屋上に備えられた定点地点のスコープ越しに東方司令部敷地内を覗き下ろして、変わりのないことを確かめる。
それから定時連絡を無線に伝え、リザはインカムを外した。
ここから見える指定の範囲内での喧騒は、完全に沈静されたといって良い。
「……」
いや、とリザが無意識に目を細めた。いつもなら、どこかしらで姿を見掛けるはずの昼下がり――この格好のサボリの時間に、困った上官お気に入りの隠れ場所のどこにも一切姿は見えなかった。
やはり後処理に追われる今日は、まだ本来の姿と少し違うらしい。
見当たらない上官の姿に少し気落ちした気になっていた自分に驚いて、リザは眉根を寄せた。
そもそもスコープ越しに確認できるような物陰にいないことが当たり前のはずなのに、そんな風に思ってしまうなんてどうかしている。
「そろそろ終わる頃かしら」
多少長引いたとして、今日の軍議で紛糾するような議題は上がっていないはずだ。
持ち場の引継ぎを終えて階下を行きながら、リザは執務室へと足を向けた。




06.東方司令部屋上




軍議が終わったという連絡を受けたのは、午後の日差しが大分強く感じ始めた頃だった。
屋上から戻ったリザが、先に室内の空気でも入れ替えておこうと、執務室のドアを開ける――と、誰もいないはずの室内には先客がいた。
中央から来客予定を聞いてはいたが、指定された時間にはまだ随分あったはずだ。
それでも主不在の室内で、リザが自分の非礼を敬礼で表すより早く、振り向いた先客が朗らかな大声で、ビッと片手を高く上げた。
「よー! ホークアイ中尉、久し振り!」
「ヒューズ中佐」
まさかの人物に驚いたりザへ、ヒューズは屈託のない笑顔を向けた。
「いやー、まいったぜ。来る予定のお偉いさんが急な会合だかで、俺がピンチヒッターになっちまってよ」
おかけで今日も愛娘に会えない、と口を尖らせながらの説明を受けて、今頃自分にヒューズの到着を知らせる為、屋上に向かったはずのハボックと入れ違いになったことを知った。

「まあ善は急げってんで早い電車に乗ったんだけどよ、ロイは? サボリ?」
ぐるりと見回したヒューズに当然の選択肢としてそう問われ、リザは苦笑で首を振った。
「先程軍議が終わったと連絡がありましたので、もう少しで戻られると思います」
「そっか。じゃあそれまでここで待たせてもらうわ」
「コーヒーをお持ちしますね」
突然の来訪には驚かされたが、ロイにとっても気の置けない親友が代打であれば、きっとここ数日の慌しさで疲れた気分だけでも和らげる。
それに少し安心して、リザは給湯室でコーヒーを淹れた。
朝から何くれと忙しなかった今日の詰まり具合を考えて、ロイのことだ。おそらくどこかで自主的に小休憩でも取っていることだろう。
「大佐の分は後でいいわね」
お茶請けのクッキーを取り分けながら、リザはそっと呟いた。

*****

ただでさえ軍法会議所は忙しい。
各地で起こる紛争の情報収集、資料整理だけでも膨大な量のおかげで、なかなかエリシアの起きている時間に帰れない、という話を三回ほどループで嘆かれてから、質問の矛先がようやくリザに向けられた。
「そっちは? 最近忙しいって聞いたぜ。ちゃんと家に帰れてるか?」
「私はどうにか。マスタング大佐は詰める事も多くなっていましたが、今日は帰られると思います」
コーヒーを置いたら戻るつもりが、ロイが来るまでだからと半ば強引に引き止められての雑談だ。
リザの答えにヒューズは難しそうに眉を潜めて低く唸った。
「まあなあ。そんなんじゃ、そうそうデートも出来なくて困るだろ」
「ええ。そう仰っていました」
さすがは親友。昨日聞いたばかりのロイの愚痴がそのまま出てきた。
関心をこめて苦笑で頷く。だがヒューズは眉を潜めたまま、顔の前で手を振って見せた。
「いや、リザちゃんが」
「――は?」
ロイの話をしていたはずだが、どこで摩り替わっていたのだろう。
呆けた声で聞き直したリザの前で、ヒューズはまるで重大な問題でも抱え込んでいるかのように、腕を組んで首を捻った。

