まずは答えを。そしてそこから。




気づいたら、そこは白い部屋でした。
辺り一面見渡す限り真っ白な壁面に終わりはなく、繋ぎ目もなく、ただ、そこが白い部屋なんだということだけがはっきりとわかります。
そんな部屋に、私達はいつの間にか集まっていました。

そこには大きな箱のようなものが一つだけ置かれていて、私達はそれが見える場所になんとはなしに移動していきました。
ある人は遠くから睨むように、ある人は箱にへばりつくように。
立ったり座ったりはとても自由で、けれども誰かがそこにいるからといって誰かの視界を邪魔することもなく、私達は好き勝手な場所で好きなようにその箱を見つめていました。

ふ、と眩しさを感じた次の瞬間、箱の表面いっぱいに見覚えのある景色が映し出されました。
それは懐かしい家々の連なりであったり、忘れかけていた友人であったり、その時交わした言葉や胸によぎった感情が、まるで小さい頃母に甘えて眠る前の数分間、物語を読んでもらっている時のように思い出す不思議な感覚でした。

そこで私は覚えていない母の腕のぬくもりを見ました。母の腕の中で小さくて重たい熱の塊のような私が眠っている頬を、記憶にあるよりずっと若い父が、涙を流して喜びながら震える指先でつついています。
私の頬に、ポ、と熱が灯ったような気がしました。

(お父さん)

母が亡くなってから、男手一つで私を育ててくれたお父さん。
いつもいつも「もっと女の子らしくしろ」だの「早く嫁に――貰い手ねえだろうなあ」だのとぼやいては、私がむくれて、けれども最後には頭を撫でてくれた懐かしい記憶が、次々と私の中に流れていきます。

(……お父さん)

赤ちゃんの私、少女時代の私、思春期を迎え、ちょっと父をやきもきさせている私。
私が走り回っている背中に小言を投げかけながら、視線はいつも私をこれでもかというほど優しく包んでくれていたことに、私はここで気が付きました。

いくつもの春を過ぎた頃、箱から溢れる情景の中で私がとうとう家を出ます。
調査兵団に入りたいと決めてから何度も何度も話をして、父は最後まで本当は反対していたけれど、私の決意を尊重してくれたあの日。
私は初めて父に贈り物をしました。
ナップザック一つに必要な物を詰め込んで「行ってきます」と振り返ってから思い出したように渡したそれは、花の刺繍のハンカチでした。小さい頃に聞いた母との思い出の中で、母が刺繍を得意だったと聞かされてから、私は密かに練習していたのです。それでも先生のいない手習いは思うようには上達せず――元来の資質に言及するのはナンセンスです――本当は色とりどりの花で感嘆させたかったそれは、何となく赤とピンクと黄色の固まりが花に見えなくもないというような出来で。
どうせ笑われると腹を括って渡したそれを受け取って、父は、しばらく無言で見つめ――

(あ……)

箱の中で、父が真っ赤な目で笑って私に言いました。
『これだけ上手けりゃ十分だ!』
母さんにそっくりだなんて言葉までくれて、私は泣いてしまったことを覚えています。絶対に笑って家を出ると決めていたのに。でも私は知っていました。大切そうに父がこっそり持っている母の刺繍のハンカチは、本当はもっとずっと素敵なことを。
振り向いても姿が見えなくなってしまうまで、父はずっと手を振って私を見送ってくれていました。その姿を思えばやっぱりついつい滲んでしまう視界を両手でしっかりと擦って、今度父の前で泣く時は、絶対嬉し泣きにしようと固く心に誓ったものです。

調査兵団に入ってからは休暇と呼べる休暇に実家に帰ることもそう多くなく、父とは手紙で何度もやり取りを繰り返しました。
私から送る手紙には訓練の成果や壁外のあれこれ、仲間の話、上官の話、それから私の想う人類の希望。父からは健康への気遣い、私を応援してくれているとわかる思いやり、それから決まって最後に「いつでも戻ってきなさい」という言葉で締められていました。
あの手紙達はいったいどこに行ったのでしょう。

目まぐるしく進む情景を眺めながら、ぼんやりとそんなことを考えている間にも、どんどん、どんどんと時は前へと進んでいきます。
死ぬ思いで駆け抜けた訓練兵時代、配属、仲間達、それから初めての壁外調査。

(あ〜……これはいいって〜!)

