ケトルから注いだ熱湯が白い湯気を溢れさせながら、茶葉を包むように揺らしていく。
途端に立ち昇る香りが辺りを満たして、殺風景な石造りのキッチンも、少しだけ和らいで見える気がする。
蒸らす間に用意した小皿にクッキーを並べて、ペトラは最後の一枚をじっと見つめた。
小麦粉や砂糖の配給があればたまに焼く、何の変哲も無いいつものお手製クッキーだ。
店先に置かれているような飾りもシュガーメッセージもない。
ただ、その一枚のクッキーにだけ、ペトラはひっそりと裏に小さな「L」を刻んでいた。
綺麗に焼きあがった文字を確認して表を返し、丸く円を描いて並べたクッキー達の真ん中に置く。
裏の刻印は気づかれなくて構わない。その意味なんてもってのほかだ。
けれどもこの場所なら、おそらく真っ先に手に取られるだろうと予想して、ペトラの胸が少しだけ高鳴る。
そろそろ紅茶が頃合だ。
茶葉を手際良く片して、ティーポットをトレーに置けば、ふわりと鼻腔を擽る紅茶の香りをいっぱいに吸い込み、ペトラは一人満足気に「うん」と小さく呟いた。


  【 Present For ... 】


極力邪魔にならないようにと気をつけながら、リヴァイの机上に紅茶と小皿を並べていく。
休憩時間とはいえ、リヴァイが自室で本当に休憩している姿を、ペトラはあまり見たことがない。
だが、淹れた紅茶に口をつけたリヴァイの目が、ほんの少しだけ柔らかくなることがある。
気のせいではなくそれを知ってしまってから、ペトラは密かに最初の一口を見つめてしまう癖がついた。
視線に気づいたリヴァイから「何だ」と問われる事がなくもなっかったが、そんな時は素直に感想を求められるくらいの時間は過ぎた。そうして「悪くない」と無愛想に告げられるのは最高の賛辞だ。無論それがなくても、ペトラは彼の鉄面皮に見える僅かな変化に気づくのが嬉しい。

今もポットから注ぎ終えた紅茶に手が伸ばされるのを、ペトラは視界の片隅で追ってしまっていた。

「――配給があったか?」
「へ!?」

が、ティーカップを持ち上げかけたリヴァイは、隣に置かれたクッキーを目敏く見遣った。
うっかり彼の所作にだけ集中していたペトラが上擦った声を出したのに、訝しげな視線をくれる。

「あ、え――と、違います。……あ! 大丈夫ですよ! これはエルド達も了承済みです!」

小麦粉も砂糖もミルクもバターも、食料難な時世の今は、とりもなおさず貴重品だ。
余分に配給されるわけもない調査兵団内において、嗜好品をせっせと作れるような余裕は、通常であれば当然ない。
リヴァイの言わんとしている事を察したペトラが慌てて説明を付け足した。

「皆で計画的に確保しておいた分なので、パンや備蓄用に手をつけたわけじゃないですよ」
「……そんなに甘いモンが食いたかったのか?」

クッキーの乗った皿に視線をやったリヴァイが、僅かに眉を顰めてそう言って、ペトラは小さく苦笑する。
嫌いなわけもないが、今日のこれは特別だ。班の面々で密かに何度も打ち合わせて、やっと迎えた今日だった。

「違いますよ? 今日は兵長のお誕生日じゃないですか」
「――ああ。今朝、散々もてなされたな」

その口調に嫌がなくてホッとする。
もてなし、という表現が正しいかどうかは微妙だが、朝食の席にリヴァイが現れるや否や、全員で示し合わせた歌を歌い、珍しくぽかんとした表情を見せた彼に次々に祝いの言葉を送った慌しい朝は、表情からは分かり難いが、それなりに喜んでもらえたようだ。
本当は花の一つでも添えられれば良かったのだが、生憎この季節、古城の周辺で咲いている花は見つからなかった。
変わりにエレンの発案で、木の皮や実で簡単に作った小さなリースで誕生席を飾ったのだが、それが今もペン立ての後ろにちょこんと置かれているのを見つけて、ペトラの頬が自然と緩む。

