手のひらに乗る想い


1.

また一人、共に戦った仲間が死地へと旅立った。

「……何だ」
「あっいえ! 何でもありません」

今しがた息を引き取った部下の最後の叫びのような言葉を受け止め、彼にだけでなく、彼の背に負った全ての人類に向けて、希望を絶対の決意で宣言したリヴァイは、自分に注がれる視線に声を掛けた。
眉間に縦皺を刻んだいつもの表情で顔を向ければ、ペトラがぶぶんっと顔の前で手を振った。
もう必要のなくなってしまった止血帯で患部を押さえ込んでいたペトラの両手は、そこから溢れた血と同じ色に染まっている。

「ならさっさと行くぞ。奴等のエサになるつもりはねえ」
「はい!」

言うと同時に立ち上がり、リヴァイは先程愛馬達を走らせた方向へピィと指笛を鳴らした。
巨人の進行によって廃墟となってしまったかつての街は、いたる所が倒壊し損壊している。
加えて壁外調査中の現在、横手から突然現れた巨人数体との交戦のおかげで、身を隠す場所すらすぐには見当たらなくなってしまった。
まったくの平地よりマシな程度では、せっかくの立体機動装置も無意味に限りなく近くなる。
踵を返したリヴァイに倣って立ち上がりかけたペトラは、あっと小さく声を出した。
それからもう一度動かない仲間の傍らに膝をつく。

「どうした」
「彼の生きた証になるものを。すぐ追いつきます!」
「……早くしろ」

無駄なことをするなとは言わない。
それが当然無駄な行為だと、この場では誰もが知っていることだからだ。
それでも腕の一本、髪の一房、爪の欠片でも、それがあるとないとでは、壁内で待つ者の心に与える覚悟に大きな差が生じることも、また誰もが知っている。
すっかり後を追うつもりになっていたらしいペトラは、振り返ったままで待つリヴァイに気づくと、慌てて「はい!」と返事を返してきた。

「腕や足はやめておけよ。もっとこう……軽いモンにしとけ」
「いえ、その、千切れているわけじゃないですから、何か身につけてる物でもと思ってたんですけど……」

連れ帰ってやれるものならば、全員――どういう形であれ――壁内へ帰還させてやりたいが、いつどこで巨人と遭遇するかもしれない戦場で、それが許されることは限られてくる。
ほんの僅かな奇跡のような幸運だろう。
遺族側から遺体の一部回収をと望む声があることも理解はしている。
けれども現実的に、立体機動での移動や走行にかかる馬への負担、それに衛生面での問題を冷静に考えれば、今生き残っている者達に過分な危険を強いることなど出来はしない。
リヴァイの言葉の意図を十分理解しているだろうペトラは、素早く横たわる男を検分し始めた。

「――あ、これ……」
「何だ?」

血と土で汚れたシャツの喉元を覗き込んだペトラの様子に、リヴァイも視線をそちらに向ける。
男の首に革紐が掛けられていることに気がついた。
女物にしては質素で、ただ落とさない為だけのように固結びされたそれに通されていたのは、やはり飾り気のない小さなリングだ。
ブレードの先で革紐を切ったペトラが、するりとそれを抜き取る。

「指輪です。……小さいから奥さんのですね、きっと」
「何だってそんなもん持ってるんだコイツは」
「お互いに交換してたんじゃないでしょうか」

結婚の報告を照れ臭そうにしていた部下の顔がちらと過ぎる。
シャツの中で守られていたはずの指輪にも、流された血が付着している。しかしそれを拭うことはせずに、ペトラはそう言うと、空に昇る太陽に掲げるように持ち上げた。
廃墟も遺体も関係なく広がる晴天に、金色の指輪を反射した光が、白く線を放って、一瞬だけリヴァイの目を差した。
ドン、と撤退の硝煙弾が西の空に弧を描いて溶けていくのを目の端で捉える。

「交換?」

立ち上がりながらジャケットの内ポケットに仕舞うペトラを横目で見遣る。
リヴァイの視線には気づかないまま、こちらに駆け寄ってくる聡い馬達に意識を戻したペトラは、はいと頷いた。無意識にだろう、右手を仕舞ったばかりの指輪の上にそっと乗せている。
その瞳の中に揺らめく感情の一端が見えた気がして、リヴァイは何故だかざわりと胸の内を逆撫でられた。