「ゆっくり会えないのも大変だよなあ」
「いえ、私は」
「帰る時間もバラバラだと、会話も難しい時あるだろ。ああ、何か二人だけの秘密のやり取りがあったり――」
「あのヒューズ中佐」
「もう一緒に住んじまえば?」
「……意味が分かりません」
完全にリザを無視して話を進めるヒューズに、思わず額を覆いたくなる。
話を聞け、と電話越しに怒鳴っていたロイの姿が脳裏を過ぎって、今更ながら激しく同意したくなった。
そもそも微妙な矛先の向け方ばかりで、リザから何をどうという事も出来にくい。
来客用に設えているテーブルに、いつの間にか広げられていたエリシアの写真を眺めることでやり過ごしていると、ヒューズは困ったように頭を掻きながら、自分も一枚写真を取った。

「あいつ、あんな性格だろ? 倒れるまで無茶しそうで心配でよ。だから早く嫁さん貰えって言っても、全然聞く耳持たなくてなー」
写真に向かって話しかけているようなその口調には、親友の体調を本心から気遣う様子が溢れていて、リザも深く頷いてしまう。ヒューズの心配には同意見だ。
自分のこととなると無理をしどおす嫌いのあるロイには、せめてハウスキーパーでもいてくれたらと思うのだが、人当たりの良い外面に合わず、意外と潔癖な彼がおいそれと他人を家に上げないことも知っている。
心配なら君が見にくればいい、と渡された合鍵の出番は確かに多くなっていた。
普段は比較的整理整頓のされている彼の室内が荒れ始めるのは、決まって軍部の仕事が忙しくなる頃だ。
まるで宿題を始める前に部屋の掃除をし出す子供のように、面白い構築式が浮かんだ、と嬉々として象形文字にしか見えない紙を見せ付けられるのには困ったものだ。
そろそろ彼の書斎は書き殴りの構築式で埋まっているのではないかと想像して、リザはそっと息を零す。

「――って、思ってたんだけどよ。見てたらまあ別に事実婚でもそれはそれでアリだよな。なあ?」
そんなことを考えていたせいか、また微妙な矛先を向けられて、リザは曖昧な笑みを写真に落とした。
余計な思考は禁物だ。ヒューズの会話はどこから飛んでくるのかわからない。
「……つまり、エリシアちゃんの将来のお相手は、事実婚でも構わないと」
「――ブチ殺す。そんな中途半端な野郎にエリシアはやらねえ」
アリだと言ったその口で随分物騒な発言が聞こえた。愛娘には駄目らしい。
真正面を見据えてドスの利いた声音を出したヒューズは、ふと我に返ると、慌てたように笑顔を浮かべた。
「まあほら、あいつは中途半端なだけじゃないから、悪くないと思うぜ?」
「エリシアちゃんにですか?」
「絶対やらねえ」
いつの間にかダガーを装着している真剣さに、リザは写真の中の無邪気な少女に笑いかけた。
「大変ですね」
将来の相手が、とロイが言っていたことを思い出して、リザはくすくすと肩を揺らした。ヒューズがバツの悪そうな表情で顎を掻く。

「娘を持つ男親なんてこんなもんだぞ? 俺は、ロイこそ親馬鹿の最たるものになると思ってる」
「大佐が、ですか?」
ヒューズのようになったロイが想像できずに、リザは大きく目を瞬いた。
子供が嫌いなわけでもないらしいが、近しい間柄でついエルリック兄弟とのやり取りが思いついてしまったせいかもしれない。しかしヒューズは笑いながら自信たっぷりに頷いた。
「今だって仲間や恋人にはバカ甘だろ」
その指摘には全面的に頷けず、リザは内心で小首を傾げた。
仲間に対してというのはよくわかる。が、恋人達にはどうだったろうか。傍で聞いているだけでも、たまに驚くほど非情な気がしないでもないが、他でもないヒューズがこう言うのだから、親友にしか言わない惚気もあるのかもしれない。
「でも息子だったら、妻の取り合いになるタイプな」
「大佐が、……ですよね?」
ヒューズがおもむろに手を打って続けた台詞は、娘自慢よりも想像がつかない。
ロイのどこにそんな片鱗があっただろうかと記憶を手繰ってみるが、やはりよくわからなかった。

