発展途上のいとしさを。




―――それは、ほんの一瞬の残像。


廊下の先に俺を見つけたペトラが、傍目にもはっきりとわかるほどに相好を崩して駆け寄ってくる。その姿はいつものことで、それを気にかけるでもなく、けれども歩調を緩めて追いつかれるのを待つようになったのもそう遠い話じゃない。
兵長、と呼んだ唇があと少しでもう一度同じ言葉を紡ぐ前に、無粋なドアがその行方を遮った。

「きゃ―――」
「うわっ、ごめんペトラ!」

小さな悲鳴でそれが誰か判じたようだ。
顔を見る前に謝罪と共に名前を呼んで、慌てたようにハンジがペトラに視線を下ろした。

「……あ、ハンジさん!」
「あーごめんごめん、まさかいると思わなくて! おでこ打ってない?」

大丈夫です、と言いながら額を押さえていれば、ペトラの嘘はすぐバレる。
奴等より少しだけ距離のある俺の耳にすらゴンと打ち付ける音が聞こえたくらいだ。ドアノブを回したハンジには、鈍く伝う振動と共に届いたことだろう。

「わー、本当ごめん!……ちょっと赤くなっちゃってるね」

案の定ペトラの額を覗き込むようにして、ハンジが隠すように押さえていた彼女の手を取った。
長身の膝を屈めて腰を折り、兵団の中でも小柄な彼女に目線を合わせて慌てる姿は、お世辞にも格好良いものではない。だがむしろ形振り構わず心配している様が伝わって、見る者が違えば、人柄の良さと映るだろう。
ハンジ・ゾエはそういう奴だ。
奇人変人と呼ばれる調査兵団の中において、一際異彩を放つ――といえば聞こえは良いが、俺からすれば食えない奇行種に他ならない。
ひたひたと額の打ち身には関係のない頬やら顎やらを、いかにも心配そうに触れる距離が近いというのに、ペトラにそれを意識させない自然さがより奇行種足りえて、妙に落ち着かない気分にさせられる。

「大丈夫です。こちらこそ急に声を出したりしてすみませんでした」
「ううん、私が急に開けたからだよ! 本当に―――……ペトラ?」

しかしペトラの見方は違うようで、屈んでもなお自分より高い位置にいるハンジをちらりと目線だけで見上げると、ふふ、と小さな声を漏らした。
額の具合を確かめていた奴が、訝しげにペトラを見つめて小首を傾げる。
そのせいでより互いの顔が近くなったが、やはりペトラは気にする素振りも見せずに肩をくすくすと揺らすだけだ。

「ペトラ? どうかした?」
「……あ、すみません。なんか……ハンジさんの方が痛そうな顔してるなあと思ったらつい」
「―――……」

本当に大丈夫なんですよ?と眉を下げて親しげに笑う顔が奴と近い。
ハンジが僅かに目を瞠った。
―――ああ、やったな、と本能が告げる。
理解できなかったのは、たぶんこの場でペトラだけだったことだろう。
心配だけで触れていたはずの指先が、別の意思を持ったのが見えた。

「ハンジさん?」
「―――ちょっと腫れてる」
「え?―――わ、ハ、ハンジさんっ?」

額に置いた右手が上に動いて、奴の唇が露になったそこに触れた。
驚いたように目を丸くしたペトラが、瞬く間に頬を染める。
けれども意図を確かめるかのように逃げ出さないのを、苦笑と愛しさと、―――苦味に隠した甘い痛みを宿した瞳が見下ろしている。まるで真っ当な人間のような顔で見下ろされたペトラは、少しだけ不安げに表情を揺らした。
気づいたハンジがふっと目元を和らげた。が、それに反して、眼差しの強さがじわりと強まる。

「ごめんね。痕になったら責任取るよ」
「あの、ハンジさん―――?」
「ペトラ」

瞳に潜むその熱にペトラが気づくより早く、俺は彼女の名前を呼んだ。

「兵長!」

ただそれだけで、体も意識も、ペトラを形作る全てがこちらに向けられたのがわかる。
迷いのないベクトルで向きを変えた彼女に抵抗しないハンジの手から、奪うように体を滑らせ、奴の触れた前髪に触れた。そのままゆっくりと横に流して額を見つめる。

