つなわたりの境界線 「あーもー! 何でこんなになるまで飲んでるんですか分隊長!」
押しても揺すっても唸り声しか出さないハンジにぐでんと寄り掛かられながら、モブリットが悲鳴を上げる。 目と耳に馴染みすぎた光景だ。 酔っ払いのわかりやすい襲撃に耐えながら、引き摺るようにして食堂の出口へ向かう彼を追って、ペトラはドアを支えて苦笑した。 「ありがとうペトラ。リヴァイ兵長も、ご迷惑をお掛けして、本当にすみませんでした」 「あの、ハンジさん……おぶった方が楽じゃないですか……?」 長身を縮ませて頭を下げるモブリットに、ペトラは声を掛けた。 女性とはいえ小柄とはいえない人間を、背中から脇を抱えて引き摺るのは大変だろうに。 そう思ってのことだったのだが、モブリットは困ったように眉を下げて、真剣な口調で首を横に振った。 「いや……。この方が分隊長には安全なんだ」 「安全?」 「……前にこいつがそれをしたら、途中でエビ反って頭から落ちやがったんだよソイツは」 「エ、エビ反り!?」 疑問に答えたのはリヴァイだった。 腕を組んでペトラの隣に立ちながら、モブリットの動かし方が最善だと言い放つ。 確かに立体機動では柔軟性が求められるが、それは柔軟すぎやしないか。ありえない姿勢で地面に打ち付けられたハンジと、自分の背中からまさかの落下に叫ぶモブリットの姿が簡単に浮かんでしまい、ペトラはありったけの同情をこめて彼を見上げた。 そういうことなら仕方がない。 まるで訓練兵時代に運んだ、巨人を模した木偶のような運び方でも、最大限の配慮の結果だ。 ペトラの言わんとしていることが伝わったらしいモブリットは頷いて、ハンジをもう一度引き摺りやすい位置まで抱え直すように揺さぶると、「自分はこれで失礼します」と、腰に重点を移したままでリヴァイに頭を下げた。 明かりの落ちた誰もいない廊下に、ずりりずりりと重たいものの引き摺られる音が遠ざかっていく。 何かいけない現場に立ち会ってしまった雰囲気に見えなくもないが、これでハンジは一安心だ。 「―――で、お前は何でまだここにいる」 「え?」 ほっと息をついたペトラは、同じように見送っていたはずのリヴァイから唐突にそう問われて、隣を見た。 「先に寝てろと言ったはずだが」 思ったよりも近い位置にあったリヴァイの顔に、つい十数分前の出来事が思い出されて、思わず後退ってしまった。 額を押さえそうになったのだけは辛うじて踏み止まって、しかし背中がドアに当たる。 ペトラは睨み据えてくるリヴァイの視線からさり気なく逸らして言った。 「さすがにハンジさんをあのまま放ってはいけなかったので……申し訳ありません! あ、でも片付けも終わりましたし、もう戻りますね。兵長も―――」 「ちっ。遅くなると危ねえだろが……」 「―――はい?」 途中で遮る舌打ちに続いたリヴァイの言葉に、ペトラは耳を疑った。 聞き間違えたかとリヴァイにそっと視線を戻すと、思い切り眉間に皺を寄せながら自分を睨む彼と目が合ってしまった。 その不機嫌の理由が、上官の命に従わなかったことなのか、それとも別の何かに起因しているのかはわからない。 けれどもわかりかけていることは―――― 「危……ない、ですか? え、あの……」 「真夜中だろうが」 「ですが、その、兵団敷地内ですし」 「お前が一人で外を歩く事実が何か変わんのか」 「隣ですよ……っ!」 ――――リヴァイはやはり酔っているのかもしれない、ということだ。 そうでなければ調査兵団敷地内、それも食堂が併設されたこの本部から、徒歩五分と離れていない女子兵舎までの距離で、誰がそんな心配をするものか。例えば何かにつけて心配してくれる実の父親ですら、この状況でしない心配だということははっきりとわかる。 しかしペトラの真っ当な主張にもまるで動じることなく、少し考えるように瞼を伏せたリヴァイは、ややあってペトラに右手を差し出してきた。 「あの……?」 「戻るんじゃねえのか」 「はい、戻りますけど―――、て、へ、兵長!?」 意味がわからず見下ろしたリヴァイの手が、ペトラの左手を掴んだ。 驚いて声を上げると同時に、もう一方の手に口をとん、と塞がれる。流れるような動きで壁とリヴァイに挟まれて、ペトラは思考ごと固まってしまった。リヴァイの凄む視線がものすごく近い。 「……でけえ声を出すな。人が来たらどうする」 「〜〜〜〜っ!」 来たら不味いことなど何もなかった。今、この瞬間までは。 舌打ちでもしそうな眉間の皺には甘さの欠片もないいつものリヴァイのはずなのに、耳に届く顰めた声がやけに艶めいて聞こえるのは、アルコールのせいだろうか。