「今だって、ちょっとでも気のある素振りを見せた奴には容赦ないだろ、あいつ」
「……そうなんですか?」
それも知らない事実だった。今、と言うからには、そんな相手が直近でいるらしいことも初めて知った。
大っぴらに誰かに妬いているロイなど、リザは見たことがない。
だが何かを思い出しているらしいヒューズは、くつくつと体を揺らして楽しそうだ。
リザの知る限り、来る者拒まず去る者追わずを地で行くような、フットワークの軽い彼がいつの間にか出会っていたらしい新たな人物へ、調査の必要はあるだろうか。
「ん? そうだろ? いやー、大変だな、ホークアイ中尉!」
「……私は存じませんが」
当然のように同意を求められても、ここは正直に答えるより他にない。
「またまた。一目瞭然だろー。あの独占欲は半端ないよなあ」
わざわざ正面から伸ばされた手で肩を強く叩かれる。つい今し方、愛娘に対して独占欲の塊だったヒューズに言われるほどのものらしい。曖昧に微苦笑を向けるリザに、ヒューズが続けた。
「リザちゃんに手ェ出そうなんざ消し炭だよな。仮に俺が食事に誘っただけでも、燃やされかねないって」
可笑しそうに相好を崩したヒューズに、リザはきょとんと目を瞬いた。

「……あの、何故私が中佐と食事に行く話で、大佐の話になるんですか?」
「ん? 何かおかしかったか?」
「大佐の新しい恋人のお話をされいらしたのでは?」
「……新しい?」
それでどうして自分が出てくる。
訝しんだリザへ、ヒューズも一瞬わからないというように首を捻り、それから真剣な表情で、ずいっとソファから身を乗り出してきた。また、ポン、と肩に手を置かれる。
「だから、ロイの好きな子ってリ――」
「燃やすぞ」
――チ、と。
見慣れた赤い火花の軌跡と聞き慣れた声と、どちらが早く届いただろうか。
「もう燃やしてんじゃねーか!」
「焦がしただけだ。泣いて喜べ」
飛び退ったおかげで立てた前髪の一部だけを燻らせたヒューズに、戻っていたらしいロイがふんと鼻を鳴らした。そのままつかつかと執務机まで来ると、持っていた資料をどさりと置く。
「大佐、お疲れ様です」
「――ああ、君も」
立ち上がりかけたリザを制したロイは、リザの肩から何かを払うように軽く叩いた。労いにしてはおかしな動きだと思ったが、そのまま隣に座ったロイと目が合う。
会っていなかった時間は数字にすれば大したことはないというのに、何だか随分久し振りに視線が絡んだ気になるのは、今日がこれまですれ違いばかりだったからだろうか。
今更照れが生じる関係でもないだろうに、数時間ぶりに合わせた視線で、互いに妙な苦笑を滲ませてしまった。

「お? 何、秘密のやり取り?」
「馬鹿を言うな」
焦げた前髪を気にしているとばかり思っていたヒューズに、目ざとく興味津々とそう問われ、ロイが半眼を向けて即答する。と、ヒューズがすっと表情を引き締めた。
その様子でロイもすっと姿勢を正しかけ――
「お前、今日家帰れんだって?」
「泊めんぞ」
続いた言葉に、ロイは嫌そうに顔を歪めて姿勢を崩した。
「いやいや、俺今日は軍の宿泊施設予約してあるからよ」
「本来それが当たり前だ」
積もる話もあるからと、東方へ来る時にはロイの家に泊まることもあるヒューズだったが、どうやら今日は違うようだ。急な一泊出張程度では、その方が身体も休まるからだろう。二人の会話を横にそう思っていたリザを、ヒューズが横目でチラリと見やる。それから意味深な笑みを乗せて、ロイを見た。
「良かったな」
「何が」
意味を量りかねているロイが、思い切り胡散臭げな視線を向ける。ヒューズはそれにもニヤリと笑って、すぐに口元を隠すように手の平を立ててから顔をずいっと近づける。
「お持ち帰り出来んじゃねーの」
「バ――ッ!」

どうやら先程の新しい恋人の話に戻ったようだ。
慌てたように腰を上げたロイの態度でそう判断して、リザは二人に気づかれないようにそっと息を吐いた。
本当は今日くらい、自宅でゆっくり休んで欲しい。だがそれがロイのプライベートであれば、どこまで副官として言及してもいいのか微妙なところだ。
「大佐」
「違うぞ、中尉! 今のはこいつが勝手に――」
「調査が必要な場合は、手筈を整えます」
差し出がましいかとは思ったが、念の為でどうにかそれだけ伝えると、ロイは言い掛けの言葉を飲んで、それからはっきりと眉根を寄せた。
「何の話だ」
「新しい恋人がいらしゃるんでしょう?」
まさか自分に知られては不味い相手だったりしたのだろうか。だとしたら失言にヒューズの立場も悪くなるのではと様子を窺うが、飄々とした彼は楽しそうに首を竦めてみせるだけだ。そんな二人の無言の応酬に、ロイが低い声で向かいの親友を睨めつけた。