散々っぱら資料も読んだし、話も聞いたし、頭の中で何度も何度もシミュレーションして臨んだ壁外で、私は完全に腰を抜かしてしまった思い出の場面が箱の中に映し出されます。
出だしは順調だったはずなのに、横手から現れた5メートル級にワイヤーを取られ、私は地面に叩きつけられるところでした。途中でどうにかバランスを戻し不時着できたのも束の間、一瞬視界の回った間に、奴らは私の目の前にいました。
どこを見ているのか判然としないぎょろんとした瞳の中に、唖然とした顔の私が映っています。半開きの唇が、間抜けな私を嗤うかのようにガパリと赤い口腔を見せました。
瞬間的に、恐怖が頭を支配します。
恥も外聞もかなぐり捨てて、私は地べたを這いずるように後ろに進みました。ああ、ああ、と獣の咆哮のような叫び声があの時ずっと傍で聞こえていたような気がしていましたが、なんてことはありません。この白い部屋の中、箱が映し出す情景を見ればその答えは一目瞭然。威嚇する野生動物のように、最後の悪足掻きとして私が発している唸り声だったのです。
そんなことにも気づかなかったほど、私は恐怖に震えていました。
汗と血と涙で、目も鼻も顔全体をぐしゃぐしゃに汚して、ガチガチと歯の根の噛み合わない口からは涎すら見えます。
折れたブレードをめちゃくちゃに振り回して、覗き込んでくる巨人から逃げようと叫び続けている私がいました。

(必死だったんだもんなあ)

そう。私は必死でした。
避けようのない死を前にして、全身で死にたくないと訴えていました。それはきっと同じ状況なら皆同じだったことでしょう。恐怖と後悔と焦燥と、どうしようもない現実はいつも突然で、そして容赦ありません。けれども私はもっともっと生きたかった。そう思うことを、私は今でも情けないとは思いません。

ふと背中に衝撃を感じたのと、びしゃりと生ぬるい液体を頭から被ったのは同時だったと思います。
気がつくと、もうもうと煙る視界の中、彼――兵長です。この時は勿論同じ班でも何でもありませんでしたが、兵士なら名前も顔も誰もが知っている有名人でした――が巨人の上に立っていました。咄嗟にそんなところに立ったら危ないと叫びそうになって、私は立てない自分に気づきます。幸いなことに大きな怪我をしていなかた私は、けれど腰が抜けていました。
そんな私を見た彼の口が動いた気がしましたが、当時の私にはわかりませんでした。が、冷静に箱を見ている今ならわかります。
彼は私にこう言っていました。

「立て。目を開けたまま死んでんのかお前は」

本当に目も当てられません。
訓練兵に毛の生えた新兵を助けてみたらガチガチ震えているのです。彼はさぞかしお荷物に思ったことでしょう。この時何故だか視界も妙にぼやけていた気がしましたが、それは私は泣いていたからだったようです。そんなことにも気づいていませんでした。情けない新兵の具現化。それがまさしく私でした。
項を綺麗に削がれた巨人の肉と骨が頽れる中、兵長がまた言葉を発して眉を動かしました。これも当時はわかりませんでしたが、今はこの箱の移す映像でよく聞こえます。
曰く。

「……小便漏らせるなら生きてるな」

……………………
…………………………
…………………………………


(見られてた……!!!!!)


