夢で逢えたら



小さな子供の足音が聞こえる。
ここが軍部だとか、何故子供が、など、一瞬頭を過ぎった気がしないでもないが、彼が無造作に抱きついた人物を認めた瞬間、状況も何もかもが霧散した。
子供の衝撃を柔らかく受け止めた彼女が、せがまれるまま腰を屈めると、待ちきれないとばかりに、子供がぐんと爪先立って両手を伸ばす。小さな手で、一生懸命頬を引き寄せ、その唇にキスをする。
至近距離で照れつつも満足げに笑う彼に、彼女もふわりと微笑を深め、お返しにと、彼が送ったものよりも丁寧で優しいキスを返した。それから優しい手つきで彼の髪を丁寧に撫でつけ、ふと何かに気づいたように顔を上げる。
一瞬合ったかと思った視線が、私の後ろを通過したまま、子供に向けていたのとは違う類いの感情を瞳に含ませて微笑んだ。
遅れて気づいたらしい子供が腕の中でじたばたと暴れ、離された途端、こちらに向かって勢い良く駆け出してくる。
思わず来るであろう衝撃に身を固まらせ――

 *****

「――っうぐお!」
腹を襲った現実の衝撃に、蛙の潰れたような声が出た。
何が起こったのかと腹部に手を伸ばして、生暖かい慣れた毛皮の感触に、私はそのまま彼を胸の辺りまで持ち上げた。若干の抵抗を示しつつも、ズルズルと腹の上をよじ登ってきた彼に鼻を付き合わせる格好で、私は半眼で睨めつける。
「何をす――」
「大佐がなかなか起きなかったからですよ。最初は一生懸命優しく起こそうとしてました」
「……君が優しく起こしてくれれば良かったんだ」
私の抗議を遮って愛犬を擁護しながら、サイドチェストにことんと置かれたマグからは、鼻腔をくすぐるコーヒーの香りがした。
まだ多少ぼんやりとしていた思考が、ゆるゆるとここに戻ってくる。
持ち上げた時と逆の要領で、後ろ足からずるずるとブラックハヤテ号を床に下ろして、私はほとんど横になりかけていた体を、ソファの上に立て直した。
「勝手に上がりこんで何言ってるんですか」
相次いだテロ予告のおかげで溜まったデスクワークを仕上げたほぼ徹夜明けで、私は随分疲れていた。
だからつい帰り道を変更して、耳に馴染む小言を聞きながら一眠りしようと思っただけなのだが。


久し振りに訪ねてみれば家主は留守で、そのまま自宅へ戻るには眠気が限界だった。
中から聞こえたワンという一鳴きに許可を得たと言いわけて、上がりこんだソファの上で彼女の帰りを待つ間、私はいつの間にか寝入っていたらしい。
「ハヤテ号が一人は寂しいというから、一緒に留守番をしてたんだよ」
「この子のせいにしないでください」
ねえ、と濡れ衣を着せられた愛犬に向ける眼差しは、私に向けるそれよりもずっと優しい。
その表情に、見た夢が重なって、私は欠伸をかみ殺しながら後ろ頭を掻いた。
「ちゃんとベッドで寝ないと、疲れが取れませんよ。起きたのなら、先に何か召し上がりますか?本当はご自宅で――」
「本当だな」
「はい?」
言葉の途中で溜息と一緒にそう呟くと、リザが怪訝そうな視線を向けた。当然だが、微笑はない。
そのことに勝手に面白くない気持ちが顔を出して、私は自分でもおかしいくらい不貞腐れた声を出した。


「疲れも取れんし身体は痛いし」
「ですからベッドで」
「君もいなかったし」
子供じみた口調になるのは疲れのせいだ。
「夢でさえ他の男にキスしてるしな」
明らかな言い掛かりを止められなかったのは、まだ夢現なせいだと自分勝手に思い込むことにした。
ふん、と言い切って彼女から視線を逸らしたのも、まだ眠いせいで他意はない。
「……どんな夢を見てるんですか」
しばらく無言だったリザに呆れを存分に含んだ声音でそう言われて、私はこのまま寝入ってしまいたくなった。
聞こえないふりで目を瞑る。
話せるわけがない。
そもそも自分でも判然としない内容すぎる。
こんな呆れた夢の話など。


