それはかたちになる前の




バスタブになみなみと張られ、肩までといわず口元まで浸った湯に、鼻から空気を吸い込んで口から吐き出す。
ぶくぶくと気泡が表面で幾重にも弾けて、ロイは目にかかった水滴を頭を振ることで回避した。
だがそうする為に瞑った瞼が、つい先程目にした少女の濡れた姿を思い出してしまい、更にぶるぶると頭を振って振り払おうと努力する。

不可抗力だ――あれは、だって、どうしようもない――

「マスタングさん、何か足りないものありませんか?」
「な――ない!」

せっかくもう一息で消去できそうだったのに、何の衒いもなく本人に登場されてしまっては、またはっきりと濡れた体が思い出されてしまったではないか。
今までの努力が水の泡だ。

「そうですか。あ、ちゃんと暖まってくださいね」
「……ああ、うん」

今日、雨に降られたのは偶然だった。
ラジオから夜遅くから降り出すだろうという天気予報を聞いていたものの、資料を返しに行ってすぐに戻るつもりだった。それほど遅くなることはないだろうからと傘は持たずに、鞄とジャケットだけのラフな出で立ちで、通い慣れた師匠の家へと続く道を歩いていた。

「出たら温かいスープもありますから。まだ雨も激しいですし、夕食も食べていきますよね」
「……うん」
「泊まっていくようにと父が」

ぽつりぽつりと頬に当たった雨粒が激しくなるのに、そう時間はかからなかった。あっと言う間にバケツをひっくり返したような大雨は雷鳴を轟かせ、辺りを真っ黒に染め上げていった。鞄を頭の上に掲げ走り出してすぐ、前方にあるバス停の軒に小柄な人影を見つけた。それがリザだった。軒の下から困ったように空を見上げる彼女は、小脇に買い物袋を抱えていた。トマトが数個覗いている。買い物に出た帰りなのだろう。名前を呼んでも豪雨のせいで聞こえないのか、こちらを見ない彼女は、何を思ったのか、家へと向かう道をキッと見据えたかと思うと、おもむろに走り始めてしまった。
もう少しそこにいるという選択肢はないのか。わかってはいたが、随分豪快な女の子だ。
慌ててスピードを速めたロイは、追いついたリザの肩を掴んで、素早く自分のジャケットを頭からすっぽり被らせた。濡れてもかまわないだろう紙袋は自分が奪って、仕草だけで急ごうと示す。ジャケットの上からリザの肩に手を回すと、思った以上の小ささに少し驚いて、それよりも響いた雷鳴に二人で大急ぎで帰路を走った。

「着替え、ここに置いておきますね。父のなので少し大きいと思いますけど、服が乾くまでですから」
「……うん」

戻ってみれば、濡れ鼠のロイとは違い、短い金髪から水滴をこぼしてはいるものの、リザはそれほど濡れてはいないようだった。それにホッと息を吐いて、ロイはリザが用意してくれたタオルで自分の頭を乱暴に拭った。
お風呂を入れてきます、と言って駆け出しそうなリザの腕を掴んで、先に君も髪を、と乾いたタオルで水分をぐしゃりと拭ってやる。すみません、とはにかんだ表情がタオルの下から出てきた時、いつもと違って見えたのは、おそらく頬に張り付いて普段より濃く見える髪色と走ったせいで上気した頬、それに寒かったせいだろう潤んだ色素の薄い瞳がロイを見上げたからに違いない。
いったん意識が向かってしまうと、彼女の肩にかかった雨がシャツを濡らし、うっすらとその肌に張り付いている様も、マスタングさんと自分の名前を呼ぶ声も、リザを単なる師匠の娘というカテゴリーから一人の女性として見ている自分を自覚してしまった。慌てて顔を逸らしたロイに、リザは不思議そうに首を傾げる。それからお礼とばかりに肩に掛けたままになっていたタオルでいったんロイの髪を同じようにくしゃりと拭いて、それからお湯を入れてきますねと微笑を残すと、バスルームに走っていったのだった。

「――マスタングさん、もしかして寝てます?」
「寝てない!から、開けなくていい!」

思い出というには近すぎる記憶に意識を向けていたロイは、ガタリと開けられそうになった浴室のドアに慌てて声を上げた。
裸の男がいる場所に、そんなに簡単に入ってこようとするものじゃない。
こんなところ万一師匠に見られた――いや、師匠は食事時以外で滅多にこんなところまでやってくる人でないことくらいわかっているがそれでも――いや、そうではなくて――。

「そうですか? あ、背中流しましょうか?」
「いいから!」

だから、そんな簡単に男に触れようとしてもいけない。
思わずドア越しに叫んだロイに、リザはまた「そうですか」と言って手を引っ込めた。心なしシュンとして聞こえたのは、どういう意味なのかと聞きたいような聞きたくないような。やや一般とずれた感のある彼女のことだ。きっと思いも寄らない傷つけ方をしてくれそうで、ロイはそれ以上を言わなかった。
何とはなしに落ちた沈黙に、もう一度口元まで湯に浸かる。ぶくぶくと気泡を出して水中生物のエラ呼吸について考えながら気を落ち着かせ、それからはたと思い至った。