手を掴まれ、口を塞ぐリヴァイの自分より大きな掌から、尋常じゃない熱が一気にペトラの全身を駆け抜ける。 「声は抑えろ。……いいな?」 「……っ」 ほとんど耳朶につくほどの距離で囁かれて、ペトラは必死に首を小刻みに振った。 抑えます。抑えますから離れて下さいお願いします! いっそ泣きそうな気持ちで頷くペトラの口から、ようやくリヴァイの手が離れた。けれども左手は繋がれたままだ。 その手を引かれて、ペトラはもつれそうな足で、つられたように歩き出す。 「行くぞ」 「ど、どこに……」 「戻るんだろが」 「そうですけ、ど―――……」 素気無く返された背中を見つめて、ペトラはリヴァイの向かう方向にハッとした。 このまま行けば、兵団庁舎の玄関になる。夜道は危険だとおかしなことを言っていた彼は、まさか自分を送るつもりか。きっとそうに違いない。その結論に行き着いて、ペトラは慌てて先行くリヴァイの手を引いた。 大声を出しそうになるのを必死で抑え、足を踏ん張る。 「だだだだいじょうぶです! 一人で戻れますから、兵長!」 怪訝な顔で振り向いたリヴァイは、しかし手を離してはくれずに、睨むようにペトラを見た。 顰めた眉で、噛んで含めるようにゆっくりと口を開く。 「……だから、夜中の一人歩きは危険だっつってんだろが」 「調査兵団所属の兵士ですよ、大丈夫です!」 「ざけんな。女に代わりがあんのか」 「お、おん……っ、き、巨人のうなじも削げる女ですよ……っ」 「ブレードも持ってねえくせに何言ってやがる」 「わかりました。許可を頂ければ装着して戻りますからっ」 「馬鹿か。武器庫の方が断然遠い」 武器庫は本部の裏手にある。ぐるりと外を回るにしても、裏手から最短を行ったとしても、そこからペトラの兵舎まで行けば、本部正面から出るより遥かに遠回りだ。その通りだ。その通りだが、そういうことじゃない。 吐き捨てるように言ったリヴァイを負けじと見つめ返しながら、ペトラは自分の心臓が否応にも早まってしまうのを自覚していた。 妙に冷静な判断を下す彼の口調はよどみなく、まるで平素と変わらなく見えるから性質が悪い。酔っているくせにと思っても、繋がれた手も射るような視線も、何もかもがリヴァイ自身で、ともすれば勘違いをしそうになるではないか。 もしかするともしかして、―――リヴァイの中で自分の存在が少しだけ特別な感情を抱かせているのかもしれない、なんて。 ありえない妄想だ。ペトラはそう考えてしまった自分を内心で思い切り叱咤した。 実力は認めてもらっている。調査の際、班員として随行できる機会は格段に増えた。 視界に入れて、名前を覚えて呼んでもらえて、共に自由へと歩を進める以上に幸せなことはないと、ペトラは本気で思っている。 背負うもののたくさんある彼が、少しでも煩わされなくて良いように、微風のようなものだとしても露を払う手助けになりたい。 その為の風が彼の背中を押すのではなく、例え僅かだったとしても行く手を阻むものになっては駄目だ。 だから、時折湧き出してしまうこの感情は、リヴァイの背中にだけ注ぐとずっと心に決めている。 「……ペトラよ」 「は、はい」 「俺はこのままお前を一人で帰す気はねえ」 「はい……?」 だというのに、何なのだ、とペトラは軽く意識が遠のきそうになった。 素面の女心を弄んでいるとしか思えない台詞は、一切の甘い響きはなく、むしろ任務の概要を淡々と伝えられる時に似ていて二の句が繋げない。目を逸らしたら負けのような睨み合いもまるで甘い雰囲気はなく、それなのに掴まれている手を彼の親指の腹で何度もゆっくりとなぞられて、ペトラの喉が無意識に鳴った。 駄目だペトラ。勘違いするな。兵長に絶対他意はない。 外見に合わず実は年長の彼のことだ。ずっと歳下の女性兵士など須らく頼りなさを感じてしまうに違いない。実際兵力でいえばその通りだし、体格に恵まれているとはいえない外見も、酔った視界では輪をかけてそう見えてしまうのだろう。そうだ。そうに違いない。父性溢れるようには見えなくても、もしかしたら娘を思う父親の心境に似た類の心配をされている。きっとそうだ。だから、そんな台詞も口をついてしまうに違いない―― ペトラは自分に言い聞かせるように何度も内心でそう繰り返して、リヴァイに掴まれたままの手を引き抜こうと力を入れた。 「あの、リヴァイ兵長、本当に私は大丈夫ですので―――」 「……強情な奴だな」 しかしそう言ったリヴァイに返す力で手を引かれ、廊下の壁に背中が当たる。 右手はやはり繋がれたまま、いやそれよりも指を絡ませられて、より密着度は高まっていた。 壁につかれたもう一方の拳が自分の頬のすぐ傍にあるのを視界の端で捉えて、ペトラは思わずリヴァイの胸を押し返した。 