幸せのパーツ 「兵長はご結婚されないんですか?」 「あぁ?」 午後の柔らかい陽射しが、木陰の合間を縫うように優しく降り注ぐ。 初夏を思わせる緑を多く含んだ風が、ざわりっと音を立てて木の葉を揺らした。 妙にぼんやりとした思考を自覚しながら空を見上げようとした矢先、三人掛けのベンチに微妙な隙間を開けて隣り合ったペトラから問われた台詞を受けて、リヴァイは思い切り眉を寄せて横を見た。 「もう、そんな怖い顔しないでくださいよ」 「うるせえ。この顔は生まれつきだ」 「ウソですよ、兵長、寝顔はものすごく可愛いじゃないですか」 新兵の頃は、それこそ目が合っただけで何かを覚悟するように固まっていたくせに、くすくすと笑いながら返すまで成長されてしまった。可愛いの判断基準に大きな隔たりを感じはするが、本気でそう思っているらしいペトラには、きっと何を言っても無駄だろう。 最初はもっと従順なだけの兵士かと思っていたはずなのに、意外と負けず嫌いで芯の強い女だと知るだけの時間は充分に経っている。 「……ンなわけあるか。気持ち悪いこと言ってんじゃねえよ」 呆れたようにそう言って溜息をひとつ。 何が楽しいのか、ペトラはやはり肩を揺らしながら、そんなリヴァイの横で笑っている。 そうして身体を少しだけこちらに向けて、また同じ質問を繰り返した。 「それで、兵長はご結婚はされないんですか?」 「……その質問の意図はなんだ」 笑顔のまま、けれど今度は少しだけ真剣な口調でそう問われ、リヴァイは組んでいた腕を解いた。 疑わしげに横目で睨むと、ペトラはさも心外だといわんばかりに唇を尖らせる。 「そのまんまですよ。リヴァイ兵長といえば、人類最強の兵士で私達の英雄で、あなたに憧れて調査兵団を希望する者だって多かった。私の同期にも何人もいたんですよ?」 「……」 「それに、やっぱり兵長は格好良いじゃないですか」 黙したリヴァイに、ペトラは少しだけ身を乗り出すようにして力説した。 それを今言うのかと思いながらペトラを見遣ると、意外にも真っ直ぐな視線がリヴァイを射抜いていて、微かに緊張で喉が震えそうになる。誤魔化すように目を眇めて、リヴァイはふんと鼻を鳴らした。 「お前がそう思っていたとは初耳だ」 「思ってましたよ。初めて会ったときからずっと」 そんなリヴァイの態度に臆さず、えへへ、とはにかむペトラの表情は蕾が柔らかく綻ぶようで、人類に捧げたはずの心臓の、もっとずっと奥の部分がぎゅっと掴まれたように鈍い痛みを訴える。 その言葉は初めてでも、その表情はリヴァイの良く知ったペトラの笑顔とまるで違わない。 かつて、旧調査兵団本部の無駄に広い中庭に置かれた古びたベンチで隣り合ったあの時も、ペトラは屈託のない笑顔を幾度も向けてくれていた。同じように自分を見つめていたその視線の先でも、そんなことを思っていたのか。 頭の端に過ぎった光景が、リヴァイの中に喩えようのない感情を広げる。 どれだけ時間が経とうと薄れないこの想いだけはどうしようもないと、リヴァイはとうに諦めていた。 ほのかな甘さが胸を焦がして、埋めることの出来ない穴の中で滲み出る苦さを思い知らされる。 「……そんな顔しないで下さい」 自分がどんな顔をしているのかはわからなかったが、目前のペトラがそう言って困ったように眉を下げた。 苦笑の中に見え隠れするその彼女の感情こそ、透けて見えるようだ。 むしろそれはこちらの台詞だと喉元まで出掛かって、リヴァイの眉間が深くなる。 そんな顔をさせたかったわけじゃない。 少しだけ考えるように視線をずらして、リヴァイはベンチの背に腕を掛けた。 「……初めて―――ということはアレか。お前が空中に小便撒き散らしたと」 「ぎゃあああああっ!!! ストップ! ストップ兵長! ちょ、今それ言うところですかっ!」 ペトラをペトラと認識したのは実際はもう少し前ではあったが、敢えて明確な時期を告げたリヴァイの口は、がっちりと物凄い勢いで塞がれてしまった。あったはずの隙間に片膝を立てたペトラが必死の形相で迫っている。 気持ちを殺し損ねた顔よりよほど生き生きしてみえた。 「今も何も」 「もおおおおう、いいですからあぁっ!」 兵団の中では割と有名な話だが、誰しもが面と向かって言わないのは、おそらく他人事と笑い飛ばせない現実をその身を以って十二分に理解しているからだ。 