「ごめん、すぐに出るから君も――」

そういえば、早く着替えてくださいとほとんど無理矢理この浴室に追い立てられたことを思い出したのだ。
リザも、ロイほどではないにしろ雨の中を濡れて一緒に走っていた。

「私は大丈夫です。もう乾きましたし、着替えも。マスタングさんは気にせずゆっくり温まってくださいね」
「でも」

けれどもまた「大丈夫ですよ」と言う彼女の声が柔らかく聞こえて、ロイは慌てて出し掛けていた半身をバスタブに沈め直した。ぶくぶくぶく。ついでにまた口元まで湯に浸らせる。

「貴方がジャケットを羽織らせてくれたおかげです。ちゃんと乾かしておきますから安心してよく温まってくださいね」
「ありがとう……」

自分より年下の女の子のはずなのに、気遣いが自分の上をいく。ロイは気恥ずかしさに沈みたくなる口を出して、どうにか感謝の言葉を乗せた。
やっと大人しく入浴する気になったとでも思ったのだろう。満足げに頷くリザの影が見える。
長年あの師匠と二人きりだというだけでもある種の尊敬を抱くというのに、家事全般をそつなくこなし、その上時折見せる気の許した表情や甘えが可愛いのだ。困った。これはもしかしなくても非常に困った感情じゃないのか。

「あ」

一人ぶくぶくと傍の彼女に聞こえないよう気泡を弾かせていると、リザが思いついたように声を出した。それからすぐに沈黙して、後が続く様子がない。

「……リザ?」
「あ、えっと、いえ」

ロイの呼び掛けに何かを言い掛けて、ごにょごにょと歯切れの悪い調子になった彼女は珍しい。
出来るだけ優しい兄貴分を心掛けて、ロイは殊更優しい口調でリザを呼んだ。話を聞く姿勢がバスタブの縁にロイの腕を掛けさせた。そこに顎を乗せて続きを促す。

「何? どうかしたのか?」
「……気を悪くしないでくださいね」
「うん?」

自分に関することなのか。
内心で軽く驚きつつも首肯すると、安心したのかリザは「ええと」と前置きをして、それから浴室のドアをカラ、と僅かに開けた。

だから、どうして、いきなり開ける――!

思わず浴室に煙ぶる蒸気の中で固まってしまったロイを、顔を半分だけ覗かせたリザがじっと見つめてきた。なんだ。何が起こっているんだ。浴室の熱気と暖められた血流が動悸を激しくさせていく。そんなロイの気持ちなどつゆ知らず、リザはほうと小さく息を吐くと難しそうな表情を作って鷹揚に頷いてみせたのだった。

「――やっぱり。マスタングさんて意外と筋肉あるんですね。私、男の人って父しか知らなかったので、さっき、少しだけドキドキしました」

それは、何の告白なんだ。
別段何の照れもなく告げられた言葉は、聞きようによっては――いや、普通の感覚であれば――若い恋の始まりだろう。けれどもリザの視線ははっきりと人体模型に向けられるそれだった。

「うん……うん? へ、へえ……あ、そう」
「はい」

観察に満足したのか、最後にようやくロイの目を見たリザは、何故だか得意げに胸を張って良い声での肯定をくれた。もう本当に彼女の感覚がわからない。

「じゃあ私先に戻りますね」

にこりと笑ってそう言って、リザがようやく浴室のドアを閉めてくれた。
パタパタと静かに遠退いていく足音と反比例して、ロイの鼓動が大きくなる。

(……ああもう)

これからまた夕食で顔を合わせる予定のリザの言葉がぐるぐると回る。


――ドキドキしました。


(ドキドキしました……?)

俺は、今まさにドキドキしている。
いつもの定位置、自分の正面に座るであろう師匠の顔が脳裏をよぎって、すぐさま肩を抱いた華奢な少女に取って代わる。濡れた金髪からこぼれる水滴を想像したところで、タイミング良く天井にたまった水滴がタイルに跳ねた。同時にバスタブから腕ごと滑り落ちるように、ロイは頭ごと湯の中にぼちゃんと身体を埋めた。
気泡が次から次へと上がってくる音がする。それでも心音が紛れてくれることはないようだった。
この気持ちは何なんだ。
どうにか落ち着けとほとんど祈るような気持ちで思いながら、ロイはブクブクと口から気泡を吐き出し続けた。




ツイッターでやった 【文字書きの為の言葉パレット3】でリクを頂いた19番「バスタブ」「愛に(は)遠い」「気泡」で錬成したお話でした。
バスタブと愛と気泡という三大えろ要素を駆使するお題を頂いてなお、ピュアな恋愛未満で攻めてみた子ロイアイもえる。

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