03.無能



ドアを開けた瞬間から放たれた甘ったるい空気に軽く立ち眩みを覚えて、しかし視線は逸らせなかった。
「君が好きだ」
「私もよ」
「……」
指を絡めようとするロイを器用に避けるが、上からがしりと掴まれて、もう片方の手でグラスを傾けながらの台詞は完全に棒読みだ。それにロイが憮然として唇を引き締めた。
「君はそうやっていつも簡単に流す」
「んなこたないわよ。大好きよー」
「……」
更なる棒読みに、ロイが不満に口を開くより早く。
「俺の天使たちの次だけどな」
ヒューズがさらりとそう言った。
いつもの彼のいつもの台詞だ。これがいつもの司令部であれば、ロイはげんなりと顔を顰めているはずだ。
だというのに、ロイの目が別の意味で剣呑に眇められ、そのままヒューズにずいっと顔を近づけた。
「そいつはどこの馬の骨だ」
「家族に手ェ出したら刺し殺すぞこの色情狂」
「……何をされていらっしゃるんですか」
どこからともなく取り出したダガーを押し付けるヒューズに、漸くリザは声を上げた。本当に何をやっているのだ。
チャイムの音にも反応せず、仕方なしに一声かけて上がった先で、直属の上官が既婚者の親友相手に本気の口調で迫っていて、適切な反応が他に思いつけないでいる。
ヒューズがロイに掴まれていたままだった手を思い切りよく振り払い、リザに満面の笑顔を向けた。


「いやあ参った。リザちゃん、この酔っ払いどうにかしてもらっていいか?俺、明日始発帰りなわけよ」
やれやれといった風にソファから立ち上がったヒューズを追うでもなく、虚ろな視線をそれでも眇めたままで、ロイがグラスに手を伸ばす。
近付いてそのグラスを取り上げながら、リザは首を鳴らしながら手を振るヒューズに言った。
「すみませんでした、ヒューズ中佐」
「こっちこそゴメンな、こんな時間に来てもらっちゃって」
「いいえ。それより寝室は――」
「勝手知ったる客室借りる。リザちゃんも泊まってくんだろ?ロイの部屋だよな?」
「は?いえ、私は――」
まさか泊まるつもりはさらさらない。
そう言おうとして、リザは突然腕を引かれて言葉を飲み込んだ。
「たい――」
「リザちゃんと呼ぶな!」
思い切り掴まれたせいでたたらを踏んだリザは、つい先程までヒューズが座っていたロイの隣にぼすんと座ってしまった。抗議の視線をロイに向けるが、彼は相変わらず酒の充分に回った目で、既にリビングを出かけていた親友の背を睨んでいた。
ヒューズが呆れ口調で振り返る。
「ひっでえな。散々好きだ何だ絡んでそれかよ」
「気色の悪いことを言うな。私が好きなのはリザだ、馬鹿者」
「た――」
「だからリザちゃん呼んでやったんだろうが」
「ヒューズ中佐!」


人を挟んで何の応酬だ。好きだ嫌いだの話になるなんて聞いていない。
そもそも夜中の呼び出しは、「ロイが大変でな。悪いが、すぐに来てくれないか」というヒューズのやけに抑えたトーンの留守電に端を発していたはずなのだ。取るものも取らずに駆けつけてみれば、こんな管を巻いた上官を押し付けられるだなんて、割に合わない。
「ごめんなー。ロイの奴、俺がグレイシアとエリシアから毎日のように愛されるって話をしてやったら、酒のペース上がっちゃってさあ」
それは上げでもしないとやっていられないかもしれない。
電話ではなく実際に対面しての惚気話に、多少の同情が出てきてしまった。
やはりぼんやりとした視線を宙にやっているロイに掴まれたままの腕を、ゆっくりと外す。
「む……リザ?」
「大佐、飲みすぎです。歩けますか?」
リザが来なければ、適当なところで本当に放ってしまっただろうヒューズの代わりに、せめてベッドルームまでは運ばなければ。
外した手に自分の手を重ねて問えば、ロイが眉を寄せてリザを覗き込んできた。
「ダメだ。答えをまだ聞いていない」
「は?」
そのまま更にずいっと顔を近づけられた。
まるで先程のヒューズと同じ、いや、それ以上に近い体勢になってしまった。
「どこの馬の骨だ」
「何の――」
「君の惚れているという男だ」
なるほど。これはかなり酔っている。
ロイの中で、ヒューズとの会話がまだ続いているらしいことに気づいて、リザは軽く首を振った。どんどん寄せてくるロイの顔から出来るだけ体を仰け反らせる。


