モブリットは知ってしまった。




散々ぱら、徹夜でこれからの実験方法やら方針やら諸々を打ち合わせ、ようやく寝られると思ってドアを開けたらもう朝だった。
「うおー!まぶしー!溶けそー!」と拳を高々と突き上げて叫んだ上司は、言葉通り足の先くらい溶ければいいのに、その兆候はまるでない。目の下に蔓延るクマがそのうち巨大化しても知りませんよと嘯いた途端、「マジで!?」とキラキラした目を向けられたのはいつだったか。
既に朝食時間の過ぎた食堂で辛うじて残っていたパンだけを貰い、濃い目のコーヒーで流し込んでいると、パタパタと軍靴に似つかわしくない軽快な足音が飛び込んできた。
こんな時間に俺達以外で食堂に誰か来るとは思わず、二人で一瞬目を見合わせて入り口を見遣る。

「あれ? ペトラじゃない。今日非番?」

現れたのはペトラ・ラルだった。
いつもの見慣れた兵団服ではなく、本部では珍しく見える私服姿で、一瞬誰だかわからなかった。

「お疲れ様です! はい、なので買い出しに行こうと思いまして。あ、ハンジさん達も何か必要なものとかありませんか?」

バッと敬礼しかけた彼女は、ハンジさんに手招きされて、笑顔でこちらに駆け寄ってくる。
くるくると表情の変わる明るい子だ。
俺にまで水を向けてくれる優しさが、陽の高くなりつつある太陽と相俟って、目に染みそうになる。
うちの紅一点とは種類が違う――いや、正確には紅二点だが、目の前の上司は種族が違うので諦めている。

「ううん、私達はないよ。ありがとう」
「そうですか」

まるで小さい子にするように、イイ子イイ子をするハンジさんは、巨人を前にした時とは違う意味で振り切れているいい笑顔だ。
若い子に特有の無邪気な親しみと、部下としての規律の絶妙なバランスで向けられる彼女の笑顔を、ハンジさんが気に入っているのは間違いない。何かにつけ「ペトラ暇ー?」とお茶の催促をする姿に、ケイジが「……あれ、どういう方向の欲望だと思う?」と真剣な表情で聞いてきたのを思い出す。
どういう方向だろうと欲望の時点で完全にアウトだ。
ハンジさんが彼女に粉をかける度「ペトラはお前のもんじゃねえ」と前に出るリヴァイ兵長との遣り取りは、正直俺の胃袋が兵長の巨人駆逐乱舞より凄まじい勢いで荒れる状態になっているのだが、そんなことを気にかけてくれる人達じゃないのはわかっている。

「モブリットさん?」

本当はそろそろ胃薬の追加補充が欲しいところではあったけれど、まさかペトラに頼むわけにもいかないな、という俺の内心の葛藤を察してくれたのか、ペトラが目顔で問いかけた。その澄んだ瞳に一瞬心がグラリと揺れる。
睡眠薬なら……ちょっとくらいなら、夜のお茶に混ぜて飲ませるくらいならどうにか……いやいや、ペトラに片棒を担がせるわけにはいかない。頭の中に浮上した上司睡眠昏倒事件を脳の片隅に追いやって、ハンジさんに倣った笑顔で俺も首を横に振った。

「せっかくの休みだからね。楽しんできて」
「はい。ありがとうございます」
「――で、買い出しだけ?」
「え?」

パンを食べ終わったらしいハンジさんが、食堂の長机に片肘を付いて、唐突な質問を投げかけた。
ペトラがきょとんとした顔を向ける。

「ついでにデートでもするの?」
「何でですかっ。しませんよ、デートなんて!」

突拍子もない質問に、ペトラがシュッと頬を染めて反論する。こういう反応がいかにも若い。
その様子に相好を崩すかと思いきや、意外と真剣な顔で首を傾げたハンジさんが俺を見た。

「そうなの? 可愛い格好してるからそうなのかと思ったのに。ねえ、モブリット」

言われてみれば、確かに。
改めて彼女の格好を見てみると、ハンジさんの言わんとしていることがわかった。
白いシフォンブラウスはシンプルだが胸元で切り替えがあり、よく見れば肩部分がレース地になっているようだし、膝丈の緩くフレアの入った水色のスカートは楚々とした中に瑞々しい動きがあって、晴れやかなペトラの雰囲気にとても良く似合っている。
肩に羽織った薄手のカーディガンも市井の愛らしい女の子を思わせた。
非番とはいえ買い出し程度なら制服のままで行く人間の方が断然多い兵団の中で、おやと思わせるものがある。
単なる揶揄かと思ったら、きちんと推測に値する要因があったらしい。