羨望、憧憬――いや、それ以上の何か。
例えるなら、彼女にしか見えない誰かに想いを馳せているような――

しかしペトラは、瞳に宿したその色を、瞬き一つでスッと消した。
一瞬眉を顰めた自分に気づかない振りで、リヴァイは戻った愛馬の手綱を握り騎乗する。
すぐ隣で同じように馬上の人となったペトラが、労わるようにトンと馬の首を叩いてやるのが見えた。

「ちょっとした流行です。身近な物を交換して、肌身離さず持ち合うっていうのが」
「何か意味があんのか」
「――ええと……」

まるで何事もなかったかのようないつもの明るい瞳で、リヴァイの横に馬をつける。

「離れていてもお互いのことを想う――が転じて、私達みたいな任務だと、その人の無事を祈るっていうおまじないみたいなもので――……」

言った彼女がこちらを見る気配を感じながら、リヴァイは馬を走らせた。
少し慌てて、しかしすぐ横につけ直したペトラが、再度上がった硝煙弾の行方を見上げる。
その目にはもう兵士としての色以外、何も見えはしなかった。
けれども瞼の裏にチラつくペトラの表情は消えずに、リヴァイの胸をざわめかせる。

「その、兵長は――」

煙の流れる西方へと向かう他班の姿がちらりほらりと見え始めた頃、隣から掛けられた声に、リヴァイは視線を向けなかった。




*****




「――で? そこで『くだらねえ』って言っちゃったんだって? バカだなあ、リヴァイ!」

今回の壁外調査で得られた情報の報告は終えたはずの会議の後だった。
呼び止められついて行った先で、ハンジはごそごそと自身の執務室の抽斗を漁りながら、おもむろにそう言った。

「あれ、違ったっけ? 『クソが』?」
「……なんだってお前がそんなことを知ってやがる、クソメガネ」

その場には影さえいなかったというのに、放っておけば他にも身に覚えのある発言を全て諳んじられそうな気配を敏感に察して、リヴァイは低く唸った。
何を言われて困る類の内容ではないのだ。下手に誤魔化すより、追究の方がいくらかマシだと判断する。
剣呑に目を細めたリヴァイを毛ほども気にせず、ハンジは「ああ」と軽い調子で相槌を打った。

「ペトラじゃないよ? あなた達の会話が聞こえたんじゃないかな。班の子が話してたのを小耳に挟んだだけ。ええと何だっけ――『兵長は持ってて欲しいとか言われたらどうされますか』だっけ? 『そういうのって素敵ですね』だっけ? それで答えが『くだらねえ』? うっわ、リヴァイ最低〜」

何が小耳だ。
どうせ世間話程度で話していただけだろう兵士を捕まえて、根掘り葉掘り聞き出したに違いない。
けらけらと笑うハンジに、リヴァイは更に眉間の皺を深く寄せた。

「……くだらねえことに変わりがあんのか。お前そんなもん欲しいか」
「いるいらないじゃなくて、そういうのは気持ちでしょ気持ち。っかー、女心わかってないなあリヴァイは」
「……」
「ん? 何?」
「お前に女心を説かれるのは心外だ」
「ひどいな!」

そもそもペトラとハンジでは全く別の生物だろうに、何を同じ性別のように知ったかぶっていやがる。
リヴァイの失礼極まる態度にわざとらしく顔を顰めてみせたハンジは、しかしすぐに揶揄する表情に変わった。

「可哀相に。彼女、落ち込んでたんじゃない?」
「知るか。落ち込む必要がどこにある」

間違ったことを言ったつもりはない。
切り捨てたリヴァイを、今度は少しだけ呆れたような表情をして肩を竦めると、ハンジはまた抽斗の探索に戻りながら言った。

「口に出して言う必要はなかったんじゃないってこと。ペトラだって充分理解してることだろうに」
「……」
「大体そういうものはさ、遺す方より遺される側の心の支えになるんだと思うよ」
「……ちっ」