答えないでいる私の隣に、リザがそっと腰を下ろした。
大きくはないソファは、それだけで私の体をリザの方へと沈ませる。
バランスを取りかけた私の頬に、不意打ちのように軽く唇が触れて、思わず目を開けてしまった。
「勝手に変な夢を見ないでください」
随分甘やかした調子で言われて、だけどもやはり夢の中のような微笑はない。
当然といえば当然なのだが、疲れた思考ではそんなことが重要なことに思えてしまうのが厄介だ。
「大佐?」
せめて頬でなく、あの子供にしたように、私にも優しいキスをくれればいいのに。
「キスを」
「え?」
「――……いや」


悶々と考えて、思わずついて出そうになった台詞を土壇場で飲み込む。
身勝手なこの状況で、ここ最近の私の真面目な勤務態度に対するリザからの最大級の譲歩が、先程の頬へのキスだとわかっているつもりだ。
調子に乗れば、微笑どころか今度こそ眉間に皺を寄せたリザから帰れと銃でキスされるかもしれない。
そろそろ本当にベッドを借りるか。
そう結論付けた私の視界に、ふわりとやわらかな金が広がった。
「――……」
「……」
俯き加減だった私の頬に、リザの手が軽く添えられている。
柔らかくそっと触れて、離された唇の感触がやけに甘い。
開けたままだった私の視界に、リザの薄茶色のきれいな瞳がゆっくりと映る。


まだ夢を見ているのかもしれないと疑うには充分なリザの態度に、私は大きく目を瞬かせた。
クスリと笑って、その瞼に、もう一度頬に、完全に私を甘やかしているリザの唇が降ってくる。
それから部屋のぬくもりに馴染んだリザの両手が、私の頬をひたりと包んだ。
「……寝惚けてるんですか?」
私の顔を覗き込むリザの表情は柔らかい。
「どうかな。いや、うん、かもしれん」
そんな彼女から目を離せずに出た言葉は、自分でも驚くくらい格好のつかないものになる。
まだ飲んでもいないコーヒーをむせた気分でひとつ咳き込むと、背ザの目元がいっそう優しげに下がった気がする。
何故かはわからない。
だが甘やかされているのだ。確実に。
そう自覚した途端、何だか急に羞恥心が湧いてきて、しかしリザの手は振り払えずに、包まれた頬だけが熱くなる。


「ソファなんかで寝るからですよ」
「……だな」
「変な夢を見たりとか」
「――いや、あれは別に変なわけじゃ――……いや、まあ、そう、だな」
詳しく言えない夢の内容は、多分に変で間違いない。
咄嗟に否定しかけてまた認めた一貫性のない私を、リザが面白そうに見つめてくる。
頬から移動した指先がこめかみに触れて、優しく髪に差し込まれた。丁寧に後ろへ掻き流されて、やけに首の辺りがむずむずしてきた。
まるで子供になった気分だ。
――ああそうだ。夢の中で、似たような動作をしていなかったか。


「仕方のない人ですね」
呆れのない、甘さだけの口調は、夢の中でもきっとあの子供にはしない類いだとわかる。
気づけばもう一度唇の触れ合う距離まで縮まっていたリザの瞳をじっと見つめる。
揺れるアンバーの中に常にはない柔らかさと、私に向ける艶めいた色があった。
自意識過剰ではないとわかるのは、おそらく私の視線も今同じ――以上に、彼女を求める色を湛えている自覚があるからだ。
「そろそろちゃんと起きてください」
「……だな」
口先だけでそう答えて、近い彼女の鼻に首を傾げて自分の鼻を軽く合わせる。


瞼をゆっくりと下ろしながら、夢で見たリザの微笑が目の前のリザに変わっていく。
あの子供に向けた眼差しも、その奥に向けた年月を思わせる深い微笑も妄想だ。今ここにあるわけがない。
何より私自身が、まるで彼女に向けられないのだから当然なのだ。
希望も夢も、何もかも。
今この瞬間のまだずっと先にある。
「起こしてほしい」
だから今、手の中にあるぬくもりを一欠けらも逃さないように。
リザの首に流れる金糸にそっと手を差入れて、またぞろ甘やかされた空気を感じながら、私はその唇でもう一度現実に口付けた。




マスタングはきっと現在過去未来パラレル全てのリザたんに嫉妬するタイプな気がするww

 
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