とはいえ漏らした本人にすれば、単なる恥辱の黒歴史に他ならない。 真っ赤な顔で、折角の愛らしい顔立ちをパーツが狂ったのかと言いたくなるほど歪めて怒鳴るペトラに、リヴァイはくっと喉を鳴らした。 「わ、笑うとか酷い!」 「笑ってねえよ。口塞がれて息が詰まっただけだ」 「……しれっと嘘つくのやめて下さい」 手首を取ると、大人しくリヴァイの口から手を離したペトラが、唸るように上目遣いで睨んでくる。 命令には従順だが、意思の強さと負けん気の強さが覗く凛とした碧い瞳を見返しながら、リヴァイは話を戻した。 「―――で、それと俺の結婚に何の関係がある」 「ですから」 ともすればその視線に吸い込まれそうになるのを、取った手に指を絡めて誤魔化しながら聞けば、ペトラはやはり困ったように眦を下げた。 それでもその手を払うでもなく、逡巡した末にそっと指を絡め返されて、リヴァイの胸が奥で小さな軋みを上げる。 「せっかくモテるのに、そろそろ誰かと結婚して幸せになって、……そういうことを考えてもいいんじゃないのかなと思いまして」 もう巨人もいないんですし、と笑った顔が寂しげに見えていることは、きっとペトラは気づいていないに違いない。 相変わらず何でもすぐに顔に出ると思いながら、リヴァイ絡めた指のその付け根に少しだけ力を入れて言った。 「相手がいねえだろ」 第一、自分の幸せを考えて生きてきたことは一度もない。 人類の存続の為に、繁栄の為だけに心臓を捧げると誓った身だ。 それを今更心臓に自由を与えられても、結婚だ幸せだと問われたところで、気の置けない仲間の多くが既にリヴァイの側にない。 わかっているだろうに、ペトラはやはり困ったように肩を竦めて微笑して見せた。 「相手になりたい人はいっぱいいると思いますけど」 「相手に出来る奴がいねえっつってんだ」 「兵長、意外と理想が高いんですね」 「悪いか」 望みで言うなら遥か高みだという自覚はある。 何せもう二度と触れられない女を求めているのだ。 「超大型巨人なんか目じゃねぇぞ」 そらとぼけた態度で不遜に言い放てば、真意をわかっているのかいないのか、目の前でくすくすと笑い出したペトラに目を細めて、リヴァイはそっとその頬に触れた。一瞬びくりと緊張に身体を震わせたペトラが、まごつきながら、それでも不慣れなままで甘えるように摺り寄せてくる懐かしい感覚に、リヴァイは無意識に奥歯を噛みしめる。 ――――わかっている。 ――――これは夢か幻だ。 もういないことを知っている。 目が醒めれば覚えていない逢瀬かもしれないとわかっている。 それでもペトラといる今を、この時の許すまで手放すまいとしてしまう自分の女々しさを嗤いながら、リヴァイは微笑を浮かべて目を伏せている彼女を見つめた。 恨み辛みを挙げ連ねるでもなく、ただリヴァイの幸せを願うペトラには悪いが、どれだけ人類の希望足りえても、彼女のいう幸せとやらは、どうやっても叶えてやれそうにない。 「でもリヴァイ兵長なら駆逐できちゃいますよきっと」 「何だそれ」 「巨人より遥か高みの理想の人も!」 「駆逐すんのか。マズイだろ。幸せの真逆人生しか見えてこねえよ」 「ちがっ! きっと出逢えるって意味ですよもうっ」 「…………」 「……で、兵長はどういう女性がお好きなんですか?」 ふふ、と笑いながら、そう言ってペトラは頬に触れるリヴァイの手に自分の手を重ねた。 こんな近い距離で交わす会話としては甘さが随分不足している気がしてならない。 「ペトラよ……。お前、そんなに俺に幸せな結婚とやらをして欲しいのか」 リヴァイが結婚に憧れを抱いたことはない。 ペトラのいうそれは、むしろペトラ自身の幸せの延長線上にあったはずだ。 「ええと……」 リヴァイの問いに伏した瞳を薄く開けて、ペトラが言葉を探すように苦笑した。 けれどもリヴァイには向けられないその視線がひどくもどかしくて、リヴァイはやや乱暴にペトラの顎を持ち上げる。 「お前の知らない女と?」 「―――」 「本気でそれがお前の望みか?」 ペトラが小さく息を呑んだ。 随分久し振りに合った瞳は戸惑うように大きく揺れて、リヴァイをひたと見つめている。 