「本当だ。可愛いね」
「もうっ、モブリットさんまで!」
「モブリットさん、どこ見てるんですか! 足ですか! 胸ですか! 変態ですね!」
「ちょっとオォッ!?」

推測に同意したら、酷い言葉が返ってきた。
ペトラを俺の視界から奪うように抱きしめて、牛乳を拭いた後の雑巾でも見るような目で睨まれる。
どさくさに紛れて彼女を抱きしめたかっただけだろうアンタ。
隠すという名目でさわさわと異性でやったら確実に訴えられる動きをさせている上司を前に、変態はどっちだと叫びたかったが、どう考えても口で叶う相手ではない。
自他共に認める変態属性から変態の烙印を押されることほど切ないこともないと思うが、諦めるしかないのが辛い。
思わず涙を飲み込んだ溜息を吐くと、頬ずりをやんわりと拒絶して腕から這い出したペトラがおずおずと上目遣いで俺を見た。

「も、ものすごく疲れてますね……」

大丈夫ですか、という労わりの言葉に、アカンそれ涙出るやつや、と目元を覆おうとして、

「ホントだ。ごめん、気づかなくて。……モブリット。今日の生体実験休んでていいよ?」

ハンジさんの手がそっと俺の右手に触れた。
驚くほどの至近距離で、心配そうに眉根を寄せて窺うような視線で見つめられる。
おそらく俺にも出来ているだろう目元のクマを長い指がそっとなぞる。

「大丈夫。昨日散々話し合ったとおり、絶対無茶なことはしないから」
「――まるで信じられない」

その手を取って言い切ると、ハンジさんはぷうと頬を膨らませた。
やっぱりだ。この態度は9割アウトだ。
何の憂慮も躊躇もなく実験に邁進する時の彼女は、こんな風に人の目を見たりしない。
顔すら認識しない勢いでそのまま突き進んでいくのが常だから、逆にじっと見るのは何かやましいことがある時だ。

「ヒドイなあ。せいぜい水圧実験のプランGまでしかやるつもりな――」
「Cですよ? 今日は絶対Cまでですからね? そもそも明け方の段階でEまでしか案出てなかったですよね? Gなんて初めて聞きましたよ?」

案の定ついさっきまでの話し合いを無に帰すプランをぺろりと口にした彼女を途中で遮る。
Eの段階ですら、巨人と一緒に潜りたいとか頭沸いてんのかとしか言いようのない提案をしていたくせに、すっ飛ばしてのGってなんだ。水圧負荷や温度調整といった常識の範囲なんて括りがない天才は、人類の宝であると同時に半歩間違えれば人類の敵だ。
矢継ぎ早の質問に、ハンジさんは真顔で目を瞬かせた。

「そうだっけ? CとGって似てるから、モブリットが聞き間違えたんじゃない?」
「そんなわけあるかー!!」

綴りを習い始めた幼児じゃあるまいし。
思わず叫んだ俺に、へらりと笑ってハンジさんがヨシヨシと頭を撫でてくる。
もう泣きたい。

「……た、大変ですね」

実験はハンジ班の担当だから、詳細はわからないペトラが、それでもこの遣り取りだけで俺の色々を汲み取ってくれたようだ。
滅多に向けられることのない同情にさめざめと泣きそうになったその時、食堂の入り口から声がかかった。

「何の騒ぎだ」
「兵長!」

姿を確認するまでもない。
一瞬で花が飛んだと思うくらいにトーンの上がった声音のペトラがいればすぐにわかる。
彼女とは別の意識で立ち上がり、右手を胸に置いた俺を片手で制したリヴァイ兵長が、こちらにやってきた。
確か今日は午後から団長とシーナの本部で会われる予定と聞いていた。出掛けだろうか。

「やあリヴァイ。ペトラがお洒落して街に行くっていうからデートだろって話してたんだよね」

幹部同士の気安さで片手を上げたハンジさんの言葉を受けて、兵長がちろりとペトラを眺め見た。
目付きの悪さも無表情もいつもどおりで、いつもと違う彼女の格好にどう思ったのかはわからない。