「ち、父はしません!」 「……当たり前だ。俺はお前の親父じゃねえぞ」 酔ってんのか、と僅かに首を傾げたリヴァイに耳元で囁かれて、ペトラは心臓が止まるかと思った。 兵服の上からでもはっきりとわかる胸板の厚さに、この距離が現実だと突きつけられて指が震える。 「へ、兵長―――」 「そんなに外が嫌か」 「離してくださ」 「仕方ねえ。今日はこっちに泊まってけ」 「……は? え、あの、こっちって……」 「俺の部屋だ」 「!?」 考えもしなかったリヴァイの言葉に、ペトラは思わず口を開けた。 兵長は絶対に酔っている! 噛み合わなすぎる会話の帰結で、僅かな疑念は完全にペトラの中で確信に変わった。 これは駄目だ。本当に駄目だ。リヴァイにすれば、単なる厚意の進言に過ぎないのだろうが、一部下に掛ける言葉にしては親身になりすぎて聞こえてしまう。わかっていてもリヴァイの真っ直ぐな視線に射抜かれて、煩く騒ぎ出す心臓の音が耳につく。 答えのないペトラに何を思ったのか、息を吐いたリヴァイから「……ベッドを使わせてやる」と付け足されて、ペトラは慌てて我に返った。 「ままままずいですよ!それは駄目です!」 「何がだ」 「兵長の―――お部屋に、こんな時間に私がお邪魔することです……!」 「かまうな。夜道に放り出すよりマシだ」 「夜道って、敷地内―――……兵長、本当に、そんなことをされて、もし、おかしな噂が……」 立たないとも言い切れない。 人類最強と謳われるリヴァイ自身に面と向かっての揶揄や誹謗は勿論限りなく少ないだろうが、それでも何かの折に彼の耳に入らないとも限らない。そうして立った根も葉もない噂話が、いつどこで彼の足を引っ張る種に使われるかわからないのだ。その原因が自分であることが絶対に嫌だ。 縋るような視線を向けてしまったペトラを一瞥したリヴァイが、何故か剣呑に声を低めて、絡めた指先に僅かな力をこめてきた。 「……マズい相手でも?」 壁についた拳を解いて、けれども壁との間で解放はせずに、ペトラの顔にかかる髪を掬う。 凄まれているのだと辛うじて理解はできたが、それよりも耳朶に入り込んできたリヴァイの声に背筋が思い切り粟立ってしまう。 逃げを許さない強い視線に囚われながら、ペトラは僅かに首を横に振った。 「……私ではなく、リヴァイ兵長にご迷惑がかかります」 少し声が震えてしまったかもしれない。 毅然と見つめ返したつもりの先で、リヴァイの指が確かめるようにペトラの唇をつとなぞった。 それからやっとで、壁に寄せたペトラから少し距離をあけるように半歩下がる。 「なら、いい。余計な心配をするな」 「ですが―――!」 「ペトラ」 咄嗟に反論し掛けたペトラを、リヴァイの声が鋭く制した。 反射的に身を竦めてしまうのは兵士としての規律が体に染みこんでいるからだ。 敬礼までいかなかったのは、単に右手を捕らわれているからに過ぎない。 それを十分理解しているであろうリヴァイが、それでもピクリと跳ねてしまったペトラの右手を持ち上げた。 絡めた指先をするりと解き、まとめた指先を下から掬うように持ち直すと唇を寄せる。 「―――へい、ちょ……」 中指に、薄く開いた唇から零れた吐息が触れて、言葉が途切れる。 いくらなんでもやりすぎですよと言いたいのに声にならない。 こんな場面を本当に誰かに見られたら、部屋に私なんかを入れたらダメです、朝起きて後悔するのは兵長です、ハンジさんのこと言えませんよ、離して下さい、戻ります―――― 浮かぶ言葉が幾度も口を素通りして、触れられている指の先から溶けて消える。 その全てを飲み込むように、指先に小さな音を立てて軽く吸わせたリヴァイが、もう一度ゆっくりと五指を絡め直してペトラを見つめた。 「……ペトラ」 今度の呼び掛けは、囁くような甘さをもってするりとペトラの耳に落ちた。 けれどもリヴァイに飲まれてしまった声は、まだ戻ってきてくれそうにない。 「黙って俺について来い」 有無を言わせぬ強さでそう命令されて、答える前に引かれた手に、後をついて行くしかペトラに出来そうなことはなかった。 【end】 酔った兵長で壁ドンがしたかった。 壁ドンからの指絡めと、指先にキスと、Rじゃないのに「声を抑えろ」とかとんちんかんな会話であわあわするペトラが書きたかった、というお話でした。この兵長に記憶があったら最悪だ。笑 お持ち帰りペトラは、何だかんだで抱き枕にされつつぐっすり眠っちゃって、翌朝リヴァイが「……」となればいいと思います。 モブハンのその後はきっとハンジさんの研究室(?)でモブリットが力尽きて倒れこむ、みたいな。笑 お付き合いありがとうございましたー! |