「兵長に気づかれないように必死だったんですよ。――と言っても、飾りつけと歌だけでしたけど」
「充分驚かされた。大体よく覚えてたな。俺自身でさえ忘れてたものを」
「当たり前です! 大好きな兵長の誕生日なんですよ?」
「……ほう?」
「あ――、ち、ちがっ、私達の大好きな! です……!」

片眉を上げたリヴァイの相槌に慌てて付け足す。
どちらも本音には違いないが、今日のこれは皆で考え抜いたものだ。抜け駆けは、オルオ辺りに舌を噛んで怒鳴られそうだ。
トレーを胸の前で抱き締めるペトラにそれ以上の追及をやめたリヴァイは、代わりにクッキーの乗った小皿に視線を戻した。

「いちいち祝う歳でもねえけどな」
「いくつになっても関係ないですよ。兵長が生まれて、ここに居てくれる事に、私達がありがとうございますって言える大切な日なんですから」
「……そうか」

衒いのない言葉に、リヴァイがちらりと横目でペトラを見る。そうですよ、と胸を張って答えると、何故だか目を逸らされてしまったが、間違ってはいないはずだ。
誕生日は自分がこの世に生を貰ったことに感謝をする日であり、その人が生きている奇跡に感謝を伝えられる大切な日だ。
少なくともペトラは、リヴァイがいない世界も自分も、想像すら出来ないでいる。
この日常があるのは、彼が生まれて、そしてここに居るからだ。この奇跡に感謝しないではいられない。
それはおそらくリヴァイ班の全員が同じ気持ちだろう。

「高価な物は贈れませんし、せめてサプライズしようって皆で考えて、これが最後のサプライズプレゼントなんです」

見た目は質素だが、気持ちは充分詰めている。
サプライズの成功に満面の笑みを湛えていると、ペトラの思惑通り、真ん中のクッキーに手を伸ばしたリヴァイが、それを摘むと、ふと顔を上げた。

「あいつらの分は――」
「ご心配なく! 兵長はそう言うんじゃないかと思って、少しだけ私達の分も焼かせて頂きました!」

一人一枚ずつ、今頃自室で食べているはずだ。
焼き上がった時から目を輝かせていたエレンは、多分一口で食べてしまったことだろう。意外に甘い物好きが判明した弟分のような彼には、今度お菓子が作れればペトラの分をこっそり上げようと思っている。恐縮しつつも嘘をつけないエレンの顔にパッと広がる喜色を想像すると自然に顔が綻んでしまう。
そんな事を考えていたせいか、ペトラは質問の意図に気づかなかった。

「何枚出来た?」
「4枚です」
「……ならお前の分はどうした」
「え? ――あっ」

素直に答えた数が合わない。エルド、グンタ、オルオにエレン。自分を数に入れ忘れた。
失言に気づいた時には、時既に遅く、リヴァイが呆れたように溜息を吐いた。
そのまま持っているクッキーを差し出される。

「食え」
「い、いいです! それは全部兵長の分なんです!」
「俺の分なら、俺がどうしようと勝手だろが」
「そうですけど、でもせっかく兵長の為に皆で――」
「その分は遠慮なく貰う。だがこれはお前の分だ」

ペトラが自分の分を我慢したとでも思ったのだろう。
だが違う。ペトラの分もきちんとあった。
元から更に丸く並べるつもりで焼いたクッキーの数も問題はなく、その真ん中に、まるで花の芯のように置いたのはペトラの思いつきだった。その裏に密かに刻んだ文字も、全てペトラの思いつきで、食べてほしいと思っているのも、だから全てペトラの勝手な我侭にすぎない。

リヴァイの手にしたクッキーがぐいっと眼前に迫って、ペトラは慌てて後退った。
それを追うように、リヴァイが椅子を立つ。

「いえ、本当に私は結構で――って、兵長、何でそんなに強引なんですか!」

トレーを抱いたままの腕を掴まれて、ペトラは悲鳴に似た声を上げた。
材料を集めたのは全員で、焼いたのは自分だ。我慢も何もしていない。
それでも部下達へは平等にの精神なのか、クッキーを渡そうと迫るリヴァイの迫力に負けじとペトラはトレーを持ち上げると、咄嗟に口を覆い隠した。頑なな拒絶に、リヴァイの眉間にいつもより深い皺が刻まれる。