若干の非難を含む物言いをされて、リヴァイの口から出たのは舌打ちだ。
そんなことは、言われなくともわかっている。
ペトラだってわかっているから、リヴァイの素気無い返事を受けても別段態度に変化があったわけではなかった。
ただいつものようにへらりとした笑顔で「ですよね」と言った顔を見てしまってから、リヴァイの胸がやたらとざわざわ嫌な音を立てただけだ。眉間の皺が少しくらい深まった顔でペトラを見つめていたとしても、今更その程度のことで、彼女が落ち込むとは思わない。
本当にペトラが落ち込む要因があるとすれば、むしろその後の会話だろう。

本隊と合流し、帰還に向けて一時の休息を挟んでいた時だった。
馬具の調整を終えたペトラが内ポケットから指輪を取り出し眺めていた。声を掛けるつもりはなかったが、気配を察したのだろう。見咎められたとでも思ったのか、ペトラは慌てて仕舞い直すと、少しだけ眉を下げて誤魔化すように笑って見せた。

「……こういうの、生きた証ですけど、死んだ事実にもなっちゃいますし、祈りが叶わなかったっていう証拠でもありますし、渡された方は複雑ですよね。きっと」

それでも何もないよりマシなはずだ。
そういう例は五万と見てきた。
逝った仲間は、その全てを見送れずとも、リヴァイの心には確かに息づいている。
しかしそれだけでは満たされない――死者を想って満たされることがあるとも思わないが――個人的な感情が強ければ強いほど、人は何かをよすがにしたいと願うものだ。
そしてそれが、いつか生者を前進させる道標となる。

ペトラの言葉はリヴァイに向けてのものだったが、会話を期待されているわけでないのはわかる。
無言のままのリヴァイに、ペトラは「でも」と独り言のように嘆息した。

「そういう相手がいるって、どうしようもなく落ち込んでも、その後、――きっともっと生きたくなります」
「……そうか」

リヴァイの内心を読んだような独白に言葉を添えると、反応があるとは思っていなかったのか、ペトラが少しだけ驚いたように目を瞬いた。
それから僅かに躊躇うように組んだ指先を遊ばせて、窺うようにリヴァイを見つめた。

「兵長は――そうなりませんか?」

その後の彼女の顔を思い出して、リヴァイは傍目にはいつもと変わらない無表情の中で僅かに目を細めた。
ならないとでも言えば――いや、別に絶対に返事をしなければいけないわけでもなかったのだ。馬上での会話のように素気無く、聞こえない振りでもしていれば良かったのかもしれない。
けれどもそれが出来なかったのは、ペトラの言い方が酷く断定的に聞こえたからだ。
だからつい、そこに潜む本音の部分が気に掛かり、余計な思考がリヴァイの頭を過ぎってしまった。

――例えば。
人類の未来以外に心臓を捧げる相手を間違えるな、という正論であったり、そんな相手がいようがいまいが関係あんのか、という詰問であったり、そういう奴ほど生き急ぐ傾向が強い、といった経験で得てきたリヴァイの持論や、そんなもんがなくても当たり前の顔してお前は生きてろ、だとか、お前もそんなふうに想う何かを身につけてやがるのか、といったそれこそ聞いてどうするといった、リヴァイにすらよくわからないことがつらつらと。

それに気づいて、だから思わず舌打ちが出たのに他意はなかった。少なくともペトラに向けた返事では決してなかった。それでもじっとリヴァイの無言に耳を傾けていた彼女が、それをリヴァイの答えと受け取ったらしいことは、その目の揺らぎですぐにわかった。
訂正を試みなかったわけではない。だが出立の号令に消されただけだ。
呼びかけた名前は、同じように意識を切り替えたペトラの凛とした兵士としての態度に飲み込んだ。
そうして、そのまま今がある。

