05.医務室




簡潔にファイリングされた資料を脇に抱えて、ロイは医務官不在の医務室に向かう。
将軍との微妙な逢瀬のおかげでまた入れ違いになってしまったらしい。この資料さえ戻ったら机にきちんと揃えられていて、しかし当の本人は総務に呼ばれて出たばかりとは、いよいよ今日はついてないとしか思えない。

しかしこれのおかげで予定していた一番の厄介ごとは恙無く終わった。
ノックもせずにドアを開け、本来医務官が座るべき椅子にドカッと腰を落ち着かせて、ロイはやれやれと首を回した。
針のむしろでまごつく若造の姿を楽しみたかったはずの上層部の面々から用意された重箱の隅を突くような矢継ぎ早の質疑を、証拠となる資料を充分に突き付けて答弁し終えたときの彼らの顔は見物だった。
「功労者にも見せてやりたかったな」
つい漏れた本音に、しかしリザに聞かれたら咎められそうだと、思わず笑う。
キャスター付きの椅子を不精で床を蹴って動かしながら、薬品棚のガラス戸を引いた。

大方馴染みのある薬品名が書かれたビンや袋をよけ、奥に潜めておいた圧縮された携行食料を引っ張り出して、口を破る。栄養価とカロリーだけが目的のそれは、匂いも味も素っ気もないが、ないよりマシだ。
寝食そっちのけで研究に没頭しがちなロイに、最初は軽い苦言に収めていたリザが、鬼の形相で立ちはだかるようになった原因は自分だという自覚はある。
だからこうして忙しくても、栄養だけは胃におさめると決めている。
「……あれは、反則だ」
あの時のリザを思い出して、ロイは携行食料をボリ、と乱暴に飲み下した。

*****

一瞬、そこがどこなのかわからなかった。
それなのに妙に頭が冴えているのは、久し振りにベッドの上にいるからだろうかと自分の状態を把握する。
視線だけ動かすと、見慣れたクローゼットが映り、ロイはようやく自室にいるのだと気がついた。
良く見れば目の前の天井も、閉められた窓にかかるカーテンも見覚えがある。
だが、ベッドサイドのローテーブルに置かれた水差しは用意した記憶がなかった。その横に見慣れない薬袋が鎮座しているのを確認して、ロイはすっと血の気の引音が聞こえた気がした。
誰が用意してくれたのか――自分が倒れたらしいことも、その原因もはっきりとわかる。
いきすぎた寝不足と疲労、それに軽い栄養失調もあるかもしれない。
袋の中身も見なくてもわかる。栄養補助剤がメインでたぶん間違いない。

だがそんなことよりもロイの頭に真っ先に浮かんだのは、まずい、という一言だった。
この家にリザが来たのは覚えているし、ここ最近無理をするなと何度も――それこそ比喩ではなく耳を塞いだくらい言われていたことも覚えている。その都度「わかっている」「後で食べる」「もう少しだから」とおざなりな生返事でやり過ごしていた。
その再三の正しい忠告を無視した挙句、この現状。どこにも弁解の余地はない。
はるか昔、師匠の元で過ごしていた若かりし頃にも、一度似たようなことをしたことがあった。あの時初めて年下の大人しいとばかり思っていた彼女に震え上がった恐怖は、意外と根強く残っている。
その頃よりずっと大人になった彼女が、青筋を立てて怒り心頭な姿が容易に想像できて、ロイは両手で顔を覆った。怖すぎる。

どうすれば撃たれないですむだろうかと半ば本気で考えていると、寝室のドアが開く音がして、ロイは咄嗟に目を閉じてしまった。寝起きの今、まだ心の準備が出来ていない。
控えめな足音は寝ている自分を気遣ってだとわかるのが心苦しい。
タイミングを計っているロイの瞼に影が落ちて、リザの手が額にそっと前髪をかき上げて額に触れた。
思わず動かしそうになった身体を寸でで抑えたロイに気づかず、リザがほっとしたように息を吐く気配があった。
(……もしかして熱もあったか?)
自己管理の甘さに軽く驚きつつ、それよりもさすがに心配を掛け過ぎたと反省する。
ここは早めに謝罪して、蜂の巣よりもタコ殴りを選択した方が素直だろう。そう判断を下したロイが意を決して瞼を震わせた時――

