07.仮眠室 報告や資料を受けながら、合間合間に家族自慢やらリザやらに話が飛んでようやく終わった打ち合せは、嫌味な上層部を相手取るより余程疲れた。 ヒューズの気紛れのおかげで繰り上がった時間で仮眠室に寄ったロイは、改めて深いため息を吐いた。 なんだかんだで、てっきり予定時間一杯は執務室を占拠していくのだと思っていたのだが、話が終わった途端、妻子への土産を調達しに行ってくると颯爽と軍部を後にされて、ひとり残されたロイは、本当に嵐の後のような気分だった。 「まったく、何しに来たんだあいつは」 ロイはシーツを捲らないままの簡易ベッドに、そのままごろりと寝転がった。 が、妙に目が冴えて眠れそうにない。 急な代行でバタバタする気持ちはわからないでもないが、時間通りに――いや、せめて後30分後で来てくれていれば、あのタイミングで会えていたリザと、もう少し二人で会話ができたろうにと考えて、ロイの口から意図しない息が溢れた。 「……せっかく」 今日初めての会話が、言われなき誤解への弁明と暗号めいた言葉だけというのはやるせない。 ヒューズから受け取った資料をとりあえず頭の上で開いて、そのまま顔にバサリと落とす。暗くなった視界のついでに瞼も落とした。リザとのそう長くもないやり取りを反芻して、ロイの眉間に皺が寄った、 妙な誤解は解けたと思うが、彼女のことだから、油断は出来ない。 「新しい恋人って何だ……」 リザにさらりと言われた言葉を思い出して、ロイは苦虫を噛み潰した気分になった。 低く唸った自分の声が、やけに拗ねた色を滲ませていて、眉間の皺が深まってしまう。 ヒューズの手前だったという事実を抜きにしても、特にこれといった感情の見えない口調だったことも面白くなかった。どう見ても部下の立場で調査を進言してくれていたらしい遠慮がちなリザの態度は、勘違いとはいえ、ロイに見えた女の影を気にしているようには思えない。 「いや、笑顔で銃を向けるからな……」 サボりが見つかった時の背筋が凍りそうないい笑顔を思い出して、ロイはぶるりと肩を震わせた。 ポーカーフェイスはお互い様だが、それなら少しは気にしていたかもしれないと心の片隅で考え直す。 どう思っているかをいちいち確かめた事もないが、わからないほど希薄な関係を築いてきたつもりもない。 「つもりなんだがな」 好意を向けられている自覚は無論あるが、たまに銃口も向けられるせいで、方向性に自信がなくなる。 こんなことを考えさせているとは微塵も思っていないだろうリザの態度には困ったものだ。 そういえば、前にも一度、ここでリザの言動に困らされたことがあった。 いつのことだったか記憶を辿っていたロイの眉が、探し当てた思い出に突き当たり、おもいきり中央に寄せられた。 「……」 例え未遂だとして、思い出しても腹の立つ――。 ***** 「……ださいっ」 誰かの抑え気味の叱責が聞こえた気がして、ロイはうっかりベッドに腰を落ち着けたまま、また寝入っていたらしい自分に気づいた。少しの息抜きのつもりで入った誰もいない仮眠室は、睡魔の温床だったらしい。意図しない転寝はサボりではないと自分に言い訳しながら、ロイはまたぼそぼそとやり合う声に耳を欹てた。 てっきりサボりがばれてのお小言がきたのかと思ったが、どうやら会話の相手は違ったらしい。 「冗談は」 「本気だよ。食事くらいいいだろ?」 入り口からベッドまでの間にある衝立の向こうで、押し問答の気配があった。 一人はロイの良く知る人物だと気づいた途端、知らずこめかみの辺りがぴくりと動いた。 部下の恋愛事にいちいち口を出すような野暮をするつもりはないのだが、出るに出られない状況のせいか、リザの口調に若干の険を感じるからなのか、ロイは妙な苛立ちを感じ始めた自分を宥めるように細い息を静かに吐いて、会話の行方に集中した。 もう一度「本気だよ」と柔らかく、けれども有無を言わせぬ男の声がする。 こんな田舎の、しかも軍の仮眠室に似つかわしくない熱の篭ったストレートな誘い文句に、ホークアイ少尉の纏う気配がぐんと固さを増したのが、厚手のカーテン越しにも伝わってくるようだ。 「……でしたら、余計にお断りさせていただきます」 「どうして。付き合ってる奴はいないんだよね?」 「……」 無言はこの場合肯定になる。嘘でもいると言えば良いのに。 そういうところが生真面目すぎるリザの態度に、ロイは内心で息を吐いた。 一見物腰の柔らかそうな喋り方で、その実強引な手口を好むらしい相手の男に、引く気配はまるでない。 