「ちっ、面倒くせえな……」

険のある声音は、クッキーを分ける優しさの行為とは到底思えない低さだ。
思わず固まってしまったペトラの手から、おもむろにトレーを下げさせたリヴァイが、クッキーを持つ手と反対の指で、くんと顎を上向かせた。

「へ、ちょ――」
「いいから黙って口開けろ」

距離の近さにつられて口を開きかけ、突きつけられたクッキーの裏面が目に入った。
リヴァイの持つそれは、一番最初に手にするようにと真ん中に置いた、ペトラのクッキーに他ならない。
最初に勧められた時、さり気無さを装って皿から適当に選べば良かった。

どうしよう。

今更他のを食べますと言えるような雰囲気でもない。
そもそも裏面に一文字刻んだだけで、他のクッキーと何も変わるわけでもないのだ。
意を決して唇を戦慄かせ、けれどもリヴァイの肩越しに、机に置かれた小皿の上に並ぶ他のクッキー達から「本当に同じ?」と問いかけられたような錯覚が、ペトラに咄嗟の行動を起こさせた。

「待――――、それはダメなんです……!」

下を向いて、必死にトレーを持ち上げる。
もしかすると、勢いあまってリヴァイの手を弾いてしまったかもしれない。
声を上げた拒絶にしんと辺りに沈黙が落ちた。ペトラが恐る恐るトレーを下げる――と、疑いようもなく、しっかりと目を眇めたリヴァイがそこにいた。

「――あ?」
「や、その……す、すみません……」

下から舐めるように顎を動かし煽る口調は、問いかけというより完全にゴロツキそのものだ。
ペトラは内心の動揺を隠して謝罪の言葉を口にした。

――やってしまった、と思った途端胸の奥がズキリと鈍く痛み出す。

誕生日なのに。
せっかく皆と協力して、サプライズは成功していたはずなのに。

そもそもクッキーの一文字は出来心で刻んだもので、それをリヴァイがどうしようと勝手なはずだ。
それを勝手に期待して、挙げ句、部下を気遣ってまでくれた主役を不快にさせてしまうなんて、大失敗もいいところだ。

今からでも挽回したい。いや、しなきゃ。

ペトラはぐっと視線を上げた。

「あの、やっぱり私もいただきま――」
「『L』?」

ペトラが前言の撤回を図るより少しだけ早く、リヴァイがぽつりと呟いた。
聞き間違いかと思いたいペトラの前で、しかしリヴァイは確実にクッキーを見つめていた。

(――わああああっ! 兵長、何で今見つけちゃったんですかっ!)

内心の悲鳴をどうにか抑え、しかしまじまじとクッキーの裏面を確かめるリヴァイの沈黙がペトラに突き刺さる。
耐え切れず、ペトラの方から呼び掛けた。

「あ、あのっ! 兵長、それはですね……!」
「これがお前の分、か?」
「……う、はい……」

しかしあっさり見抜かれてしまい、ペトラは観念して項垂れた。
何を子供染みた事をとでも呆れられればそれまでだ。
けれどリヴァイはそんなペトラを一瞥し、それから他のクッキーを一枚一枚裏返した。他に何も刻まれていない事を確かめてから、もう一度ペトラのクッキーを摘み上げる。

「意味は」

その文字を見ていたリヴァイが、ペトラを真正面から見つめ直した。

「Lの意味だ」
「――え、ええと……!」

本当に、ほんの出来心だったんです、兵長。

問われて、今度こそペトラははっきりと動揺を顔に乗せてしまった。
例えリヴァイが文字の存在に気づいたとしても、他意のない部下のささやかな悪戯だと気にもしないと思っていた。
仮に何かと問われても、もっともな言い訳も考えていたはずなのだ。

(ええと、何だっけ。Lは、Lの意味は……考えたのに!)

