背中と焔と眠る想いと


背中の痛みは残るものの、大きな感染症で生死の境を彷徨う危険性はもうほとんどない。ない、と言い切れないのは可能性としてあるからで、だがそれを言うなら療養病棟で治療を受けている帰還兵のほぼ全てに同じことが言えてしまう。

「少佐」
「うん?」

消毒液を滲み込ませた真新しいガーゼをひたひたと几帳面に当てていく動きをかんじながらで呼べば、ロイはその動きを止めないままで答えた。正直まだ一人で身の回りの事を全て流暢にやりきることは出来ないが、それでもゆっくりとなら問題は少ない程度まで回復をしてきた自信はある。

「……もう大丈夫ですので、そう頻繁にこちらにいらっしゃらなくても。消毒も必要であれば自分でどうにか」
「真皮形成の状態がみたい」

遮るように言い切られて、リザは枕に押し付けていた頬を軽く持ち上げた。

「でしたら毎日ではなく、定期的な期間を経過後に――」
「迷惑か?」

こらまだ動くな、と言いながら、ロイが火傷の具合を確かめる。状態が見たいというのはあながち嘘ではないだろう。けれど、それだけではないはずだとリザは小さく息を吐いた。
もうさほど緊急を要しない火傷の状態を研究したがる時期は終わった。帰還兵に与えられた特別休暇と療養期間との活用を終えて、外的疾病のないロイは、一足先に軍務に戻っているのだ。人手も内部での統率も不安の見えるこの時期に、ロイが毎日リザの様子を見に寄るというのは、得てして普通の事には見えない。 二人の間にある過去の時間を知らないのなら尚更だ。

「私ではなく、貴方におかしな噂が出ているのをご存知でしょう?」

背中の傷は先の戦で負ったのだということになっている。
軍の施設に移らないのは、それ程の大事ではないので医療班の手を煩わせるまでもないという理由がこじつけられて、そこにイシュヴァールの英雄が絡んでいるとまことしやかな噂があれば、表立って騒がれることはないかもしれない。けれど、見舞いと称して情報を探りにきているらしい同期の口から、それとなく窺えてしまう程度にはリザの耳にまで届いているものがあった。
リザの言葉に浸したガーゼの動きが止まることはない。
かわりに鼻で嗤う声がした。

「ああ。夜な夜な軍部のゴミ集積場で、高笑いしながら指を鳴らしているとかいうやつか」
「……いえ、それは初めて聞きましたが」
「デマだ。忘れろ」
「……」

そんな話があったとは。
さすがに同期からも伝わってこなかったその手の噂話は、他にも色々あるらしい。
余計な事を言ったとばかりに眉を顰めたような声で命令して、ロイが薬瓶の蓋を閉める音がした。少し背中が乾くのを待って、次に皮膚を保護するという粘性の油が薄く塗られる。
手袋を外したロイの指先に触れられても、じくりとした鈍さしか感じない背中に黙っていると、ロイの方から口を開いた。

「帰還兵の部下に、夜な夜な無理をさせてるとかいう方か」
「そうですね」
「このクソ忙しい時に暇な連中もいたものだな。病人を見舞うと見せかけて面白話の吹聴とは」
「繁忙は優秀さに比例するものです。仕方ありません」
「珍しく君に褒められたな。仕方ない頑張るか」

はははと笑ったロイに同調は出来ない。
まただんまりを通したリザの背にゆっくりと塗り込んでいきながら、ロイが真面目な口調になる。

「実際PTSDに悩まされる者も多い。色々な噂話が賑やかになる時期だ。気にするな」

それはそうだろう。大規模な戦闘が終息し、浮足立つのも閉塞感に苛まれるのも一波過ぎた頃合いは、一番人の口がやかましくなる。それだけ日常が誰の中にも戻りつつあるとも言えるし、それまでの弊害が姿を如実に現しているのだとも言える。こういった不平不満は過ぎるのを待つに限るのかもしれない。安定すれば次第に影を顰めるものだからだ。けれど過ぎた噂に足元を掬われるのも、同じこの時期でもある。