「……無精髭」
「――」
小さな声での指摘と同時に、リザの指先が頬を撫でた。
夜勤明けで戻ってから一睡もせず、自室に篭って机に向かっていたせいで、確かに髭を気にする暇はなかったから、その指摘は最もだ。ちりちりと表面をなぞる動きがくすぐったい。が、起きる切欠を失って、ロイはまんじりとベッドの上で様子を探るしかなくなってしまった。
ぎ、とスプリングが緩い軋みを上げた。立ち去る合図かと思ったが、気配はすぐ傍にある。
「……?」
薄目を開けたらバレるだろうかと逡巡していると、不意に出したままだった右手を取られて、持ち上げられる。両手で包まれているらしいリザの手が冷たい。それが僅かに震えている気がして、ロイはゆっくりと瞼を持ち上げた。
もう素直に謝るか。
観念して視線を向けると、合うとばかり思っていたリザは、ベッドサイドに膝をつき、包んだロイの手を祈るように額につけている姿が目に入った。

「……リ」
「お父さん――」
呼びかけに被ったその呟きに、ロイは思わずリザの手を握り返した。
「大佐……、気がつかれたんですね」
「悪かった」
一瞬驚いたようなリザの瞳を真正面から受け止める。
いつかの光景がまるでフラッシュバックのように脳裏を過ぎて、ロイはリザを見つめる視線に力をこめた。
同じ景色にいたまだ幼さの残るリザの、怯えた表情までがまざまざと甦り、自分の軽率な失態に舌打ちでもしたい気分だ。
馬鹿をした。けどもうしない、とは自分の気質を理解しているせいで断言すうることは出来ないが、最低限の栄養補給と睡眠時間には気を配るよう努力する。

「悪かった」
だからそんな顔をするな。
不安と安堵の綯い交ぜになったリザの瞳がロイとぶつかる。
身体を起こすと咄嗟に目を伏せたリザの腕を引いて、ベッドの端に座らせた。
「悪かった」
もう一度そう呼びかけると、視線は下に置いたままで、リザは漸く小さく口を開いた。
「……倒れるまで気がつかないとか馬鹿ですか」
「うん」
「研究も目指すものも、身体あってこそですよ」
「うん」
「食べてください」
「うん」
「寝ないともちません」
「うん」
「……もう若くないんですから」
「う――、そこはあまり素直に頷きたくないな」
痛いところを指摘されて、ロイは大仰に眉を顰めた。
けれどもまだ合わせてくれない視線は、それどころか顔ごと完全に下を向いて、もう旋毛しか見えない。
下ろした髪に隠れて表情も見えないが、細く震える肩と途切れがちな台詞の応酬で、見えなくてもそうとわかる。
心からの謝罪の気持ちをこめて頬に触れると、ロイは親指の腹でリザの眦を優しく拭った。

「気をつける。だから泣くな」
「……泣いてません」
「悪かった」
ふるりと首を振るリザの肩を抱き寄せる。
凭れる体温を感じながら、紳士に旋毛にキスを送ると、身じろぎながらリザがロイのシャツをきゅっと掴んだ。
応えるように強く抱くと、リザがくぐもった声で言った。
「今度したら撃ちますよ」
「う、ん――? いや待て。段階というものがだな」
「撃ちますよ」
甘く頷きかけたのを自制したロイの腕の中で、リザがキッと顔を上げた。
やっとで合った視線は、しかし濡れて赤くなったブラウンの瞳で睨まれてはどうしようもない。
観念して、ロイはリザの額にコツンと合わせた。
「……気をつける」
言葉よりも表情で、触れ合うこの体温で、誠心誠意を尽くしたくなる相手には、どうやったって勝ち目はないのだ。

*****

改めて空腹を訴える腹の虫に邪魔されるまで抱きしめてしまったあの日の視線を思い出すと、苦笑溢れる。
「――さて、と」
口中の水分を粗方奪われながらの二本目を食べ終えて、ロイはゴミをくしゃりと潰した。
ダストボックスへ放り投げる。
椅子の上で背伸びをして、最後にもう一度首を鳴らした。
「視察……の前に、中央からの客人だったな」
予定を反芻して立ち上がる。
あの日から、意識を失う程の不摂生はしていない。おかげでリザからの信頼も順調に回復し、最近では「サボらないで下さいね」と笑顔で銃口を向けられることが増えている。
それでもここ数日のような忙しない日が続けば、無意識にでも心配してしまうだろうリザを思うと、口の端が上がる。
「ちゃんと食べたぞ」
誰にでもなく言い聞かせるように呟いて、ロイは誰もいない医務室を後にした。





「反則だ」が一発変換で「販促」が出た変換機能の不条理。
「02.書庫」の医務室にためこんでるマスタングで続けてみました。


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