「一回くらい試してみるのも悪くないよ?」 「そういう考えは――ちょっ」 まだ薄く開いていた建付けの悪い仮眠室のドアがバタンと閉まる音がして、リザの驚いた声が被る。と、同時に慌てたように押し止めるようなリザの声が聞こえて、ロイの鼓膜をざわりと震わせる。 「これから休憩だよね。俺もなんだ。だから」 揃わない二人分の足音が、まるで抗議のようにもつれている。 この手の男は要注意だと、今まで誰も彼女に教えてやらなかったのか。 それでも慇懃さの残るリザの話し方から、上官か先任くらいかと相手の階級にあたりをつける。本人にその気があるのかはわからないが、階級にものを言わせるような迫り方にも思えて、ロイの勘に触り始める。 「やめてください。それ以上近寄るなら訴えますよ」 「一回くらい――」 限界だ。 気持ちの悪い熱の篭った男の調子に、怖気が立つ。 ロイは衝立の隙間から素早く嵌めた発火布をちり、と指先で擦り合わせた。 「――わっ!」 暗闇に紅い軌跡がはっきりと伸び、リザと男の間に距離を取らせる。 「中佐!」 総務の――いや、会計に先日赴任した事務官だったか。リザより一つばかり上の階級章をつけ、悲鳴をあげた見慣れない下士官とは真逆に、まだ姿を捉えているはずのないリザが、迷いなく自分を呼んだことに感心した。ロイはベッドヘッドに備え付けられた照明を、今更捻りつけてから、悠々と衝立に手を掛けた。 「その考えも悪くないが、試す価値を決めるのは女性側であるべきだ」 「マ、マスタング中佐……!?」 揺れる橙色の心許ない灯りの下で、男はあからさまに狼狽して見えた。 ゆっくりと、だが当然のように歩み寄りリザの腕を引いて、自分の後ろに下がらせる。まるで抵抗なくロイの後ろに下がった彼女を気にかける余裕もないらしい。一瞬絡んだリザの瞳の中に、ホッとした感情が見えて、優越感が込み上げた。 けれどもそれは腹の奥に飲み込んで、青褪めて見える男にひたりと視線を合わせてやる。 「見たところ、私の副官は君にその価値を見いだしていないようだがね」 「そ、それは、その」 「軍部内で、仮眠室というのもいただけないな。ベッドがある場所は避けたまえ。いらん噂の種になる」 しれっとしたロイの忠告に、強引に迫っていたのが嘘のように目を泳がせてはじめた男へ、ロイは一歩詰め寄った。 「中佐、もう」 「無理強いは最も卑劣な行為だと思わんかね?」 「……はっ!」 リザが背中で声を掛けるが聞こえないふりで男の肩に手を置いた。 面白いくらいに男の体が跳ねる。 「軍法会議にかけられたいか?」 「……っ!」 「マスタング中佐」 再度のリザの呼び掛けには、まさか庇うつもりかと舌打ちが出そうになったが、それを笑顔に変えて、ロイは男の耳元に口を寄せた。 「親切心だ。一度しか言わんから良く聞きたまえ」 「ひ」 しんと静まる室内で、男に届くギリギリまで声量を抑えて囁いてやる。 「私の副官に手を出すな」 「は――はいっ! し、失礼いたしました!」 告げた途端、まるで感電でもしたかのように、裏返った声で敬礼をして、男は部屋を飛び出していった。上官の返礼も待たずに、脱兎の如く乱暴に閉めたドアの外で、廊下をバタバタとうるさく掛けていく足音が遠ざかる様は滑稽だ。 「……」 「……」 「……何を言われたんですか?」 もう完全に聞こえなくなったあたりで振り向くと、照明にぼんやりと照らされたリザが、眉を寄せて自分をじっと怪訝な視線を向けていた。思惑通り聞こえていなかったのは万々歳だが、その疑わしげな視線は何なんだ。 あの男が小心者すぎたせいで、大袈裟に脅したように見えたのかもしれない。 ロイは努めて軽い調子で肩を竦めた。 「女性の口説き方についてだな」 「……」 「……無理強いは良くないと諭しただけだ」 しかし真っ正面から潜められた眉間に観念して、ロイは当たらずとも遠からずの答えを嘆息交じりにそう告げた。 笑えるほどの独占欲など、本人を前に言えるものか。 大体、リザが無防備するのがいけないのだ。信頼といえば聞こえは良いが、さっきも、そして今も、そんなに簡単に男と二人きりの状況になるなと言ってやりたい。 男所帯の軍人が言えた義理ではないことなど百も承知でそんな文句が口の先まで出掛かってしまうのは、この状況でベッドを背に、出入り口をロイに塞がせたまま、平気で見つめてくるからだ。 このまま自分の理性と戦い抜ける自身は、ロイにはない。 「……鍵を掛けて使いたまえ」 そんな思考を苦々しく思いながら、自分自身をも牽制するように言ってやる。