私はこの後のことをあまりよく覚えていませんでした。が、この後も、兵長の班に選ばれるようになってからも、彼が私にこの時のことを言うことは一度もありませんでした。だから、てっきりエルド達の揶揄から知っているだけだと思いこんでいたのですが、まさか……うん、そうだったんだ………………
乙女の恥じらいによる必死の隠蔽をするまでもなく、第一発見者が彼だったなんて。
毎回必死でエルドやグンタの口を押さえて怒声を発していた私の姿を、兵長はどんな気持ちで見ていたことでしょう。

(あああ〜、あああああー!)

この場で頭を抱えてもんどりうちながら箱の映し出す場面を見ている視界の端に、同じようにのたうっている動きがちらりと入ります。

(?)

見るといつからいたのでしょうか。
オルオがごろんごろんと転がっているところでした。

「!」

私に気づくと真っ赤な顔をぐいっと腕を上げて隠した彼は、膝を抱えて座り直しました。シロリと睨んでくる目が、何も言うなと語っています。私はお互い様だとばかりに頷いて、白い箱に顔を戻しました。
箱に流れている場面の中では、兵長に引っ張り上げられた私の後ろで誰かが動いたところでした。
あの時背中に感じた衝撃は、どうやらその人とぶつかったからのようです。

(あ。オルオだったんだ)

嗚咽と下半身をしとどに漏らした彼がそこに見えました。その後ろには兵長に作戦の確認を行っているエルドの姿もあります。なるほど。私たちはあの日あの時同じ場所で、同じ人達に弱みをがっつり握られていたようです。あああ、恥ずかしい。
いえ、この恥ずかしいという気持ちは、生きる為に意地汚くブレードを振り回した抵抗が、というのではなく、単純に尊敬する人にお漏らしの現場を見られていたという一点についての羞恥心です。

それから無事に壁内に戻った私は、今まで以上に訓練に精を出しました。
巨人が本当に怖かった。だけど、その思いは、生きたいという強い思いも生みました。
生き残りたい。死んだ仲間の思いを先へ。少しでも未来への希望を、と。
自分の腕が立つようになると自覚すればするほどに、リヴァイ兵長への尊敬と憧れの念が増していきます。
彼に追いつきたい。彼と並びたい。

(……へいちょう。兵長。リヴァイ、兵長)

その後の情景は、自分でもちょっと引くほど、どんどん彼を中心に流れ出していきました。
壁内訓練、壁外調査、休暇、訓練上がりにすれ違っての立ち話。異性とか同性とか関係なく、私が彼に惹かれていく様が溢れていました。傍から見た私はこんな感じだったのかと思えば、今更どうすることも出来ないのに、そこらじゅうをのたうち回りたくなる気分です。

(でも、だって)

リヴァイ兵長は本当に格好良い人だと思うのです。
技術の高さもさることながら、わかりにくい優しさや微妙な言葉のニュアンスなど、距離が近くなればなるだけ彼のことがわかりはじめて、私は貪欲になっていきました。
求められもしないのに、彼が好きだという噂を聞いて紅茶を買って淹れ方の練習をしたし、掃除の極意も勉強しました。勿論立体機動訓練も豆が出来て潰れてまた出来てを繰り返し、いつしか分厚い皮膚の下で揺るぎないタコになるまで身体に叩き込んで。