「そうなのか」

けれどそう返したということは、まあ悪くないと思ったんだろうなということはわかる。
言われた当の本人はといえば、じっと見つめる三白眼にぐっと喉を詰まらせた。

「――ち、違いますよ!? ……わかってるくせに」
「へーぇ? リヴァイはわかってるんだ?」
「ちちち違います! そういう意味ではなくてですね……っ」

即座に言葉尻を捉えたハンジさんに、瞬時に茹で上がってしまったペトラがあわあわと両手を顔の前で振る。
普通に聞けば、狭い兵団の中の話だ。デートする相手がいないとか、実は最近恋人と別れたとか、そういう近しい班員だからこその認識を共有していると考えるはずなのに、そこをいちいち揶揄するはハンジさんのお楽しみだ。
それに対して、こうも素直な反応をしてくれるのだから、悪い大人としては可愛くて仕方がないという気持ちもわからないでもない。
よく気のついて腕も立つ彼女は、壁外でも壁内でも重宝できる部下だろうから、兵長がペトラを呼ぶ姿も日常茶飯事になっている。
だが拡散するほどではないにしろ、漏れ聞こえてくる噂の二人を前にして堂々と指摘できるのは、ハンジさんだからこそだ。

「……本部に行くついでに、乗せてくだけだ」
「そうです!」

そのうち頭から湯気でも出てきそうなペトラの様子に小さな息を吐いて、リヴァイ兵長が不機嫌な声でそう言った。
適当に誤魔化せばいい揶揄にペトラが慌てて、兵長が事実を告げてお開きになる。これもいつもの光景だ。
乗せていくだけという言葉に力強く頷いて、ペトラはほっとしたように彼を見た。
そんな彼女を見遣る兵長の視線は睨んでいるとも取れる目付きで、しかし彼女は嬉しそうにはにかんだ笑みなのが対照的だ。

人類最強の称号を持つリヴァイ兵長を敬慕している兵士は数いるが、ペトラはきっとその最たる者だろう。
彼の直属の班員に指名されるようになってからは、彼のいる所には必ずといっていいほど彼女がいる、と教えてくれたのはハンジさんだった。いつだったか廊下の窓から見えた二人の姿に「丸見えで可愛い」と目を細めていたのを覚えている。
ひとたび壁外へ出れば一瞬先も見えない調査兵団の中で、確かにあれだけ明け透けで純粋な好意を向け続けるのは珍しい。
そうですね、と同意しかけて「……マジいいなあリヴァイ」と呟いた上司が、据わった目で爪を噛んでいたのは見なかったことにした。

「そっか。良かったね、ペトラ」
「えっ、あ、はいっ」

非番の部下を街まで送り届けてやる上司、というのもなかなかどうして絆されている気もしたが、ペトラの赤い顔に免じて突っ込まないことにする。
だが、乗せるという兵長の言葉にどうしても引っかかることがあった。
それはハンジさんも同じだったようで、少し考えるように組んだ右手を顎に当て、ペトラの姿をまじまじと見ている。
そう。今日の彼女は膝丈フレアのスカートなのだ。

「馬車、じゃないよね? 馬に? まさかその格好で?」
「ご心配なく! ちゃんと下にサポーターはいてます」
「!」

言うなりいきなりバッとスカートをたくし上げられて、俺は思わずあんぐりと口をあけてしまった。
向かいでハンジさんは何故か嬉々とした瞳で食い入るように見つめている。

「わーい!やったぜ!」
「……おまっ……恥じらいを持て」

兵長だけが、ものすごい勢いでその手からスカートの裾を奪う。
元通りの丈に戻されたスカートがふわりと揺れるのすら一度手で押さえて納めると、ギッと鋭い視線を向けられた。
お父さん――、いや、年頃の女の子をもつ上官は大変だ。
思い切り顔を背けた俺の耳に、しゅんとしたペトラの声が聞こえてきた。

「え、すみません……。あの、着替えようかとも思ったんですけど、せっかくだったのでつい……」
「……そういう問題じゃねえ」
「はい?」

格好そのものを咎められたと思ったのか、俯いたペトラの様子に、兵長が深々とため息を吐く。
彼女くらいの年頃なら、もっと恥じらいのない格好などザラだろうに、そこじゃないとは思わないのがいかにもペトラだ。
ぶはっと吹き出したハンジさんをじろりと睨んでから、兵長が腕を組んで横目でペトラを視界に入れた。

「……別に格好は悪かねえよ」
「え……?」
「ちっ。馬に二ケツじゃねえから安心しろっつってんだ」
「あ、そうなんですか?」
「内地に行く馬車の用意があったからな。便乗することにした。帰りもそれに拾わせる」
「わー! 負傷した時の搬送用荷台以外、私、乗るの初めてです!」
「……」