「……何の話だ、ヒューズ」
「リザちゃんの話しかしてねえよ?」
「はい?」
急に呼ばれて驚いたリザにちらりと視線をくれたロイは、すぐに殊更低い声音でヒューズを呼んだ。
「いや、だから。お前さんがリザちゃんに気のある男を片っ端から牽制してるっつ――」
「わかった、もういい。それ以上口を開くな」
ヒューズの言葉を途中で遮って、ロイは眉間に寄った皺を解すように親指と人差し指で揉みながら、深々と息を吐いた。それからおもむろに真剣な表情でリザに向き直る。
「必要な人間関係は君の把握しているもので全てだ。特に女性関係で、君の知らないものはない」
「そうですか」
「……」
つまりは信頼していると言いたいのだろうか。
わざわざ言葉にしてくれたロイに、今更、と少し不思議な気もするが、リザは同じように生真面目な表情で頷いてみせた。その態度に、しかし何故だか急に憮然としてしまったロイから睨むように見つめられて、リザは困惑した。原因はわからないが、ロイが微妙に怒っている――ではなく、拗ねている。
女性関係の話になると、たまにこういう態度をされることがあったが、未だに理由はよくわからない。しかもこういう時のロイの眇めた視線は、妙に可愛い気がするから余計に困る。

「……コーヒーをお持ちしますね」
「頼む。――ああ、中尉」
浮かんだ感情を振り払うように立ち上がったリザへ、ロイが思いつたように声を掛けた。「今日」と続けながら、テーブルに広がったエリシアの写真を一枚一枚片付けていく。
「611の資料、頼めるか」
その台詞に、踵を返しかけていたリザは僅かに肩を揺らした。
暗号での会話のルールはそれなりにある。コードネームや設定は、ロイの部下として、仲間同士共有しているものも多い。だがこれは。
「今日、ですか?」
「なるべく早めに」
部屋に来い、という意味を暗に示しての二人のやり取りは、ヒューズが知るはずもないと知りながらも、思わず険が乗ってしまった。なにも今言わなくても良いではないか。何より本当に疲れてるだろうロイに予定がないのなら、ゆっくり疲れを癒して欲しいというのがリザの本音だというのに。

「……お疲れでは?」
「だからこそ、ゆっくりじっくり精査しておきたくてな。またいつこんなに立て込むかわからん。それとも、君、何か予定があったか?」
わざとらしく上官然とした口振りでそう聞いてくる。
「あまり長く持ち出せない場合は、どうされますか」
「そうだな。君の手腕で、明日の朝一まで許可を出させてもらえれると助かる」
互いに事務的な対応で応酬しながら、ロイがわざとらしく考えるように言って顔を上げた。
先程の可愛らしさの欠片もなくしたロイの視線が、奥に熱を秘めてリザを射竦める。
「……了解しました」
「さすがホークアイ中尉。話が早くて助かる」
観念したリザの返答にロイは鷹揚に頷いた。
「……」
「どうかしたか?」
口の端に小狡い笑みを見つけて半眼になってしまったリザは、できるだけ冷淡な口調で一礼する。
「いいえ。失礼いたします」
「忙しいのに、相手してくれてありがとな」
ヒューズからにこやかに手を振られて、それには素直に微笑んだ。
この様子なら大丈夫そうだ。会話の意味に気づかれなくて本当に良かった。
ヒューズの態度に内心でほっと胸を撫で下ろして、ゆっくりと執務室のドアを閉める――。

「秘密のやり取りだろ」
「口を開くな」
――完全に閉まりきる間際、ヒューズの至極真面目な声が耳に届いた気がした。
どうか気のせいでありますように。
リザは思わず閉じたドアの前で立ち尽くし、赤くなりそうな頬を、両手で軽く叩いたのだった。




気づかれていないわけがないww
やっとちょっとすれ違えましたが、二人きりはもうちょっと先です。

1