02.書庫




湿気が大敵の室内は、しかし特別空調が聞いているわけではない。ただ少し空気が違って感じるのは、古びた紙特有の年月という埃を被った主張のせいだ。
ここ数日で気温が鰻登りの外気とは比べるべくもないが、それでも打ちっぱなしの床や天井に軍靴の音が響くだけで、室温には涼しさが感じられる。
持ち出し禁止の資料を抱え、備え付けのテーブルに積み上げて、リザはふうと息を吐いた。
この分だと、午後の軍議までに書き写さなければならない箇所は、意外な量から探すことになりそうだ。
座る前に軽く肩を回して、壁時を見た。
―― 一〇〇〇。
そろそろ第一弾で追加の書類が届く頃か。
ハボックあたりが回す役目を担っていそうだと思いながら、椅子に座る。
「サボってないと良いけど」
独り言で呟いて、さすがにそれはないかと苦笑した。

何の因果か、数日続いたテロや小さくない騒動に駆り出されて、文字通り目の回る忙しさだった。
事件が一通りの収束を迎えた先日からは、遅延していた軍議も再開し、今日は未決済で詰まれた書類に目処が立たなければ帰れない。
事務仕事に嬉々として勤しむ姿は想像できなかったが、無責任に投げ出すこともしない彼は、今頃眉間に皺を寄せて業務に励んでいるだろう事は想像がつた。
せめて息抜きにコーヒーの入れ替えくらいはしたかったが、リザにもそんな時間はなさそうだ。
目の前の資料は膨大だ。

黙々と転記のスピードは緩めずに作業を進めながら、リザはふと、今日はまだ一度もまともに顔を合わせていないことに気がついた。
シフトのずれで、勤務時間が合わないことや入れ替わりになることはざらにある。
が、目も合わないことはそうそうない。
リザが執務室へ行った時に限ってロイに来客中だったり、席を外していたり、その逆だったり――、と面白いくらいのタイミングだ。

いつでも良い、と数日前に渡された銀時計と署名されたメモ用紙は、今もリザの胸ポケットに収まってた。
金額から、本当に急を要する費用というわけではないらしいが、あまり長くなってもどうかと思う。
第一国家錬金術師の証なのだから、いくら自分へでも、おいそれと貸与するのもどうなのだろう。
その気になれば、これ一つで巨悪を働くことも、ロイを窮地に立たせることも可能なのだと言ったリザに、「君なら仕方ないな」と胡散臭い笑顔つきで嘯かれた記憶を思い出して、無意識に溜息が落ちる。
かたり、とペンを置く。
ようやく半分――。

胸ポケットから銀時計を取り出して、意匠を指でなぞる。
しんとした書庫に、誰かがやってくる気配はない。
忙しさのせいでここのところ碌な会話も出来ていないから、余計な記憶が刺激されてしまうのかもしれない。
これだけ互いに予定が詰まっていれば、この会話の少なさもさもありなんという気はする。
だが、例え単独で遠方の視察や任務に就いたとして、定時報告を入れることを考えれば、同じ軍部にいてのこの現状は、やはり珍しいの一言だ。
昨日、それでも僅かな時間に交わした会話は「デートもままならん」というぼやきだったが、それでもさすがに疲労の滲んだ声音だった。それに。

「……研究も、面白いところだったのにって言ってたけど」
寝食を疎かにしてまで手を広げてはないことを願いながら、過去の彼から、その可能性を否定できないのが怖いところだとも思う。
第一、忙しいからといって食事を忘れる癖は直してほしい。
指摘すると、簡単な栄養補助食品をこっそり医務室に溜め込み始めたことをリザが知らないと思っているのも問題なのだ。医務官から苦笑で話されるのは毎回自分だ。
これで女性への配慮は欠かさないというのだから、溜息以外の何も出てこなくなる。
知識と探究心との等価交換で、どこかに持っていかれているとしか思えない偏った行動は本当に困る。
まったく、錬金術師はこれだから――。

「――」
そこまでつらつらと思いを巡らして、正午を告げる鐘の音にハッとした。
命の取り合いを懸念するには平和な今で、いつの間にか、随分緩んだ心配をしている自分に苦笑する。
それも、たった一日顔を見ていないというそれだけで。
思ったより、自分も疲れているのだろうか。
それとも互いに気配を感じる距離が近い場所にいるせいか。
「……欲求不満かしら」
嘯いてみた自分の言葉にため息を一つ。
あながち外れてもいない気がして、リザは眉間を軽く指で揉み解した。




会えなくて悶々するのは大佐だけじゃないですよー、という。

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