そうして過ごしていたいつかの夜。
自主練習を終えて兵舎へと戻る道すがら、入浴を済ませた兵長とばったり会ったことがありました。私は汗と泥だらけです。目が合うと、スッキリした兵長が眉を顰めました。こんな時間までやっていたのかと聞かれ頷けば兵長の眉間はますます深い皺を刻み込みました。何か言わないとと思った私が咄嗟に口にしたのは、今思えば最低でした。
「壁外で取り残された時の想定で」なんて。それはほぼ100%の死を意味するとわかっていたのに。
怒られる。身構えた私に、けれども兵長は怒りませんでした。静かに「そうか」とだけ言って、それから私の汚れた頭に、ポン、と手を置きました。「取り残さねえから夜はやめろ」危ねえだろうがと言った時だけ、兵長はちょっとだけ怒った顔をしてみせました。それから「おまえは十分に飛べている」とも言ってくれて、驚く私の頬の汚れを、親指で乱暴に拭いました。
その時、私はふと気づいてしまったのです。そう言って私を窘める彼の瞳の奥に、拭い切れない自責の念が潜んでいることを。それはきっと、壁外に出なければ知り得なかった感情でした。目の前で失った大切な仲間達へ、多くの者が感じて抱えて、それでも前を進むと決めたからこそわかってしまうものだと感じました。
でもそれだけではなく。
兵長の中には、私達とは少し違った、何だか大きな澱があるように感じました。それをどうやって取り除けるかわかりません。私には一生出来ないのかもしれません。それでも、私がその澱を増やしてはならないのだと思いました。
私は絶対に彼にそんな目をさせないと。おこがましくも私はこの時はっきりとそう自分に誓ったのでした。

今にして思えば、私の誓いは悉く破られています。

(……不言不実行)

酷いです。父には嬉し涙を見せると誓って、結局悔し涙すら見せませんでした。
初めての時から、絶対に生きて帰ると誓っていた壁外でとうとうあんなことになってしまったということは、つまり私は彼の澱を増やしてしまったことにもなるのでしょうか。
そのことに関しては、本当に悔やんでも悔やみきれません。

そうは言っても、私達の間には、その後も何も特別なことはありませんでした。
ただ私が一方的に憧れて追いかけて、そこにいつしかいろんな感情が乗ってしまっただけで、彼に告白したことも、彼に何かを求めたこともありません。
ただただ、いつの間にか、私が彼を好きでした。

箱の周りにいた人達は、気づくと誰かがいなくなり、そうしてまた別の誰かがやってきました。怒りも悲しみも戸惑いもなく、一様に部屋に入ると辺りを見回し、白い部屋だと認識をして、そのまま箱の周りに立ち止ります。
ある人は座り、ある人は立ち、私と同じように流れてくる情景を見て、そうしていなくなるのです。
もしかすると彼らは全てを見終わったのかもしれません。そうしておそらく隣へと続くドアを開け、どこかへ――その際へ行っているのだと思います。
私がこの部屋に着いた時、見知った顔がいくつもありました。後から来る中にも幾人も。けれど別に言葉を交わすことはなく、目が合うとお互いにちょっと目配せをして、それで会話をした気になるといった程度でした。
グンタは座って箱を見つめ、エルドはしばらく立ったまま食い入るように見つめた後で、二人とも行ってしまいました。最後にちょっとだけ振り向いた彼らは私に微苦笑をくれました。その意味ははっきりとはわかりません。ただ「先に行くな」と言っているのだけは伝わりました。頷く私に軽く手を振ってくれたのはエルドでした。彼はそういう仕草が様になります。

私は、私の場面が終わった後、しばらくそこに座ったまま、白い箱を見つめていました。これで私も次の部屋に行かなければと思う反面、何故だか腰が重くて動きたくないのです。不思議に思って辺りを見回せば、ゆっくりと立ち上がったオルオと目が合いました。

(行くんだ)

ふう、と息を吐いて似合わないクラバットの位置を直すオルオは、まだ兵長の真似をしているみたいです。似合わないのに。どこまで行っても、オルオも兵長が大好きすぎます。

「……ラ」

不意に呼ばれて、私は驚きました。名前を、随分久し振りに呼ばれたような気がしたのです。瞬く私に、オルオは「じゃあな」と言いました。先に行く、とわざと低めた声で言ったのは、おそらくこれも兵長の真似です。兵長はそんな言い方じゃない、と反論してやろうと思いましたが、その前にオルオがすっと右手を顔の前に立てました。何も言うなということでしょうか。ムッとする私にオルオは困ったように眉を寄せます。

「お前、最後まで待ってろよ」

それはどういう意味でしょう。聞く間もなく、オルオはあっさりと部屋のドアを開けて行ってしまいました。何だか呆けてしまった私は座り込んだまま、また箱を見つめました。すると、私の情景が終わったはずのそこに、新たな場面が流れていました。

(……リヴァイ、兵長?)