そこか。馬車と聞いて、喜ぶところはそこなのか。
比較対象が負傷兵の搬出――しかも壁外調査での重症時――という喜び方は、年頃の女の子としていかがだろう。
非番に女の子らしい服装を選んだのは兵長と出発を合わせることになったからだろうし、それに合わせて馬車を選択したのはリヴァイ兵長の厚意で間違いないと思う。だからこそその喜び方は――いや、こういう仕事が日常だから仕方がないが、それでもおそらく彼女に合わせて手筈を整えたはずの兵長の気持ちを察すると、微妙なところだ。
無表情の中に何とも言えない苦汁を感じさせる兵長を尻目に、とうとう堪え切れなかったハンジさんが爆笑しながら机をバンバンと叩いて転げまわっている。

「苦労するねえ、リヴァイ兵士長!」
「うるせえよ」

ちっと舌打ちする兵長は不機嫌全開だ。
一人状況を掴めていないペトラがおろおろと二人を見回している。
そんな彼女の様子に涙を拭いながら、ハンジさんが優しい口調で矛先を向けた。

「ねえ、ところで班の他の子達は?」
「あ、はい、他班の訓練補助の出向と宿直明けです! オルオは昨日ポーカーに一人負けしたので、兵長命令で朝から旧本部の草むしりに行ってますね」

パッと表情を輝かせたペトラの説明に驚いたのは俺だ。

「え、あそこを一人で!? 結構広いよ!?」
「オルオですから……。兵長にお任せされたのは信頼の証だとか自慢げでしたよ」
「へー……」

壁からかなり離れた森の中に佇む旧調査兵団本部は、敷地だけならかなりの広さだ。
オルオといえば、ペトラに負けずリヴァイ兵長の妄信的な信者だという認識はあったが、まさかそこまでの心酔ぶりだとは思わなかった。そういえば、最近兵長を真似たのかスカーフを巻いていることが多いなとは思っていた。
それでもあそこの草むしり――……ハンジ班に置き換えても、どう考えても罰ゲームにしかなり得ない範囲だ。
引き笑いになってしまった俺の向かいで、ハンジさんが何故かぶすくれたように体をぐでんと机の上に放り投げた。

「リヴァイ班になる子って、リヴァイの命令絶対だよね。いーなー」

それは彼が人類最強の実力者で、尋常じゃなく厳しくても実は熱くて部下思いというハイスペック厨二びょ――もとい、テンプレ的ツンデレ要素――もとい、前線の兵士の心酔を掴む要素がふんだんに詰まっているからで、間違っても人間奇行種という二つ名を持っていないからです、とは口が裂けても言えない。
そんな内心を秘めながら、机の端を掴んでガタガタと揺すり始めたハンジさんをどうにか引き剥がそうとしている俺を、リヴァイ兵長は何故かじっと見て、それから面倒臭そうにため息を吐いた。

「お前のとこも同じようなもんじゃねえか」
「全然違うよ!」
「アゴグァッ!」

その言葉にハンジさんがガバッと身を乗り出し――たせいで、顎を下から思い切り頭突きされた。
涙目でしゃがみ込む俺を見向きもしないまま、指を思い切り突きつけられる。

「モブリットを筆頭に、みんな私のことメチャクチャ止めるじゃん! 全っ然自由にさせてくれない」
「あご……じゃない、当たり前でしょうが! 完徹五日のテンションでチカチローニに届く範囲から縄緩めろとか、頭食われたいんですか!」

つい先日の話だ。つい先日完徹五日で、一拍置いて今日も徹夜だ。
いっそ頭を食われてしまえと売り言葉でも言えないのは、本当に喜んでそうしてしまいそうだからで、顎の痛みを抑えて詰め寄った俺に、ハンジさんは聞き分けのない子供に聞かせるようにやれやれと首を振った。

「だーかーらー、あれは反射実験の……」
「反射実験の主旨は理解してますが、あんた自身が嬉々として対象になろうとする理由がわからないっ」
「だってあの日の立会い面子だと、私が一番反射速度速かったじゃない。可能性として、一番リスクの低い人選だったと思うよ。無駄な犠牲は出したくない」
「ああ言えばこう言う……!」

思わずダンッと机に拳を打ち付けるしかない。
そこだけ聞いたら非の打ち所のない意見だが、瞬発力ある上司が目の前で弾け飛んだ実験を繰り返す様を、更なる瞬発力で抑える部下の苦労は並大抵のものじゃない。
たまに人の頭を何を思ったのか掻き回しながら「君の頭はもふもふしてるなあ」と喜ぶあなたに全力で告げたい。
そのもふもふがとぅるっとしたら、原因はすべからくあなただ、ハンジ分隊長。
うちの系譜にハゲ遺伝子はないはずだから、とりあえず最近の抜け毛は全てあなたのせいだと壁の中心で叫びたい。
残存数0の司令と乗せてる疑惑が色濃い団長の統括される兵団において、出来るわけもないが叫びたい。