「……お前の用件はそれだけか。なら戻るぞ」
「ああ、違う違う。――ハイ、これ」

結局この部屋に入った最初から探していた抽斗ではなく、机上に置かれた木箱の中できちんと文鎮の下にまとめられていた書類がそれだったらしい。
本気かわざとかわからない探し方にじろりと睨むが、ようやくお目当ての物を引き当てたハンジは満足げに額を左腕で拭いながら、サインの書かれた紙を渡した。
それは見慣れた管理票だった。
負傷や死亡の際、または遺品の引き取り等が済んだ兵士の名と受領の有無が記されるだけの事務的な書面に、先日看取った仲間の名前が記されている。指輪は妻の手に戻ったようだ。

「奥さん、とても感謝してたって」
「そうか」
「ペトラにもちゃんと伝えてあげてね」
「……ああ」

こんな時世のことだ。
時には死を色濃く伝えたと遺品に感情を爆発させられることも、身体を持ち帰られなかったと詰られることも多くある。だからあの男の妻がどんな感情を表したのかまではわからない。だが結論として感謝があった。
それはつまり、あの時彼の遺品をと判断したペトラは正しかったということだ。
伝えれば、良かったと少しだけ表情を緩める様子が簡単に想像できて、リヴァイは男の名が刻まれた紙面に視線を落とした。

わざわざ呼び出すほどのことではない。
食堂で見掛けた時か、訓練の後か――何とはなしにその状況を考えて、リヴァイはふと顔を上げた。
揶揄の中で言われたハンジの言葉を思い出したからだ。

「……落ち込んでたのか」

ペトラのことはそれなりに気に入っているらしいハンジが軽口でもそう言ったからには、何かそれとわかる兆候があったのだろう。自分の前では、揺らいだ一瞬の感情も兵士の顔の下に隠そうとする様子を思い出すと、何とはなしに苛立ちが浮かぶ。
思ったより険を含んだ声音になったリヴァイに、ハンジは当然のように頷いて見せた。

「そりゃそうでしょうよ。大好きな兵士長に一刀両断されたんだし。甘い言葉を送れとまでは言わないけどさ、部下の士気を下げる上官ってどうよ」
「士気が下がったようには見えねえけどな」
「あなたに気づかせるわけないじゃない! あーペトラ健気ー」
「……お前に気づかせるあいつでもねえだろが」

真実落ち込んでいたとして、ペトラがその原因をおいそれと他人に口外するとも思えない。
ましてや奇行種といえども分隊長であるハンジに、気安く悩み相談のような真似をするはずがない。
苛立ちを隠さず鼻を鳴らせば、ハンジは負けじと半眼でリヴァイを睨み据えてきた。

「そういうのは気づくもんでしょ」

やけに知ったふうな物言いだが、反論できるだけの手札がない。
口中で打った舌の音が負け惜しみのような響きになって、リヴァイはますます不機嫌に眉を寄せた。
やれやれと息を吐かれて余計面白くない。

「身近に置くんなら、もうほんの少しくらい気に掛けてあげなよ。……ほら、さっきの会議でもさ、淹れてくれた紅茶、ペトラにしては珍しくちょっと出しすぎだったし、そういう――」
「別に美味かっただろうが」

言葉を遮るように反論すれば、ハンジは呆れたように息を吐いた。
はねた毛先の踊る汚れた頭部をガリガリと掻いて、

「だから、ペトラにしてはって言っ」
「美味かった。黙れクソメガネ」

噛んで聞かせるような言い方を途中で遮り言い切ると、ハンジは眼鏡の下で怪訝に眉を顰めた。
リヴァイを真正面からまじまじと見下ろし、一変、突然人差し指を突きつけ爆笑と共にずんずんと近寄る。

「うわー、何ソレ! デレ? デレなの? わっかりにくー! わかりにくいよリヴァイ! いや、むしろお子様レベルでわかりやすい! クソ面白ええぇっ!!」
「……」

どこかのネジが跳ね飛んだらしい。
気安く肩を叩いてニヤニヤと気味悪い顔で笑い続けるハンジを、とりあえずどう削いでやろうかとブレードに手をやり掛けて、しかし飛び込んできたモブリットの嘆願に渋々柄から手を離す。
それでもヒイヒイと笑い続けるハンジに舌打ちを残して、リヴァイは執務室を後にしたのだった。



【→2】



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