「噂とはいえ、貴方の今後にとって良いものではありません」
「実際、見られたら言い訳のきかない格好ではあるしな」

そのとおりだ。
治療の為に上半身は素肌をさらし、前はシーツに預けてるとはいえベッドに横たわっている。傍らに腰を下ろし黙々と治療を施される室内は、薬品と二人の匂いしかない。

「ですから――」
「この状態で、そんな無理をさせられるわけがないのにな」
「……っ」

紋様の途切れた位置をなぞるロイの指が少し逸れて、リザは言い掛けた文句を飲み込んでしまった。それを違う悲鳴と受け取ったらしい。少しだけ慌てたように、ロイが指を跳ねさせた。

「痛むか」
「大丈夫です。問題ありません」

終わりましたか、と伺うリザに「うん」と返事が返される。
薬瓶の置かれていた台の横に用意していた手拭いで、余分な油を拭き取る気配を感じながら、リザも両肘をついて身体を起こそうと力を入れた。まだこの動きは背中の傷に引き攣れた痛みという感情を与える。
ロイの言うとおりだ。この状態で、噂になるような無理は出来ない。少なくともリザからは。
だから問題が大きいのだ。
若く優秀な国家錬金術師が、非人道的な行為に及んでいるだなんて、軍内部だけでなく、巷に流れれば好色な話程広がり尾ひれがつきやすいのだから。
枕脇に除けていたシャツに手を伸ばしかけ背中の傷にほんの僅か息を顰めた隙が見逃されることはなく、ロイがさっと手を伸ばした。伏せた視線が紳士然として、噂を好む輩は彼のこの姿を全員目に焼き付ければいいのにと半ば本気で思ってしまった。

「君は、ちゃんと眠れているか?」

なるたけ傷に障らないようにと優しい動作で羽織らされたシャツに、大人しく袖を通していると、不意にロイがそう言った。それは傷病人への問い掛け半分、自身の呟きのようにも聞こえて、答えながらでリザはそっと振り返る。

「私は大丈夫です。……大丈夫なんです、少佐」

視線の先にいたロイは、リザの答えにホッとしたように目元を緩め、まだ締め切っていないシャツの袷に少し慌てて視線を下げた。それでも良かったとその唇が形だけでそう言ったのに、リザは思わずロイの頬に手を伸ばした。驚きに目を瞬いたロイへ、腕を動かすことで引き攣れた背中の痛みと、ロイの目元に色濃く残る疲労の跡とに、リザははっきりと眉を寄せる。

「痛みも傷痕も、私が望んだことです。だから私は問題ありません。ですが、その事で貴方の負担になっているのなら――」

ロイに背中を託した時、リザはそれを考えなかった自分を恥じた。
思えば初めて彼に背中を預けると決めたあの時も、考えたつもりになっていただけだ。これがどれ程のものなのか、聞いてはいたし、自分なりに理解した。そして最善の道を考えに考えて出したつもりだった。
だが、つもりだったようだ。結果はこれだ。
焔の行使が彼の背負う罪として、だとすればそれを託し、諸悪の根源を焼いて潰せと断れない彼に頼んだ自分は、何をどうすれば彼の心から痛む部分を和らげることができるだろうか。
同じ背中を潰すだけなら、暖炉の中に後ろから飛び込めば良かった。
なまじ錬金術に明るい彼の傷つきやすい優しさを、自分は知っていたはずなのに。

すみません、と言い掛けたリザを、ロイの強い視線が遮った。
頬に添えていた手を外されて、かわりに強く握られる。

「焼くこともここへ来ることも、私の意志だ」
「少佐」
「君に、触れることも」

ロイの手が、今度はリザの頬を捉えた。
逸らせない強い光を宿した目に真っ直ぐ見つめられて、リザは次の言葉を待った。

「……正直な話」

親指の腹が何度かリザの頬を撫でて、それから気づいたようにその手が離される。
まだだらしないままだったシャツを、優しい父親のような動きでゆっくり合わせていきながら、ロイは淡々と言葉を繋ぐ。