「……お前……それ以上どんな自由求めてんだ。肉体解脱か」
「……あの、それは、ハンジさんを心配してるからこそかと」

むせび泣く俺の頭をやっぱりわしゃわしゃとかき回すハンジさんに、二人の同情が傷み入る。
心配してくれているのか、ハンジさんの横――椅子一つ分を開けて腰を下ろしたペトラに付き合うようにして、兵長もその隣に腰を落ち着けた。馬車の時間まではまだあるようで、この場に置いていかないでくれる二人は何だかんだで気遣いがあると感動する。
気遣いのない我が上司は、人の髪で勝手に角を作ろうとして、へにゃりと崩れる髪質にやっと諦めてくれたようだ。
不満げに唇を尖らせて、ペトラを見遣る。

「ええー、普通だよー。リヴァイだってかなり無茶振りな訓練や指示出す方じゃないか。ペトラ達はそういうの平気なんでしょう?」
「平気じゃないですよ!」
「ほう……」
「あっ、いえ、ええと……!」

思わず出たのは本音だろう。
けれどもすっと目を細めた兵長の低音に、慌てて言葉を切り上げる。

「嫌なの?」
「違います! やっぱり心配も不安もある時はありますけど……」
「けど?」

ハンジさんの追究と兵長の無言の圧力に挟まれて、消え入りそうに肩を窄めるペトラがどんどん小さくなっていく。
あの、とか、その、とか口の中で何度も言葉を選び直しながら、その目が窺うようにリヴァイ兵長に向けられた。

「でも私は、……その、皆は! リヴァイ兵長の指示を信頼してますから……!」
「……」
「……」
「……」

真っ赤な顔でのそれは、まるで愛の告白だ。
無言で、だが珍しく瞬く瞳が一瞬見開かれたように見えた兵長の向かいで、ハンジさんがひゅうっと軽く口笛を吹いた。
それからずいっと身を乗り出して、俺の腕を豪快に叩く。

「いいなあ! 何それ何それ! ちょっと聞いた? モブリット」
「聞いてますよ。俺達だって、信頼する時はしてますし、基本的に尊敬はしてます」

そうでなきゃ、昼間は通常訓練を行う身で、誰が徹夜で巨人話に付き合ったり、無謀に頭から突っ込んだような非常識限界ギリギリの実験に立ち向かえるものか。人類に捧げたはずの俺の心臓は、それ以外もいつの間にか全て、すっかりハンジさんの手の中だ。
今更だろう俺の言葉に、彼女が満面の笑みを向けた。

「わーお! もっと言って!」
「尊敬してますし、あなたは本当に大切な人だと思っています。ですから何度も言ってますけど、あなたがもう少し自身を省みてくれたり、危険性に配慮してくれたり、巨人を見つけても後3秒――いや、せめて1秒考えてから行動してくれるようになってくれるなら、俺はいつだって――――……何、してるんですか分隊長?」

向かいでいつの間にかペトラのすぐ隣に陣取ったハンジさんが、彼女の髪を器用に編みこんでいる。
そう長くない髪を横でまとめて止めると、どこから取り出したのか、花のあしらわれた可愛らしいピンを挿して完成だ。
――似合っている。似合っているが、そうじゃない。

「ワカッタ気ヲツケルネ」
「チクショオオオオォッ!!!!!」

だんっと打ち付けた拳と絶叫がむなしいばかりだ。
俺の全てはいつもこうして踏みにじられる。

「1秒でいいんだ……」
「俺が上官で良かったろ」
「……はい」

食堂に響く残響の合間に、二人の会話が漏れ聞こえる。
兵長のドヤ顔が浮かぶ発言にギリリと歯噛みし、それに素直に頷けるペトラが本当に心底羨ましい。
そう思っていたら、ハンジさんが完成したペトラの頭をくいっと自分の方へ向けた。
バランスを崩しそうになった彼女を、さりげなく腕を掴んで支えてやる兵長の心遣いが、今この上下関係を語る場面では羨ましさを通りこして小憎らしささえ覚えてしまう。
山のような書類作業を分担していたはずが、気づいたら人のベッドに丸まって熟睡をかます目の前の人に欲しい種類の気遣いだ。