時間にすればほんの数瞬、絡んだ視線は泣きそうな色を湛えて、けれどもペトラはまたリヴァイから視線を逃がすと、頬にかけられていた手をそっと外した。壊れ物でも扱うようにリヴァイの手を両手で包む。 何かを決意するように一度瞼を下ろし、それからゆっくりとまたリヴァイに視線を合わせた。 「私は、リヴァイ兵長が幸せなら、すごく幸せなので……」 だから望みます、と続けながら、えへへと笑うペトラは、だがリヴァイには確かに泣いて見えた。 手放すことも、叶えてやることも出来なかった自分に、それでも幸せを願うペトラは、今も―――あの頃から変わらない。 本当にどこがいいんだと膝を交えてじっくり問い質してやりたくなるほど真っ直ぐに、リヴァイを想い、リヴァイが幸せになることを願っている。 「そうか」 けれどもリヴァイは、同じようには返してやれない。 ペトラの意思に頷きながら、自分の望みとは対極だなと改めて思い知らされた。 彼女の幸せを願ってなお、傍に置いた自身のエゴを今更なかったことにしてやれるほど、純粋なペトラのようにはなれそうにない。それはリヴァイ自身が一番よく理解している。 そうだ。ペトラが自分の知らない男となど、土台無理に決まっている。 「ペトラ」 「……はい?」 ペトラの存在を確かめるようにじっと見つめて名を呼ぶと、ペトラが僅かに顎を引いた。それすら逃すまいと眼光を強めて、リヴァイは自由になるもう一方で自分の膝に片肘を立てた。 「……お前、俺に全てを捧げるって親父さんに書いたんだってな」 「へ?……あ!」 「俺に」 「や、あの、ちょ……、へ、へいちょう」 「全てを捧げんのか」 頬杖をついて斜に見上げてそう言えば、まさかそれを指摘されるとは思っていなかったのだろうペトラの顔が赤く染まった。瞼を伏せてしばらく視線をさまよわせながら、口元をパクパクとさせている。ついでにリヴァイの片手も放したペトラは、両手を顔の前で行ったり来たりと大忙しだ。 リヴァイはその左胸を、とん、と人差し指でさし示した。 「人類に捧げた心臓も俺のものか」 「――――アレは! そのっ、お父さん―――いえ、えっと、父がまさかのフライングで……。わ、私もまさかあんな形で暴露されるとか……その……あれは……ええと……、ですね……!」 「惚気てたって?」 「ぎゃああっ! 何ですか! 何なんですかっ! 死人に鞭打って楽しいですか!!!」 「なわけねえだろ。……そもそも死人とか言ってんじゃねえよ。お前、どんだけサラッと人の傷口抉る気だ」 飛び退らんばかりの勢いに負けじと言い返せば、ペトラがぐっと息を呑むのがわかった。 「……も、申し訳ありませんでした」 「まったくだ」 「すみませ――」 「自分の言葉に責任を持て」 叱責に肩を落とすペトラを引いて額を合わせる。 驚いて大きな目をぱちりと瞬かせるペトラはやはり記憶の中に鮮明なままで、リヴァイはぐっと眦を細めた。 ペトラの碧い瞳の中に、見慣れた自分の顔が映りこんでいる。背後に見える雲一つない晴天の空が瞳の色と混じりあい、その境界は不透明だ。 あの日の薄く開いた彼女の瞳に、意思ではなく映されていた色が否応なしに思い出される。 目の前にある存在をこのままずっと見つめていたいと思うのに、押し殺してきた感情が溢れ出すのを耐えるようにリヴァイの瞼を震わせた。 逆らえずに視界を閉じて、ペトラの腕を取る手に力を籠める。 「……捧げたんならお前は俺のもんだろが。今更つべこべ言ってんじゃねえよ」 他の女も、幸せも結婚もどうでもいい。 ペトラの腕を掴む手が抑えようもなく震えているのを自覚しながらの台詞は、自分の耳にも笑えるくらいただの男の懇願になった。かつての人類最強が聞いて呆れると内心で悪態を吐いて、それでも、遅すぎる今だからこそ言えた言葉はどこまでもリヴァイの本音でしかない。 「―――でも、私は、あなたに幸せに……なって、欲しいんです。兵長……だから……」 ペトラの声が震えている。 気がつけば、掴んだペトラの腕が、自分よりもふるふると震えているのが掌から伝わって、リヴァイはそっと目を開けた。 今はここにある自分を映すペトラの大きな碧い瞳が、決壊ギリギリの涙を湛えて溢れそうになっている。 「リヴァイ兵長は、だから――」 「待ってろ」 幸せを願うなら、大人しく待て。 