01.机の下




何となく、走らせるペン先にリズムが感じられなくなってきた。
集中力が切れたとまではいかないが、逃走を模してでも、馴染んだ小言を聞きたくなっているのだとわかる。
そうでなくともここ数日、すれ違いがちなシフトに加えて、立て込んだ事件やら何やらのせいで、会話らしい会話も出来ていないのだ。
日がな一日デスクワークで、血流も悪くなっている気がする。
サボりとまではいかずとも、息抜きに席を立つくらいは良いだろう。
いつもの癖で、つい見つかった時の言い訳を考えながら立ち上がった自分に内心で苦笑を禁じえない。
まずいコーヒーでも飲んで、気分を変えるか。
椅子を引いて立ち上がりかけ――
「――ん?」
足元で僅かに光ったものを見つけ、ロイは下に屈み込んだ。
背後の窓から射し込んできた陽に反射して光るのは、見覚えのあるピアスだった。キャッチのないピアスを掌に乗せる。おそらく彼女のものに違いない。
「何でこんなところに――」
しゃがみこんだまま、何の気なしに陽に透かして訝しんだロイの脳裏に、ふと、珍しく慌てた表情のリザが過った。
そうだ。あれは彼女の髪が伸び始めていた頃だった。

***

机に軽く腰を掛ける格好で報告を聞いていたロイは、ファイルに視線を落としたリザの横顔に落ちた髪に気づいた。
「大佐?聞いていますか?」
「ん?ああ、いや――」
一瞬遅れた意識を察して視線を上げたリザの鋭さに感心しながら、こぼれた髪をそっと掬う。
「髪、大分伸びたな」
「……聞いていませんでしたね」
溜息とともに、リザの瞳が眇められる。

心外だ。
きちんと意識を向けていたからこそ気づいたのだから、聞いていなかったわけじゃない。
「建設中の資材置き場の件だろう? 主管の人事に少し気になるところがある。追加で資料を用意してくれ」
「……」
「中尉?」
「……了解しました」
髪から手を離さないままで言ったロイの指示に、ものすごく色々な苦言を飲みこんだ顔でリザが頷く。
その僅かな動作で揺れた髪が、摘んだ指をさらに掠めて、ロイは感慨深げに眼を瞬いた。
出会った頃から短い彼女しか知らないで来たせいか、伸びかけで触れる動きがくすぐったい。
耳の後ろへ流すように掬い上げると、僅かにリザが身じろいだ。

「あの――」
「ああ、念の為、主管指示での発注書も頼む――これ、キャッチ緩んでないか?」
「は――え? ちょ」
髪に触れる距離まで分からなかったが、良く見ると左のピアスが少し浮いているようだ。
ロイは戻しかけていた手でもう一度リザの髪を掻き上げて、人差し指の腹で金具に触れた。
構築式を頭の中で浮かべながら、耳朶にも触れる――と、びくりと肩を竦めたリザが、勢い良くロイの手を弾いた。
「――」
「――――ッ」
その手に驚いて我に返る。

しまった。やりすぎてしまったか。
「中――」
素直に謝罪しようと顔を上げ、
「も――、申し訳ありません……!」
左耳を固守した姿勢のままのリザが、珍しく慌てたように声を上げた。
微妙なバツの悪さを感じて、ロイは弾かれたままの右手に視線をやって、誤魔化すように指先を握りこんだ。
それから出来るだけ真面目な口調を心掛けて、ゆっくりとリザに視線を戻す。
「いや、私も悪か――」
言いかけた言葉は、リザの表情に飲まれてしまった。

近頃ではポーカーフェイスがすっかり板について、優秀な副官の態度を常に崩さないはずの彼女の耳が赤い。
謝罪の意図だけでなく逸らされた視線が揺れているように見えるのも、気のせいではないとはっきりわかる。
「あー……、いや、私が悪かった」
近づきすぎた――以前に、触れた場所がまずかったことにようやく思い至って、ロイは素直に謝罪した。
そういえば、耳はかなり弱かった。
「……」
「……」
まんじりとしない空気に沈黙が辛い。

と、リザが微妙に逸らした視線を取り繕うように、カッと踵を響かせた。
「……主管に関する資料は、後程お持ちします」
「ああ、頼む」
彼女に倣い、上官の顔で答えたロイに、ほっとしたのが肩でわかったが、むしかえすような馬鹿はしない。
失礼しますと踵を返したリザの背中を見送りかけて、不意に視界に光るものが見えた。キャッチだ。
先程の遣り取りで外れてしまったのだろうそれを拾い上げる。
見れば、リザの左耳にあったピアスもなくなっていた。

「ああ――待て。中尉、ピアスが外れて――」
「差し上げますっ」
が、言うが早いが、リザは驚くほどのスピードで、ロイを執務室へと置き去りにした。
止める間もないとはこのことだ。
「……私が貰ってどうする」
去り際、掠めるように過ぎったリザの耳の赤さだけが鮮明で、ロイは思いがけず所有者となってしまった対のないキャッチだけを手に、そうぽつりと呟いたのだった。

***

「こんなところにあったのか」
思い出に一人合点する。
くつくつと喉の奥に染み出してくる笑いに浸っていたせいで、ノックとほぼ同時に開けられたドアへ反応が遅れたのは失態だった。
「失礼します。大佐ァ、すんません。これにもサイン……て、何やってんスか、そんなところで」
一人しか居ない執務室で、机の下から現れた上官に、ハボックの遠慮のない視線が注がれる。
「……コーヒーを淹れようとしてだな」
「ついでに少し気分転換してきた方がいいんじゃないスかね……」
疲れがピークの奇行とでも思われたのか、リザには無いサボりの気遣いにこれ幸いと、ロイは鷹揚に頷いた。

「行ってくる」
「あ、大佐」
「何だ」
大して緊張感の無い呼びかけに、肩越しに振り返るにとどめた姿勢で促すと、ハボックは火のついていない銜え煙草をぴこ、と上下に軽く揺すった。
サイン今日中に頼んます、と今更ながらの要求の後で、調子を変えずに言葉を続ける。
「中尉、書庫室で仕事してるらしいスよ」
「……行ってくる」
どこに、という指定はせずに、ドアを締めた。
そういえばやりかけの案件に、区画地図の添付を要するものがあった気がする。
コーヒーのなくなったマグを片手に、もっともらしい言い訳を考えながら、ロイは書庫へと足を向けたのだった




20130611記念で書き始めましたお題。
大佐を探す!という本来の趣旨から微妙に外れてますが続きます。

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