「そうなの? ペトラもやっぱりリヴァイのこと好きなんだ?」

気遣いのない奇行種――もとい分隊長が、奇行種らしい爆弾を放った。
上官として、という会話からのその質問に一瞬きょとんとした表情を見せて、意味を解したペトラの顔が、また一瞬で赤く染まる。
彼女がリヴァイ兵長に恋心に近い想いを抱いているのがわかってしまう反応で、予想に違わず、慌てたように兵長とハンジさんを交互に見遣るペトラは必死だ。

「好――ッ、えっと……いや、あの、はい、み、皆好きだと思いますよ!」
「だって。皆の兵士長なんだってリヴァイ」
「うるせえよ、クソメガネ」

頑張ったペトラの返事にくすくす笑いながら、ハンジさんはその肩をぎゅっと自分に抱き寄せて、ニヤリと口角を吊り上げてみせた。
兵長の眉が僅かにぴくりと上に跳ねる。

「当たらないでよ。ペトラに特別好きって言ってもらえなかったからって」
「えっ、ハ、ハンジさん……っ?」
「ねぇペトラ。私の事は? 嫌い?」
「へっ!? え、好きですよ!」
「リヴァイの事は? やっぱ好き?」
「すっ――、え、ええと……!」

ハンジさん、その聞き方はものすごくずるい。
わかりきった答えに詰まるペトラを更に自分に抱き寄せて、ハンジさんはご満悦だ。

「やーい! リヴァイ、ざまあ!」
「おい、クソメガネ……」

ゆらりと一瞬怒気が見えた気がする。
俺は慌ててハンジさんの肩を掴んだ。しまった。後ろに回れば良かった。机が邪魔で、ここからだと上手く口が塞げない。

「ぶぶぶぶ分隊長! その辺で! リヴァイ兵長の眼光半端ないですよ! 半端ないですから!」
「えー」
「えー、じゃない!」

リヴァイ兵長がペトラを憎からず思っているだろうことくらいは俺にでもわかる。
が、何も本人達の明言のない関係に、わざわざ他人が口を出すこともないと思う。
自ら死地に三段跳びで飛び込んでいきそうなハンジさんを、引き止めるのが俺の仕事だ。
俺の必死の形相に唇を尖らせたハンジさんは、手を離せとジェスチャーと念を送り続けた効果か、渋々と――本当に渋々といった体で、ペトラを解放してくれた。
それから考えるように腕を組んでしばらく唸ると、思いついたように顔を上げた。

「しょーがないなあ。ねえペトラ? 悪いんだけど、そのうちリヴァイに大好きーって言って抱きついてあげてくれる?」
「ハ――へ、……は!?」
「……オイ」

どんな交換条件だ。
というか、何を交換する気だ。
うなじか。ハンジ・ゾエのうなじで決まりか。

「ね? リヴァイのご機嫌がすんごく悪くなる前にさ」
「分隊長ォオ!!!? もうなってますよ? あんたの発言が原因ですよ!? 生き急ぐなら、せめて巨人相手の時だけにしてくださいよ頼みますから!」
「モブリットはうるさいなあ――へぶっ!」

静かに立ち上がった兵長にただならぬものを感じて、椅子を蹴った俺を振り向いたハンジさんの顔が、潰れた声とともに一瞬で視界から消えた。
何が起こったのかわからなかった。

「てめえがうるせえ。この奇行種が」
「ちょ――、ハンジさん大丈夫ですか!? 兵長、やりすぎです!」
「んなことねえよ」

器用にコーヒーカップを避けた机に顔面が叩きつけられていた。
カクン、と上半身から倒れているところを見ると、椅子を蹴り飛ばされたらしい。
さすが潔癖症の人類最強、見るからに艶とは違う油でまとまって見える彼女の髪には触れていない。
半分感心してしまった俺と違い、慌ててハンジさんに駆け寄るペトラに窘められて、兵長はふんと鼻を鳴らした。
彼女に支えられて体を起こしたハンジさんが、擦れた額を擦りながらで兵長を睨む。

「……つー……もー酷いなリヴァイ。図星指されて照れるなんて、おっさんがやってもこれっぽっちも可愛くな――ぶふおおぉっ!」
「きゃー!」
「分隊長ー!」

今度はわかった。
兵長の容赦ない踵がハンジさんの頭に一度めり込んで、次の瞬間くず折れかけた背中に素早く軸足を変えたキレキレのローキックが決まったのだ。ぼきっ、とか、ぐしゃっ、とか聞こえてない。気のせいだ。