そこには彼の姿がありました。巨大樹の森を軽快に抜け、研ぎ澄ました神経を辺りに張り巡らせながら進む兵長が、グンタの横を飛んでいきます。エルドの上を行き、オルオを飛び越え、眼下にはかつて私だったものが現れました。

(兵長)

見る者が見れば背筋が凍るほどの能面は、計り知れない澱の深さを感じさせました。
彼のそんな表情を見たのはそれが初めてでした。当然です。彼は敢えて、私にそんな表情を見せていないのですから。
兵長、と叫んで、すみませんと謝って、出来るなら私という部下の記憶を全て消してもいいとすら思いました。

(兵長)

私は、――私はなんてことを。
思わず震え出した手で口元を押さえても、窒息しそうに呼吸が苦しくなりました。自分の罪深さを、私は知ってしまいました。彼のその顔で、見下ろすその視線で、動かない表情の中で、彼の感情の一縷を見てしまったことに気づいたのです。

絶対に交わらないだろうからと勝手に垂れ流していた彼への勝手な感情を、彼が知らないわけはなかったことを今更ながら思い至りました。
それが若さゆえの想いだなんて言いきれない顔を、視線を、私は彼に向けていたようなのです。
自分では上手く誤魔化せていると思っていたのに。
箱の中で流れているその顔は――彼から見た私の顔は――、隠しようがありません。
最初は本当にそこまでのつもりはなかったのかもしれません。けれど共に過ごして、言葉を交わして、何度も背中を追いかけて。私は確かに彼をずっと想っていました。いつか報われるかも、だなんてくすぐったい純情で友人達と盛り上がれなかっただけ、私は本気だったのです。
彼はその気持ちをどう感じていたのでしょうか。迷惑だったでしょうか。面倒くさかったでしょうか。それとも少しは、悪くないと思ってくれていたでしょうか。
私は言葉で彼の答えを聞くことは終ぞありませんでしたが、今、ここに見える彼の表情が途方もなく中に全てを殺してしまって、私は初めて後悔をしました。
彼の目蓋がゆっくりと下り、黙祷を捧げるような一拍の後、開かれます。

(兵長、リヴァイ兵長。私は、あなたと共にありたかった。それが出来なくなったとしても、あたなの瞳を少しでも明るくさせてあげたかったのに)

私の想いを知って、それでも傍に置いてくれた彼の、それは確かに一つの答えであったのだと。そう、わかったのが今だなんて。こんな箱の前だなんて。
もう流せない涙の代わりに、私は箱を見つめます。
私達を一瞬で屠った女型の巨人が、二人の前であっという間に刻まれて、エレンが救出されました。ホッと息を吐いてしまいます。良かった。エレン、あなたが無事で。

その後も、私はどれくらい長い間この部屋にいたことでしょう。
懐かしい顔も知らない顔もたくさんの人がこの部屋に来て、この部屋を出ました。私は私の場面の代わりに、ひたすら彼の場面を見つめていました。私達の去った後、新しく任命されたリヴァイ班の彼らの動向に、手に汗を握り食い入るように見つめ、友人だったニファの最期に息を飲み、この部屋で再開した彼女と目配せをして去るのを見届け、ヒストリアの就任、彼が子供達――いえ、仲間達に初めて見せた笑顔、鎧や超大型や猿の巨人達との最後の闘い。その後の人類の変遷は、穏やかとは決して呼べないものも多く、その全てで意に反して彼は担がれ、悪態と舌打ちを繰り返しながら、確実に年を重ねていきました。