「――それは先程ヒューズ中佐との」
「ヒューズ!?本気か!?」
何をどう解釈したのか、リザに皆まで言わせず素っ頓狂な声を上げて、ロイが大きく目を瞬いた。
そうして更にリザに迫る。
逃げ場など限られているソファの上で、ほとんど押倒されそうな勢いに気圧されながら、リザも慌てて否定した。
「え、あの、違――」
「やめておけ。あれは稀代の妻子馬鹿だ。老け顔の、ただのヒゲ面だ」
「おい」
真剣な口調で言ったロイに、ドアに手をかけていたヒューズも思わず後ろに声を投げる。が、ロイの耳には届いていないようだ。
そろそろロイに迫られた自分の体を支える腕も痺れて痛くなってきた。
しかしもう一度否定しかけたリザの腕に、ロイがぐったりと縋るように体を預けてきて、もう完全に背中はソファに沈められている。
「大、佐?」
どうにか寝てくれたのだろうか。
おそるおそる呼びかけたリザへ、しかしロイのくぐもった声が届いた。
「いつからあいつだ……」
苦しげに吐き出されたその台詞はひどく切なさを孕んでいて、リザは思わずロイの頭を宥めるように掻き抱いた。それからロイの注意を促すように、優しく頬に手を伸ばす。ゆっくりとロイが頭を持ち上げた。
「…………」
「大佐」
酒のせいだ。わかっている。
わかっているが、赤く潤んだロイの瞳が今にも泣き出しそうに見えて、リザは真っ直ぐにその視線を受け止めた。


「……違います。大佐の勘違いですよ」
「本当に……?」
「……本当です」
答えるリザの唇を、ロイが確かめるように何度もなぞる。
「なら、君の好きな男は?」
「それ、は――」
艶めいた声音で問うロイの息が熱い。
アルコールを孕んだその熱さに酔いそうになる。
そのまま近付いてくる唇に、リザもゆっくりと瞼を下ろしかけて――
「あー、なあなあ。俺もう寝ていい?」
「――っ!はい、おやすみなさい!」
離れたところから掛けられた姿の見えないその声に、リザはほとんど脊髄反射でロイの顔面を押し返した。
寸でのところでキスを逸らされたロイは、そのままリザの上に窮屈そうに倒れこんだまま、リザの頭を抱え込み始めた。
「ちょ、大佐、離してくださ……」
「うん。おやすみ」
「大佐っ、はダメです!」
「風邪引くなよー」
「待っ――」
パタン、と今度こそ完全に閉められたドアの音と、自分を抱きしめる腕の強さとで、リザは諦めの息を吐くと、腹いせまじりにロイの頭をぐしゃりと撫でた。
明日、どうせ何も覚えていないだろうロイの反応を思いながら、彼の胸に頬を寄せてみれば、ん、と鼻に抜けた寝息をあげたロイの拘束がより一層強くなった。
むしろ自分はいったいどんな顔で反応できるだろうかと悶々と考えつつ、一向に起きる気配のないロイの抱擁に、仕方なくリザも今度こそ最後まで瞼を下ろしたのだった。




ある意味無能マスタング最強。
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