「痛むか」

屈む必要のないのをいいことに、奴よりずっと近い位置で視線を戻して合わせれば、ペトラが真っ赤に染まった顔で息を飲むのが見えた。
ハンジが彼女を気にかけてるのは知っていた。
俺の後ろをいつでも追ってくる姿に、可愛いよねと言われたことも、羨ましいなあと言われたことも片手では足りない。
けれどもその言葉の中に、色めいたものはおそらくなかった。だから許せていたのだ。この距離くらいは。

だが、今は。

「だ、大丈夫、です……」
「そうか」

額に唇を触れさせてはいない。
代わりに親指の腹で、もう何の所為かわからない赤い額にそっと触れる。
ペトラの大きな瞳が、やわやわと薄い膜を湛え始めたのを認めて、最後にその瞳ごと額を覆うように手を乗せた。

「……気をつけろ」

その言葉は低く、怜悧に、そして甘く。
奪った視界以外の箇所から、ペトラの奥に滲むように。
滲んで沁みて、他の誰にも俺のものだと知らしめるように。
それでもまだ背中越しに注がれる熱い視線の一片足りとも、ペトラに触れることを阻むように。

口元を微かに震えさせたペトラが、はい、と囁くように頷いたのを確認して、くんと彼女の腕を引いた。
急に再開した視界の自由と入り込む明るさに目を瞬かせたペトラがよろめいて、反射で動いた奴の手が伸ばされる前に、その肩を寄せて支えてやる。行くぞ、と促せば、大人しく並んだペトラが首だけ奴の方を向いた。

「ハンジさん、失礼します!」
「……うん。ペトラ、またね〜」
「はい、また!」

ひらひらと手を振って答えるハンジに、屈託ない笑顔でぺこりと頭を下げたペトラは、まるで気づいていないようだ。
いつもどおりを装って明るく細めた目の奥が、どんな熱を帯び始めてしまったのかを。その熱の向かう先を。
その意味も何もかもを――――まだ。

また、はない。
そんな機会を誰がくれてやるものか。
みすみすこの距離をくれてやるほど、俺は人が良くは出来てない。

「また、ね。リヴァイ」

すれ違い様、ペトラに注いでいた感情とは瞬時に色を変えたハンジの視線と交錯する。

(……クソが)

それは、ほんの一瞬の残像。
瞬きの間に、人好きのする明るさを瞳に取り戻し、ひらりひらりと指先を揺らす。
けれども挑戦的に煌めいた眼に宿ったその感情に、気づかないふりはもう出来ない。


*****


廊下を曲がる二人の背中が完全に見えなくなってから、ギギ、と遠慮がちに開けられたドアに、私は振り返らずに頬を緩めた。

「いやー、いいもん見たなあ」
「……分隊長」

私の代わりにまとめた書類を山と持ったモブリットが、恨めし気な声で呼ぶ。
それにようやく振り返ると、目の下に色濃い疲れを宿した顔が、苦虫を噛み潰したような表情でこちらを見ていた。
ドアの向こうに隠れていても、彼の気配にあてられたのかも。

「さっきの! マジ削がれそうだったよね、モブリット!」
「出るに出られませんでした。……少しは自重して下さいよ」
「無理無理! だってペトラすんごい可愛いんだもん。見た? あの反応!」
「だから俺は出るに出られなかったんですってば」
「ああ、そっか。残念!」