その姿を、本当は傍で見つめたかった。
こんなところでこっそり盗み見るのではなく、さすがに皺が増えましたね、なんて笑って優しくなぞりたかった。お前もだろうが、なんて眉間を寄せて言われてひどいと反論しながら笑いたかった。104期生に見せた笑顔なんて比べものにならないくらいの笑顔をたくさん、私がさせてあげたかったんです、兵長。

もしも私があの頃そんな正直な欲望にはっきりと気づいて曝け出していたら、きっと振られていたことでしょう。立場も状況も何もかもが、私には備わっていなかったから。だからそれは、やり直しのきかないこの場において私の誇れる正しい選択の一つだと言いきれます。

でも、もし。私の人生が続いていたら?

その時、年を重ねて進んだどこかで、私の気持ちは報われる時がきたのでしょうか。
穏やかと呼べる数少ない場面に変わった兵長の姿を見つめながら、私はそんなことを考えていました。
近頃はめっきり歩くのも辛そうな兵長が――もう役職名は違うのですが――、机の抽斗を開けています。そこには仕事に関係のない雑多なメモ帳が入っているのだろうと思っていたら、やはり正解だったようです。
兵長は綺麗好きで几帳面ですが、実は意外に大雑把なところがあるのを私はあの頃から知っていました。彼の自室の掃除を任されるようになってしばらく、抽斗に鳥のスケッチが収まりきらず顔を見せていたのに気付いたのは偶然でした。不思議に思って開けてしまった私の後ろからひょいと覗き込んだ兵長は「よく描けてるだろう」と耳元でそう言いました。飛び上るほど驚いて、顔を真っ赤にしてしまった私に兵長は珍しく口角を少し上げて鳥の絵を見せてくれたのです。彼は絵も上手いのかと感心していると「モブリットがよくこういうのを描いている」と教えてくれて「たまに交換している」とまで教えてくれました。兵長の絵と交換できるだなんて、モブリットさんは何て羨ましいんでしょうか。思わずいいなあと呟いてしまった私に、兵長は眉を寄せて「……やる」と鳥の絵を差し出してくれました。どうやら勘違いをさせてしまったようです。慌てて、「兵長の! 絵がいいです!」と叫んでしまえば、眉間の皺はそこに川が流れてそのうち町が形成されてしまうんじゃないかと心配になるほど深くなったのを覚えています。ふざけているのかと凄まれて、けれど私が本気だとわかると、兵長は難しい顔のまま、また抽斗を開けました。几帳面な他の部屋のどことも違って乱雑に仕舞われている紙の中から適当な物を取り出して、私にもそれを渡します。

「お前も描け。交換するんだろう?」

それはまさかの言葉でした。兵長と、交換出来る! 私はあまり絵は得意じゃありませんでしたが、兵長の顔なら見ないでもいつでも瞼の裏に思い描けます。
――この時の私は何て大それたことを思いついてしまったのでしょうか。自分でも自分がよくわかりません。
きっと突然のことに驚いて、緊張して、嬉しくて、ものすごく浮かれていたのだと思います。一心不乱に紙に向かう私の前で、兵長もガリガリと何かを描き始めました。しばらくして描き終えて渡した渾身の作に、兵長はしばらく何も言ってはくれませんでした。

「……………………俺か」
「はい!」

満面の笑顔で答えた私を、許されるなら殴りたい。けれども何も言わず差し出された兵長の絵を、受け取ってすぐに上にしたり下にしたり、斜めに持ち替えて検分した後の私も、大概なことを言ってしまっていました。

「……あっ。クソですか!? 兵長がよく使う言葉の」
「お前だ」
「え」

やはりさっきの私より、これを言わせてしまった私の方を、より殴りたいかもしれません。
兵長の絵心も雑然とした抽斗の中身も、そういう経緯で私は知ったのでした。

箱の中の兵長が、取り出した紙面を手に椅子に腰かけ、目尻の皺を深くしました。

(兵長)