「ひどく後悔すると思っていた」

そこに苦渋も困惑もない、平坦な口調でロイは続ける。

「君を裏切って傷つけて、挙げ句一生残る痕を負わせて」
「痕でいうなら、最初に陣を刻んだのは父です」
「先を越された」
「少佐」

負わせたのは自分だという思いから咄嗟に遮ったリザへ、ククッと肩を揺すったロイが可笑しそうにこちらを見る。唇を引き結んだリザに「悪い」とだけ小さく言って、ロイは掛け終えたシャツの釦から手を離した。

「私はな、准尉」

視線を落としたままで言うロイは、どこか自嘲しているようだった。

「君の背中に火傷が安定していく様を見ていると、ひどく安心する」
「……少佐?」

そんな告白は初めて聞いた。
何を比喩しているのかいまいち判然としないその台詞に聞き返すと、ロイの視線がゆっくりと上にあげられる。錬金術の話だろうか。火傷の浸潤具合とか、皮膚形成の細胞関係の話とか、例えばそういう研究の話か。聞き逃すまいと真面目な顔で見つめるリザへ、しかしロイは困ったように苦笑した。

「これからどこでどんな男とどうなろうが、私の焔が君の一部になっている」
「……っ」

思いもしなかった方向から言われた言葉に、リザは息を飲んでしまった。ロイの手が再びリザの頬に滑る。今度ははっきりと意思を持って触れられているのだとわかる動きに、背中の熱が頬にきたのではないかと錯覚しそうになる。いや、今も背中はジンジンと熱を訴えているし、シャツに擦れてヒリリと痛む。先程塗り込んでくれた油のおかげで、摩擦が少ないのは本当に心底有難い。

「君は私を忘れられない」
「あたり、まえ……っです」

余計な事を考えないように背中の痛みを反芻しようとした矢先に、消毒液の匂いの移ったロイの指がリザの唇をそっと掠めて、一気に現実に引き戻された。
やはり苦笑を宿したまま、そこに少しだけ今まで真正面から見せることのなかった色を滲ませたロイの目が、何かを誤魔化し――それから何かに懇願するように、リザの前で伏せられる。

「そう思うと、飛び起きた夜に、もう一度目を瞑ることが出来る」
「――――」
「恨んでくれていい」

頬を包む両手が僅かに震えていた。
恨んでいいと言いながら、拒絶を怖れるその弱さが、ロイをただの男にして見えて、リザはいいえと口中で答える。その想いを、その弱さを、リザはよく知っていた。
あの戦地での地獄のような怒号、悲鳴、優位にありながら、敵と味方、正義と悪が混ざり合いわからなくなる不安感。助けてくれと懇願する声、涙、憎しみ、それを無に帰す自分への嫌悪――。
寝ても覚めても瞼の裏から消えない幻聴が、陽の落ちるにつれ更に深淵を増していく。そうして何度汗にまみれて飛び起きたか知れない。
精神を止んだ仲間の話も多く聞いた。自分もいつかそうなるだろうかと怯えた事がないわけがない。けれど背中が――背中の熱が、彼の指から放たれた焔の揺らめきが、その度同時にリザの瞼にちりりと踊って、呼吸を逃がすことが出来るのだ。
勝手だろう、と言いながら自嘲するロイも、同じものを抱えていたのか。
こんなもので、彼が安らぎを覚えるのなら、そんなもの何度でも、どこにでも。

「……私は」
「准尉?」

手に手を重ねたリザを、ロイがゆっくりと呼んで見つめる。

「痛みも、皮膚に馴染んでいく感覚も――貴方の焔が残したものだと思えば、夜、目を瞑って朝を迎えることができるんです」
「……」
「同じです」
「――」

この手に焔を託した自分の罪を背負わせてしまったことも、焼かせたことで背負わせた意識も、なくなればいいと思いつつ、そこに救いを見出していた。この背の痛みが、痕がここに残るなら、こんな賤しい想いでも彼と繋がっている証拠になる、と。
あの頃純粋に思い浮かべていた無垢な感情は随分擦れてしまったようだが、それでも消えはしないのだ。
恨んでくれていいというのは、むしろ自分の方だというのに。