慌てて胸に抱いたトレーに指を食い込ませながら、自分に落ち着けと背中を叩いてやりたくなる。
そうしてようやく思い出せた言い訳にペトラは本当にホッとした。
これで丸く収まるはずだ。
ペトラは思い切って作った満面の笑顔で口に乗せ――

「へ、兵長のお名前をですね――」
「『Liebe』か」
「はい――いいいいいえっ、違っ、名前、名前です! 名前の頭文字で――」

だから、まさか、リヴァイの口からその単語を当てられるとは、微塵も考えていなかった。
反射で頷いた自分を思い切りど突いて穴に落として埋めたい気分だ。
余りの事態に「ひぃ」と「滅相もない」が一度に口から飛び出して、舌がもつれた。

自分の分だと認めてしまった後で、Lを刻んだクッキーなど、どう誤魔化せばいいのだろう。
思いつけずに動揺と羞恥で打ち震えてしまったペトラの目の前で、リヴァイが手にしたクッキーに齧りついた。
一口、二口で、小さなそれは完全に姿を消してしまう。
呆然と見つめた先で、リヴァイがぺろりと指先を舐めた。

「悪くない」
「な――え……?」

呆気に取られて、ペトラの口がパクパクと開閉を繰り返す。

食べた――食べた……?

『L』の意味に気づいて――いや、実は上手く誤魔化せていたとか……?

「どうした」
「あの、……いいえ」

混乱した頭でどうにか考え出した結論で、ペトラは自分を納得させた。そうだ、そうに違いない。
まだ少し呆けた声音で首を振ると、リヴァイが小皿からもう一枚クッキーを取った。
裏を返して、人差し指をそこに立てる。

「ペトラよ」

カリ、と表面の削られる小さな音の隙間に名前を呼ばれ、ペトラは無意識に目で追っていたリヴァイの指先から視線を上げた。
眉間の皺はだいぶ薄れてくれたらしい。誤解が解けて何よりだとペトラは思った。
相変わらず読めない表情ではあるが、不機嫌さがないことに胸を撫で下ろしたペトラの眼前へ、リヴァイは見せつけるようにクッキーを差し出した。

「食え。お前の分だ」
「え――……あ、の」

戸惑うペトラの唇にクッキーはぐっと押し込まれる。
そのままじっと見つめるリヴァイが食べ終わるのを待っているのだと何故かわかって、ペトラは慌てて口を動かし、ごくりと全てを飲み込んだ。
そうすればようやく視線を外したリヴァイが再び椅子に戻るのを、ペトラは信じられない思いで見つめていた。
その視線に気づいリヴァイが、声だけでペトラに問う。

「何だ」
「兵長、これは、どういう……」

見間違いでなければ、クッキーには表面に薄く『L』が刻まれていた。
リヴァイの爪の先がそこを小さく削るのを、ペトラは確かに目の前で見た。
けれども真意を確かめようにも、クッキーも文字も、リヴァイの意図も、すっかりペトラが食べてしまった。

「さあな」

しらっと嘯くリヴァイが、置き去りだったカップを自分に寄せる。
こちらを振り向くこともない彼に、ペトラが再び直接意味を聞けるはずもなく。
紅茶に口をつけたリヴァイの瞳が、今までにない色を灯して柔らかく緩んで見えたのは、リヴァイのクッキーを食べてしまったからかもしれない。
今更込み上げてくる熱をどこにも上手く逃がせずに、ペトラは思いつく限りのLで始まる単語を頭の中で反復させたみたのだった。



【END】


  ・「Liebe」=リーベ。独語で愛の意。
  ・円盤特典で兵長がペトラと密室で「愛」という単語を発せられたと聞いて。

クッキーにひっそり文字刻んでドキドキしてるペトラって可愛くないですか、という個人的趣味でした。


【END】


  ・「Liebe」=リーベ。独語で愛の意。
  ・円盤特典で兵長がペトラと密室で「愛」という単語を発せられたと聞いて。

クッキーにひっそり文字刻んでドキドキしてるペトラって可愛くないですか、という個人的趣味でした。