「……クソが。照れてねえよ」
「若干ツッコミどころが違います、兵長!!」

照れで殺ったらマズイです兵長。
こちら側にぶっ飛んできたハンジさんの体があらぬ方向に曲がっていないことだけを祈りながら抱きかかえると、その安否を確認する。慌てて机越しに覗き込んできたペトラに頷くと、彼女もホッと胸を撫で下ろした。
こんなことで万が一のことがあれば、団長の浸潤が一気に行き着くところまで行ってしまうところだった。
生え際を堰き止めた――違う、水際で堰き止めた。

「ペトラ」
「ハンジさん、大丈夫ですか……っ」

駆け寄ってきたペトラに、わざとらしく伸ばした手を取らせたハンジさんは、芝居がかった動作で「ゲホッ」と言いながら体を起こした。その背を支えている俺は完全に無視で、ペトラの頬に手を伸ばす。

「ペトラ、申し訳ないんだけどさ、やっぱりリヴァイのこと……うっ、げほっ、大好きって……ぐっ、言って、あげて……? じ、人類最強の頑なな心を、……げほごほっ、溶かしてあげて」

この人本当にもうアカン。
兵長がブレードを装備していないのだけが唯一の救いだったが、もう素手でもイッてまう。
揺らめく怒気を纏わせながら、兵長がカツン、と歩を進めるのが見えた。
俺のうなじで代わりにしてもらえるだろうか。
ゆったりと机を回ってこちらに来るリヴァイ兵長に覚悟して、俺はがくりと項垂れた。
兵長の軍靴が落とした視界に映りこむ。

「――離せ」

だがしかし。
兵長はぶっきらぼうにそう言うと、ハンジさんに掴まれていたペトラの手をやや乱暴に奪い返して、どこから取り出したのか真っ白なハンカチでものすごく丁寧に拭き始めた。

「リ、リヴァイ兵長……?」

おそるおそる呼びかけるが、彼はペトラの手を拭うことしか頭にないようだった。
効果のない奇行種への躾より、大切な部下と雑菌との触れ合いを遮断する方を選んでくれたらしい。おかげで、こちらはどうにか命拾いだ。

「あれ、いいの? まだペトラから大好きぎゅーってされてないのに?」
「ぶ、分隊長!」
「もがごごっ」

だというのに、奇行種の生き急ぎは健在だ。
慌てて後ろからがっちり両足でホールドした体で抵抗の意がないことを示しつつ、思い切り口を押さえつける。
じたばたと体を捻って抜け出そうともがくハンジさんを一瞥したリヴァイ兵長が、ようやく満足いくまで拭えたらしいペトラの手を取って立ち上がらせると、近くの椅子に座らせた。
編み込んで結い上げられた髪から、ハンジさんの挿した花のついたピンを一度引き抜いて、耳横に挿し直す。
そうするとペトラの愛らしい顔立ちが際立って、より可愛らしく似合ってみえた。

「もごっ! べぼら、びばぶー!」
「何言ってるかわかりませんよ分隊長」
「当然だろが。この方がいいに決まってる」
「わかるんですか!?」
「べー、びぶぁい、びゅーばびびぼ?」
「いいんだよ、うっせえな」
「ちょ、ちょ、なんで通じてるんですか!」
「びゅーっべ、びべぼびぶばいぼー?」

ハンジさんの言葉が二人の関係を揶揄したものだと察しはつくが、肝心の内容がわからない。
おそらく俺と同様、何を言っているのかわからないペトラも、おろおろと遣り取りに聞き入るしか出来ていない。
手の下でぼこぼこと声にならない音を発するハンジさんからペトラを隠すようにして仁王立ったリヴァイ兵長が、それでも尚諦めようとしない彼女を、床を這い回る黒い物体を見つけたときのような顔で睥睨して、ちっと苛立たしげに舌を打った。

「……二人の時はそれ以上のことやらせて言わせてんだ。今更ンなもん必要ねえだろが」

今度は、はっきり聞き取れた。
けれどもその内容が、軽く壁外調査中だ。

「わかったらさっさとお前ら壁外でもどこでも行って来い」
「え」
「――へ、へへへへへへいちょうっ!!」

思わずポカンと口を開けた俺が隙をつかれてハンジさんに関節技から抜け出されてしまったのと、ペトラが後ろから抱きつくようにしてリヴァイ兵長の口を塞いだのはほぼ同時だった。
ブラウスから覗く腕も兵長に隠れてそこしか見えなくなっている耳も、こちらがびっくりするくらいに真っ赤になっている。
さすがにこれは――いくらなんでも――そういうこと、で、いいんだよな……?
この状況をどうすればと冷静な部分が問い始めた時、ハンジさんが勢いよく立ち上がった。