「貴方にされて無理なことなんて、私には何もありません」

どこまでも優しいロイの震えが止められるなら、自分は何でもするだろう。
その思いを誓うように、ロイの掌にそっと唇を寄せる。
黙ってしまったロイに気づいて名前を呼ぶと、ぽかんと口を開けていたらしいロイが、ハッとその手を抜き取った。乱暴な手つきでシーツを捲くり、再び寝るように促される。不快にさせてしまっただろうか。
またぞろ背中の痛みに意識をとられ始めながら、蓑虫のように俯せたままで潜り込む。傷に当たらないようにと柔らかく掛けてくれたシーツを肩口に入れ込んだロイが、ふうと深い溜息を吐いた。

「……少佐?」
「もっと馴染む頃に無理強いされたくなかったら、君は軍を辞めるべきだ」
「辞めません」
「はっ、無理強いされても良いと?」

強気な物言いは、わざと人を逆撫でするように選んでいるのだとわかる。
これだから敵を作るのだと言いたい気持ちを視線に込めてベッドの中から睨み上げると、すぐに困ったように眉を下げて、ロイは肩を竦めてみせた。

「嘘だよ。本気にす――」
「貴方の不利にならない程度でしたら。痛みには強い方だとわかりましたし」

無理なことは何もないと言った言葉を本気にされていなかったらしいことにも少しムッとしながら言い切ると、ロイは一瞬大きく目を瞬いて、それから何故か視線を逸らした。右へ左と泳がせる動きを追うリザの気配を感じたのか、ロイは俯けた額に右手を当てる。そのまま微動だにしないロイへ、リザは訝しく思いながら顔を覗こうと起き上がり掛け、慌てたようにシーツを抑えてきたロイの手に動きを封じられてしまった。

「……」
「……」
「マスタング少佐?」
「……出来れば、合意の上を希望しても良いか」
「はい?」

しばしの無言の後、眉間に深く皺を寄せたロイに言われて、リザはきょとんと瞬いた。
何のことかと考えて、無理強いの話だと思い至る。

「優しくするから」
「それは別に――」
「優しくさせてくれ」

頼むから、と言ったロイがリザの前髪をやわりと梳いた。
たったそれだけのことで、何故だか今度はこちらの方がロイを見ることが出来なくなって、リザは枕に顔を埋める。
行き場を失ったロイの手が、宥めるように今度は後頭部を優しく撫でてくるのを、もう逃げることが出来ない。
傷を負うことで、負わせることで、心に残ればいいという話ではなかったのか。
だからリザは、ロイが安堵感を得られるのなら、どんな無茶にも答えられる自信があると、そう伝えたつもりだった。が、合意の上で優しくする、というのはつまり――

駄目だ。彼の不利になる。ただでさえ噂になってしまった部下と、まさか、そんな。
陣と背中と今までの複雑な事情が、きっと今だけ感傷的にさせているのだ。

「……」
「……リザ?」

理性でそう判じてるのに、頭を撫でる手の動きと、名前を呼んだ彼の気持ちに触れてしまったら流されそうで、リザは更に深く顔をつけようと両手で枕を抱え込んだ。少し無理矢理動かしたせいで、背中が引き攣り痛みが走る。が、今はむしろその痛みがありがたい。
そうでもしないと、背中を這った彼の焔に、じわりじわりと内部まで到達されそうな気がする。

「……これ以上優しくされると、困ります」

明日も彼は来るだろうか。来るだろうな。今の明日で、背中を見せるのはしばらく無理な心持ちなのだが、おそらくその部分は頓着しなさそうで、とても困る。

「そんな事を言われても私が困る」

心底困った口調でそう言われて、リザはこれ以上ないくらい枕に頭をめり込ませたのだった。




2014/06/11
ロイアイにこれからなっていく二人の始まりのようなそんな感じで。


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