書類の上からバンバンと叩いて、あの可愛さを見逃したモブリットに同情を示す。
あれは可愛い。ペトラはいつも可愛いとは思っていたけど、あの上目遣いは反則的に可愛かった。
彼が横で面白いくらいの殺気を放っていなければ、額ではなく首筋に顔を埋めさせてもらっていたかもしれない。そうすれば、おそらく驚いたペトラは「ハンジさん!?」と私の名前を呼びながら、それでも突き放しはしないだろう。それが親しさと信頼の証だとわかるからこその、くすぐったいような嬉しさと、物足りなさを胸の端に感じさせる。
恐怖で泣かせたいわけでも、怯えさせたいわけでもないのに、違う種類の慌てた様も欲しいと思ってしまうのは、いつもいつも彼女のすぐ傍で、簡単にその表情を引き出してしまうリヴァイを見てきたからかもしれないなと思う。
微笑ましくも献身的な恋心に、まさか彼が絆される経過を見られるなんて、と面白おかしく観察していたつもりが、とんだミイラ取りになったものだ。すっかり落ちた彼の後で、絆され始めるなんて思わなかった。

「……本気ですか?」

叩いた所為でズレた書類を直しながらのその台詞は、何をとは一切触れていない。
私の行為も、リヴァイの牽制も、ドアの後ろで見えていないはずなのに、気づいたモブリットの聡さは本当に素晴らしい。
こういう男がペトラに惚れたら、リヴァイもさぞかし肝を冷やすに違いないと思うけど、こういう男は、わざわざ人類最強の見え透いた相手に横恋慕はしないだろうから、これは無駄な想像だ。
そういう私も彼女を可愛いと思いこそすれ、横恋慕をしているつもりはさらさらない。まだ。

「んー?」
「……ハンジさん」

そらとぼけたつもりではなく出た相槌のような返事に、モブリットが少しだけ語気を強めた。
それに思わず苦笑して、二人の行く先とは逆方向にある私達の実験室へと足を向ける。
半歩遅れてついて来るモブリットの無言の足音に答えを求められて、私はへらりと笑いながら正直な気持ちを口にした。

「どうだろうなあ」
「どうって―――」

呆れたようなモブリットには、我が事ながら全面的に同意する。
だけどもこれは本当に嘘じゃないから仕方がないんだ。

「可愛いのは本当。好きだし、幸せになって欲しいっていうのも本当だ。けど―――」
「けど?」
「あの子を困らせてまで奪いたいわけじゃないんだよね」

恐怖で泣かせたいわけでも、怯えさせたいわけでもない。
傷つけるのも、傷つけられるのも、敢えて見たいと望むほど、私は人が悪くない。
困るなあ困ったよなあこれはどういう感情かな、と肩越しに振り返ってみると、モブリットは何とも言えない顔をしていた。

「まあでも、どうかなあ……う〜ん……。あの顔面筋肉痛みたいなおっさんに愛想を尽かして求めてくれるなら、心臓以外は全部あの子のものにしてもいいかなー、なぁんて」
「……それって、結構本気ですよね」
「そう? そうかなあ? まだそんなでもないと思うけど」

はは、と笑って肩を竦めれば、モブリットが盛大な溜息を吐いたのがわかった。
胃が痛い、と情けない声で呟く彼は苦労性だなと思わずにはいられない。
だってそうだろう? まだ始まってすらいないのに。

「そんなに先読みで考えてたら、モブリットは胃に穴が開きそうだよね」
「先読みさせる言動を取るあなたが言いますか……」
「だってペトラが可愛かったんだってば! あれはヤバいね! モブリットだったらうっかり押し倒して、その瞬間に削がれてたね!」
「しませんよ! あの人のでしょう!?」
「だからしてないってー、まだ」
「まだとか言わない!」

軽口での応酬に、ぶつぶつと胃薬の残存数を呟き始めた彼に労いの意を篭めて、上から半分くらいの書類を取った。
ついでに可愛い部下の頭をわしゃわしゃと撫でてやる。
大丈夫だよ、モブリット。
求められるのを待っていられる内は、動くつもりはないんだから。
たとえあなたの隣でも、あの子が幸せそうに笑っていれば、それなりに心が満たされる。


だから、リヴァイ。
私が本気になる前に、さっさとあの子のものになれ。


【END】


がっつり攻めるじゃなくて、うっかり攻めるハンジさんも好きです。
ハンペトでもモブハンでも、たぶんモブリットは苦労性というマイ脳内設定。
そして兵長はがっつりターン。ペトラがんばれ!笑
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