「あは! ごめんごめん。じゃあ私達もそろそろ行こっか、モブリット」
「え――わっ、」

目の前に差し出された手を思わず取るとぐいっと引かれる。そのままよろけるように立ち上がると、繋いだ手を引っ張られた。
軽快なステップでも踏みそうな調子で行きながら食堂の出口で立ち止まり、ハンジさんは晴れやかな笑顔で二人の方を振り返った。
繋いでいない方の手を、ひらひらと軽く振ってみせる。

「じゃあね、ペトラ」
「うぁっ、はいっ!」

急に名前を呼ばれたからか、ペトラが裏返った声を出した。
つられてそちらを向いた俺は、これ以上ないくらいに茹で上がりながら羞恥に打ち震えて見えるペトラと、いつもどおりに眉間に皺を深く刻みながら、これ以上ないくらいの優しい手つきで自分の口にかかる彼女の手を外させているリヴァイ兵長を見てしまった。
俺達を鋭い目付きで牽制しながら、その指先に蕩けそうな唇を寄せる――ところまでは、見てはいけない領域の気がして、鼻歌を歌い始めたハンジさんに気取られた振りで、俺は食堂を後にした。


************


「……ハンジさん」
「んー?」

もうかなり高い位置にある太陽の光を燦々と浴びて、庁舎の横手を歩きながら、俺は少し前を歩く彼女の背中に声をかけた。
鼻歌は今も続いている。
随分機嫌の良さそうな彼女に握られた手も、その調子を取るように不規則に力が込められたり緩んだり。
ついさっき見てしまった食堂での光景を思い返しながら、ハンジさんの手をじっと見つめた。

「やっぱり、あの二人って……」

そうですよね。そうなんですよね。あれで違ったら犯罪ですよね。
咄嗟とはいえ口を塞ぐペトラもすごいが、大人しく背後から口を塞がせている人類最強の兵士長という図もかなりすごい。
今更ながらに、実はとんでもない現場に居合わせたのだと思うと、思わず胸がむずむずしてきた。
それからものすごく温かいものがこみ上げてくる。
なるほど、鼻歌でも歌いたい気分だ。
上機嫌なハンジさんはやっぱり少し前を行きながら、否定も肯定もせずにニタリと笑って振り向いた。

「可愛いよね。小さい子ふたりできゃっきゃしてるの」
「それ絶対リヴァイ兵長に言っちゃダメですよ」
「えー」
「えー、じゃなく!……ったくもー」

俺の諫言にわざと拗ねたようにブツブツ文句を言いながら、それもすぐまたご機嫌な鼻歌に変わる。
ずっと後ろで馬車のゆったりとした車輪の音が聞こえた気がした。二人が乗るのはあれだろうか。
頬を赤く染めながらはしゃぐペトラと、俺達に見せることのない眼差しを湛えた兵長の姿が、陽射しの中に陽炎のように浮かぶのを、瞬きの中に隠して閉じる。
久し振りの純粋な感情に当てられて、今なら生体実験もハンジさんのどんな無茶振りでも、足取り軽く向かえそうだ。

「……て、どこに向かってるんです?」

――と、てっきりこのまま地下水槽の掘られた実験場に向かうものだと思っていたのに、曲がるべき道を素通りたハンジさんに嫌な予感がした。
彼女に関して、こういう予感は大抵当たる。

「え? 壁外」
「行きませんよ!?」
「えー」

えー、じゃない。
なし崩しに行こうとしていたらしいハンジさんの手を引くと、ボスンと後頭部から胸に突っ込む形で彼女が止まる。
これ以上勝手に一人で進まれたらたまらない。

「ハンジさんの大好きな巨人は、まずはこっちですからね。するんでしょう? 水圧実験」
「えー、いーじゃんちょっとくらい。リヴァイもさっき行けって言ってたじゃん壁外」
「そういう意味じゃないでしょうが!」
「えー」
「壁外は皆で! 今日は俺と!」

きけない駄々を捏ねるハンジさんの手を今度は逆に引いて元来た道を歩き出すと、程なくしてまた小さくない鼻歌が聞こえてきた。
本当に困った人だなと思いながら、いつの間にか同じ調子で繋いだ手を握り返してしまっていた自分に気づくのは、実験場で呆れ顔のケイジに指摘されてからだった。


【END】


軽い感じのモブハン&リヴァペト。
ハンジさんが好きすぎてどうしようと思っていたところ、52話でモブリットがかっこかわいすぎて生きるのがツライです。
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