リザはロイの言葉にきょとんと目を瞬いて、それから言葉の意味を理解したらしい。困ったように眉を下げた。 「中佐」 「うん?」 「……ありがとうございました」 微苦笑を乗せて言ったリザは、おそらく本質的なことは絶対に理解していない。 ロイは気づかれないように小さく息を吐くと、ローチェストに軽く体重を預けて腕を組んだ。 「嘘も方便だぞ」 「はい?」 また同じような目に遭った時、また自分が近くにいるとも限らない。 だからそうならないように、出来る手は彼女にも事前に打ってもらいたい。 「恋人がいるとでも言えば良かったんだ」 良識のある男なら、それでワンクッションくらいにはなる。 少なくとも「いないのだから一度くらい」と迫られる頻度はかなり減る。 だがロイの忠告に、リザは小さく首を振った。 「いませんし、上手く吐き通せるとも思いません」 正直者も、一週回れば頑固者だ。 あまりにもリザらしい生真面目な回答に思わず吹き出すと、むっとしたのが気配で分かる。 任務であれば返送も厭わず、平気で甘い台詞を囁くくせに、本音で困るプライベートにも応用ができそうなものだが違うらしい。 ロイは咳払いで誤魔化すと、リザを見た。 「なら今度食事に行こう」 「は?」 「虫除けくらいにはなるんじゃないのか」 ロイの提案の意図に気づいたリザが、とっさに首を横に振った。 「そこまでご迷惑は」 迷惑だったら言うものか。 それを言うなら、あんな程度の場面を切り抜けられない素直さが、別の意味で迷惑だった。 「一回くらい試してみるのも悪くないだろう?」 どこかで聞いた台詞をそのまま使って言えば、リザは僅かに目を瞠って、それから可笑しそうに肩を揺らした。――そういうところが無防備だと、どうして彼女は気づかない。 「……中佐、ありがとうございま」 だからというわけではないが、言いかけた台詞の途中で、少しだけ身を屈めると、頬に挨拶のようなキスをひとつ落としてやった。突然の行為でぐっと近づいた距離のリザが、ばっと頬を手で覆った。された後では、今更遅い。それでも僅かに身を引くだけで、完全に離れはしない距離のまま、リザはじとりとロイを睨んだ。 「……何をしているんですか貴方は」 「隙だらけだな。無理強いしたくなる気持ちもわからんでもない」 「中佐っ」 言いながらもう一度顔を近づければ、さすがに今度は押し返された。学習できているようで何よりだ。 だが、安易に男に触れるのも禁則事項だとは、まだ理解できていないらしい。 ロイは笑いながらその手を取って、諭すように軽く包んだ。 「だが相手は選べよ」 こういう触れ合いも、本当にリザが嫌だと思うなら、上官だろうと何だろうと、はっきり拒絶して然るべきだ。 「……」 「ホークアイ少尉?」 てっきり「わかってますよ」とでも強気に手を振り払われるとばかり思っていた手を、リザの手できゅっと握り返されて、ロイは覗き込むようにリザを呼んだ。 今更セクハラで訴えられたら笑えない。 返事のないリザをもう一度呼ぼうとしたところで、意外なほど真っ直ぐ見上げてきたライトブラウンの瞳とかち合って、冗談に逸らせなくなってしまった。 「選んでいるつもりです」 この状況でそんな事を言うリザを、都合良く解釈しても良いだろうか。 口が渇く。試すようにリザの指先をそっとなぞると、躊躇いがちに――けれども確かに、リザはそこから逃げ出さなかった。 ダメだ。これ以上は自分が持たない。 「……なら、いい。鍵忘れるなよ」 「はい」 見詰め合ったままでそれだけ言うと、リザはやはり生真面目にしっかりと頷いたのだった。 ***** 「まったく……」 不要な好意を交わしきれない時代から、思えばずっと、気が気じゃないのは自分だけだという気がしてきた。 顔の上から資料を退けて、目の慣れない照明に目を細めながら壁時計を見上げた。 「あと10分」 支度をして、視察に向かう準備にかかるか。 確か、今日の運転手は護衛の持ち回りも兼ねたハボックだ。 同じではない金髪のひよこ頭を思い浮かべて、ロイは深い溜息とともに、もう一度瞼を下ろす。 あの日の真っ直ぐなリザの視線を思い出して上書きする。 こうやって、たまには彼女も自分を思い出したりするのだろうか。 預けている銀時計を取り出す時くらいには、 せめて少しだけでも想えば良い。 秒針の動く音を聞きながら、ロイは自嘲気味に薄く嗤って起き上がった。 中尉が簡単に不意打ちチューをされるのは、マスタングにだけだと信じてます。 |