最近の彼は、あの頃に比べると随分表情が豊かです。ずっと眉間を寄せている時間も少なくなって――それでも笑顔というわけではないですが――彼の中で何かが確実に変わっているのだと見ている私にもわかります。
その手が紙面を持ち上げました。窓から射し込む太陽の光が柔らかくそこを照らします。

(あ)

私は思わずその場に立ち上がりました。
彼の手にあるのは、あの日、私が描いた絵でした。改めて見てもちょっと酷い若かりし頃の兵長の顔が描かれたものです。黒髪とクラバットと、そんなに寄ってないよと私が自分でつっこみたいほど寄らせた眉間と、熱い紅茶を飲んでいる兵長をイメージしたのか唇を尖らせてカップに口を寄せようとしているという酷い絵です。その横に、私がもらって汚物を描いたのだと勘違いした『私』の絵もありました。
奇しくも兵長の手の中で、太陽の光の下、私と彼が寄り添うようにいるのです。

「……トラ」

彼の口から出た名前に、私のとうに動かなくなっているはずの心臓が、ドクン、と音を立てました。

「……まあ、確かに、これはクソだが」

私だと言った絵を皺くちゃの兵長の指先が撫でます。まるでそこにいるかのように、頬がざわりと音を立てました。

「おまえの描いた俺もなかなかクソだろう」

クツクツと喉を震わせる兵長に、私の心も震わされます。
兵長。兵長、知っていますか。私はここでずっとあなたを見ていました。見ている事しか出来ないけれど、それでも、あなたを想っていました。その顔を、もっと近くで見たかった。あなたに「そんなことないです」なんて言ってみたかった。兵長、何でそんなもの今まで持っているんですか。私の貰ったその紙は、確か父の手に渡ったはずです。そこまでは見ました。この部屋で。
それを、いつの間にあなたが持っていたんです? どうやって? それは映っていませんでした。私が見逃したのでしょうか。オルオと話していた時に? もしかしたらニファと目配せをしていた時かも。いやいや、巨人の子がこの部屋にやってきたのを目で追った時かもしれません。
どんな経緯を辿ったのかわからないそれが、けれども確かに今、彼の手の中にあります。

彼はそれをよく取り出しては、懐かしそうに愛おしそうに見つめて、話しかけているようでした。流れる映像は途切れがちになり、声もだいぶ聞こえなくなり、その感覚が少しずつ少しずつ短くなって。
それから間もなく、彼の場面が途切れました。

(……行かなきゃ)

そろそろ私も次の部屋へいかなければなりません。もう一緒に来た人達の姿はなく、後から来た人達も多くが先へ行き、私はずいぶん長いこと、この部屋に居すぎているのだとわかっていました。
何度箱を見つめても、そこは何も映し出しません。私のことも。兵長のことも。すべては終わったことだからでしょう。
私の前から箱がだんだんとその輪郭を曖昧にして、それからとうとうなくなって、私は立てていた膝を抱き締めました。額をつけて目蓋を閉じれば、そこに彼の姿が浮かぶような気になります。

(兵長。……リヴァイ兵長)

会いたいです。もう一度。呼びたいです。呼ばれたいです。それだけでいいから。きっと私が見ていた頃よりずっと穏やかな瞳をしているあなたの目を見て、その中が少しでも晴れているのを確認したいです。それから我が儘を言うならちょっとだけ。箱の中で見てきた年を重ねたその皺を、指先でそっと触れてみたいです。何しやがると言ってほしいです。クソがでもこの際いいです。

(……行かなきゃ)

わかっているのです。それはあり得ないことだなんて。
私の世界は終わりました。あそこで、あの時に、何の余韻もなくはっきりと。だから次へ行くのです。私はようやく重たい腰を上げました。気がつけば真っ白な部屋の中に、私はたった一人でした。箱もなくなり、奥のドアしか見えません。思考がぼんやりと霞がかって、そこに向かう為の足が一歩、前に進んだその時。

