぶしぶ頷いて、グラスを合わせる。 口の中に広がるコクのある渋みと甘みの味わいも久し振りで、こちらも本当に美味しかった。 「こら。飲みすぎるなよ」 「……大佐の、多いですよね」 「言ったろう」 狙う私からグラスを引き抜いた彼が、ふと目を細めて私に触れた。 ゆっくりと近づいて、唇の触れ合う寸前でぴたりと止まる。 「……キスしても?」 今更どんな返事でもするくせに。 答える代わりに瞼を下ろすと、彼の微笑した気配がすぐ傍でした。 「退院おめでとう」 唇を合わせるだけの、けれども長い口づけがおりる。 病院が軍の施設だということや、正直そんなことどころではない状態だったこともあってか、何だかやり方を忘れてしまったのかもしれないと思うくらいの優しさが、いとおしげに頬をなぞる手だけ残して離れていく。 「……」 「どうした?」 その手の上から触れながら、じっと彼を見つめると、わからないというような顔で聞かれてしまった。 ワインの催促はすぐわかるのに。 ここは正直になった方がいいのかもしれない。 普段は驚くほど強引なくせに、本質的なところで優しすぎる彼の性格を私もとんと忘れかけていた。 「もう終わりですか?」 至近距離で見詰め合って、おやすみのキスにはまだ早い。 「……病み上がりだから気遣ってだな……」 「病み上がったんですよ」 「だが――」 少しだけ開けた唇で、言い訳めいた言葉を奪う。一瞬驚いたように目を瞠った彼を視界の外に閉め出して、そのまま舌をもぐりこませると、飲み足りないワインの味にダイレクトに脳を刺激されて、もっとと勝手に意識が喘いだ。 「……酔いそう」 ホールドするように彼に乗り上げた身体が熱を帯びて、しかし力が抜けそうになるのは、アルコールと同じ効果だろうか。 呟いた私に、少しだけ息を乱すことに成功した彼が微苦笑で髪を撫でてきた。 「何ですか?」 「人の厚意を無碍にする天才だな」 「……怒ってます?」 殊勝な声音で嘯くと、少しだけ戸惑ったような瞳で見つめられた。 あまり無理を言って、困らせるのは本意ではない。 本気で退院したての私を気遣ってくれているのもわかるから、今夜は大人しく抱きしめられて眠るのもいいと思っているのだ。 「そうじゃない――……ただ、今日くらい優しくしたい」 真摯にそう言われて、頬に下りてきた手に擦り寄りながら、私は大人しく頷いた。 乗り上げた体勢だけはそのままに、力を抜いて、くてりと彼の胸板に身を預ける。とくんとくん、と耳に心地良いリズムを刻む音に安心する。このまま目を瞑っていたら体温に甘えて眠ってしまいそうだ。 「優しくしてくださいね」 骨張った指先に唇をつけてそう言えば、彼の身体がほんの僅かにぴくりと跳ねた気がした。 何かまずいことを言っただろうか。 おそるおそる上目遣いに見やると、眉を寄せた彼とかち合った。 「……大佐?」 「優しく出来なかったら君のせいだ」 決まり悪そうな表情で、けれどもそう告げる彼の声音が熱くなる。 どうして今のでそうなるの。 首筋に手を添えてソファに沈められながら、考える間に思考ごと彼の唇に奪われた。 ロイアイロイ愛。 |