ペトラのいう幸せが自分の望みと違っても知るかと内心で完全に毒づいて、リヴァイは更に強く腕を引いた。 身長はそう変わらないはずなのに、自分の胸に簡単に納まってしまう細い身体を抱き締めて髪を掻き乱し、離すまいと力を籠める。 「必ず、俺がお前を見つけてやる。絶対だ」 どんな姿でどこにいようと、どんな立場でどう出会おうと、ペトラを見間違えることは決してない。 どれだけ時間が過ぎようと、どれほど風景が変わろうと、リヴァイの中に色づくペトラの輪郭がこれまでずっと色褪せないでいるように、それは願いというより確信だった。 今リヴァイの腕に感じる懐かしい重みや温もりが全部都合の良い夢だとしても、ペトラがどれだけ自分を捨てろと願っても、この思いだけは譲るつもりなど毛頭ない。 「………っ…」 ペトラからくぐもった声が聞こえた。 聞き取りにくいのはリヴァイが強く胸に抱いているからだとわかっているが、解放してやる気にはならず、代わりに耳朶に低く囁く。 「聞いてんのか」 「……、です、か」 息を詰めるようなペトラに、仕方なしに少しだけ腕を緩めてやれば、リヴァイの肩口で彼女が小刻みに息を吐き出すのがわかった。言葉にならない息声がリヴァイの鼓膜を震わせて、ようやく細い音になる。 「いいんですか……」 「あ?」 「……ま、待っちゃいますよ?」 「馬鹿か」 くだらない疑問を一蹴して、リヴァイはがっしりとペトラの両頬を強く掴んだ。 鼻先を合わせてもどかしい吐息の所在を確かめるように早口に告げる。 「待ってろ。二度言わせるな。他で妥協できるなら最初から俺はお前を選んでねえよ」 ペトラの澄んだ瞳が見る間に潤んで、溢れた涙が指を濡らす。そうしてわななく唇が何度も何度も小さくごめんなさいと呟いて、ぎゅっと閉じた瞼から長い睫毛の間を通ってリヴァイの胸を締め付けた。 「……謝るな。お前は何も悪くない」 また懇願のような声になる。 泣かせたいわけじゃない。本当はずっと笑顔でいさせてやりたかった。 望めるならば、自分の傍で。 「……ふっ、す、すみませ……」 「ペトラ」 必死で涙を堪えようと息を詰まらせる姿に胸が詰まる。 リヴァイはぐしぐしと擦りあげたペトラの拳を制して、泣くなと言っても止まらないらしい涙の跡に唇を寄せた。 そうすればまた謝罪の言葉を紡ぎだしそうな予感に、唇も奪う。 「―――ん、……ょう、へいちょ……っ」 震える口唇を割って歯列をなぞり、惑う舌を絡め取れば、ペトラの細い指がリヴァイを呼びながら確かめるように頬に伸びた。 互いに求めすぎて呼吸の合わないキスがもどかしく、何度目かで歯が当たり、リヴァイは焦れたようにペトラを掻き抱いた。 稚拙といっても差し支えないキスのせいで、呼吸は乱れて息苦しい。けれども抱き合った身体が溶けそうなくらいに求めている。応えるように回されたペトラの指先も、いつの間にか痛いほどにリヴァイの背に食い込んでいた。 求めているのが自分だけではないとわかるその痛さが愛しくて、年甲斐もなくどうにかなってしまいそうだ。 「待ってろ」 「……っ」 今度は出来るだけ優しく囁いてやるつもりが、掠れていて全く様にならなかった。 けれども声にならないペトラが何度も腕の中で頷いて、熱くせり上がるもので眩暈がする。 押し潰されそうな夜を幾度も越えて、ようやく交わせた約束が、柄にもなくリヴァイの瞼を熱く奮わせた。 今ではない遠いどこかで、けれども果たすことを許された約束がここにある。 次に目を開ける朝が、その一歩に繋がるのだと思えば夜を越えるのが少しはマシになりそうだ。 この背に回されたペトラの腕と、強く抱き締めた体温がいつまでも身体に深く刻まれるようにと願いは尽きない。 リヴァイは知らず滲み始めた視界の中で、引き寄せられる未来を感じて、ペトラをきつく抱き締めた。 【END】 こんな感じで、というかもう早く目覚めて転生リヴァペトで幸せになってくださいと土下座の勢いです。ちなみにこの中のペトラは原作寄りの金髪碧眼でイメージしています。いろんなところでいろんな方の幸せ転生話を読んでは身悶えて切なくなって身悶えて身悶えての無限ループ。切なくても甘くてもたまんないですが、もう本当リヴァペトに幸あれ! 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