「――ラ」

え、と足が止まりました。そんなはずありません。ここには私しかいないのです。でも、私がその声を聞き間違えるはずもありません。

「ペトラ」

もう一度、今度ははっきり聞こえた声に私は自分でも驚くくらい鈍い動作で振り向きました。

「何でお前がまだここにいやがる」

呆れているような怒っているような口調でそう言ったのは兵長でした。兵長。リヴァイ兵長。どうして。何で。聞きかけて、彼の映像が終わっていたことに気づきます。

「俺を待ってたのか」
「……っ」

その姿は箱の中のものではなく、私の、私が傍にいた頃の彼でした。
一歩、また一歩とこちらへ近づいている彼は、相変わらず眉間に縦の皺を刻んで私を真っ直ぐ見つめています。
ずっと、その目に映りたかった。

「聞いてんのか。何か言え」

話しかけてほしかった。

「……ペトラ?」

名前を呼んでほしかった。

言葉が出てこない私を訝しむように、目の前で立ち止まった兵長が手を伸ばします。その親指がぐいっと私の頬を拭う動きになって、私は初めて自分が泣いているのだと気がつきました。あの日、初めて兵長に泥汚れを拭ってもらった情景が胸の中に溢れだして、涙が次から次へと溢れ落ちます。
兵長は眉を寄せて、しばらく私の頬を拭ってくれましたが、次第に面倒臭くなったのでしょう。クラバットを引き抜いて、乱暴に私の顔全体を擦り出しました。

「泣くな。何なんだお前は。いつもそうだ。何か言いたいことがあるなら言え。顔芸で伝えた気になってんじゃねえ。言え。もう全部聞いてやれる」

そんな言い方ずるいです。顔芸ってひどい。何ですかそれ。そんなこと言われても、言葉が溢れすぎて声にならないってわかってるくせに。

「ペトラ」

兵長がクラバットで私の鼻を小さな子供にするみたいに擦り上げ、両手で頬を挟まれました。そう身長の変わらない兵長の顔がものすごく近くて、私は思わず一歩後退ります。けれども兵長も一歩前に進むから、私達の距離は変わりません。

「……お前の言いたいことは何だ。言え。俺は――俺もずっとお前に聞きたかったことがある」

兵長が、私に? いつも私の言葉を待って、視線で、態度で応えてくれていた兵長が、私に何を聞きたかったというのでしょう。兵長の顔が近いせいで、やっと止まった涙が落ちるのを待って、私はしっかりと兵長を見つめました。久し振りに見た彼は、綺麗な黒髪で目の下のクマが凄くて、眉間にはしっかりと縦皺が刻まれていて、それに、あの灰青色の不思議な色の瞳の奥から私の知っている澱の揺らぎは見当たりません。代わりに、初めて見る炎が見えるようです。
その炎に捕らわれて、私の心臓がトクントクンと鳴り始めました。

「ペトラ。お前は」

兵長の瞳から焼ききれるかと思うほどの熱が流れ込んでくるようで、私は動けなくなっています。
逃がさないとばかりに私を覗き込む兵長が、ふ、と表情を緩めました。
その瞳の中に、澱ではなく、切なさと苦さと、それから私の初めて見る欲を滲ませた色を湛えて、そこに私をしっかりと留めて。

「お前は、俺を好きだっただろう?」
「す――っ」

答えなんて絶対あなたは知っているくせに。
私の絶叫が声になってしまう前に、人生最大の顔芸で答えてしまった私に、あなたは初めて私に笑ってくれたのでした。


【END】


巨大樹の森以降、自分の辿ってきた道と、自分がいなくなってからの道を見続けて色々思い出したり考えたりするペトラの話。
デキてないリヴァペトで、両片想いぽいイメージです。