夜に溶けて、朝に滲む




初めて肌を合わせた日のことを、今でも鮮明に覚えている。

基本的に眠りの浅い彼の、珍しく深く寝入っているらしい寝顔がすぐそこにある。
隣ですっぽりとシーツに包まりながらそんな事を考えてしまったのは、おそらくあの日もこんな寝顔を見つめたからだとペトラは思った。

切欠は日常の延長だった。

リヴァイに随行したシーナで少し離れた隙をつくように、憲兵団に関係を揶揄された―――それだけだ。
討伐の精鋭部隊である調査兵団としては小柄で年若いペトラが、リヴァイの班に指名されることが多くなればなるほど、成果を上げれば上げるほど、巨人の脅威とは掛け離れた場所からの好奇の視線は強くなる。
暇という仮初めの余裕に胡坐を掻いているような輩の言葉に、耳を傾けるつもりは毛頭なかった。
ペトラ自身についてなら、もう慣れたといっていい。
色目を使って生き残っていられるほど甘い世界なら良かったのにね、と鼻で笑える。
どう下種な勘繰りをされようが、事実リヴァイとの間には何もないのだ。
音もなく降り積もる雪のように、実は募っていたのだと知ることになる自分の想いにさえ、まだはっきりとした自覚もなかった頃の話だ。
けれどもその自覚のないままに、あの日ペトラの理性が焼き切れたのは、揶揄の矛先がリヴァイに向けられたせいだった。
まるで女を囲って好き放題やらかしているかのような物言いに、全身が総毛立ったことまで思い出して、ペトラの身体がリヴァイの腕の中で知らず強張る。

「……、…」

それはほんの僅かな動きだったが、タイミング良く浅い息を漏らしたリヴァイに慌てて、ペトラはそっと様子を窺った。
が、どうやら起こしてしまったわけではないらしい。
ほっと胸を撫で下ろして、ペトラはゆるゆると緊張を解いた。
時計は背中の壁にある為正確にはわからないが、リヴァイと過ごした時間と、それに窓からカーテン越しに薄く差し込む月明かりの柔らかさから想像はつく。
真夜中は過ぎて、明け方には早い。身支度を整えるより二度寝が許される頃合だ。
独りでは少し冷たく感じる薄青い部屋の空気が、リヴァイの黒髪の溶ける様を眺めるだけで、淡く優しい空間に見えてくるから不思議だ。
改めてリヴァイの寝顔を見つめながら、こんな御褒美のような時間にふと目覚めたことを感謝した。
体温が二人を覆うシーツの布地越しに伝わって、肌寒いはずの初秋でも暖かい。

腕は痺れたりしていないだろうか。
いつの間にか枕に乗せられていた自分の頭と首の隙間を埋めるように回されているリヴァイの腕が心配になる。が、抜け出そうとすれば途端に不機嫌になるリヴァイを知ってしまってから、ペトラは大人しくすると決めていた。例え至近距離でいつからか自分を見つめていた青灰色の瞳とかち合った朝に、飛び上がりそうになるほど心臓が早鐘を打ったとしても、だ。
この行為が、ペトラに対しリヴァイが見せる僅かな独占欲だとわかるから嬉しい。
過去も未来も関係なく、今この時リヴァイに求められていることが嬉しい―――そう思ってしまう程度には、いつの間にかペトラの中でリヴァイに対する独占欲が育ってきてしまったのを自覚している。

(……まいったなあ)

あの憲兵団員の顔は、今となってはおぼろげだ。
そもそも平手ではなく、体重を乗せたペトラの強烈な拳による一撃を受けて後ろに吹っ飛んだ男は、女に殴られていたくプライドを傷つけられたらしい。つい数瞬前まで食事でもどうだと誘った相手の胸倉を捻り上げてくるくらいのご立腹さに、殴られても決して目をそらしてやるものかと顎を上げたペトラだったが、その拳がペトラに振り下ろされることはなかった。
ペトラ、と後ろから低く呼ばれた名前に、どちらともなく身体が揺れた。「何をしてる」と問われて血の気が引いたのは男よりも、ペトラの方だったのは間違いない。
シーナで、憲兵団を相手に問題を起こせばどうなるかなんて、今時新兵でもわかる。
尊敬する上官を侮辱されて、という事実は言い訳にしかならない。
結局のところ、ペトラが傍に居たせいで立ったリヴァイへの中傷を、ペトラ自身で火に油を注いでしまったに他ならないのだ。

胸倉を掴まれたまま「へいちょう……」と振り返った自分は、さぞ情けない顔をしていたことだろう。
眠っていても薄く皺の刻まれた彼の眉間が、動揺するペトラにもわかるほど寄せられるのを確かに見た。
ツカツカと無言で歩み寄ってきたリヴァイから、示しの一発を覚悟して目を瞑ったペトラは、しかし腰をぐっと引き寄せられて瞠目した。驚いて声を上げるより早く、眼前の男が先程とはまるで比較にならない飛距離で後ろに跳ね飛ぶ。
もう一度「何してると聞いてんだろが」と低く問われ、泣きそうな気分で事の経緯を説明しようとしたペトラを、しかしリヴァイが遮った。

いや。正確には、首筋に寄せられたリヴァイの唇に、声が出なかったというのが正しい。
派手な音を立てて転がった男も、何に対してか判然としない表情で目を白黒させて地べたからこちらを凝視していた。
それがペトラにではなく、男に向けての質問だったと理解する頃には、見せつけるように少し痛みを感じさせる強さでペトラのそこを食んだリヴァイがの「近ぇだろが」と言った呼気が当たり、一瞬で何も考えられなくなった。
だから、その後この件がどう処分されたのか、ペトラは実は今でもよくわかっていない。
一兵のペトラだけでなくリヴァイ自身が絡んだせいで、案の定大事になってしまった感はあるが、だからこそエルヴィンやナイルが手を打ってくれたのだろうとは思っているし、やってきたハンジが「ありゃりゃー」と困った様子のまるでない口調で嘯いたのは覚えている。が、それだけだ。

衆目にあらぬ誤解を与えたのは自分が挑発に乗った所為だと取り乱してしまったペトラは「……事実なら問題ねえな」と言ったリヴァイに全てを暴かれた。
尊敬と、気づかされた恋情の境界で惑う心も、緊張と期待で溢れそうになる感情も、何もかも。
不安で恥ずかしくて、少し怖くて―――けれども嫌だとは思わなくて。
それが全てだ。
そうと教えてくれたのがリヴァイなら、ペトラはもう認めるしかないではないか。
それでも邪魔にだけはならないように。
こんな世界だ。いつでも切り捨てられる覚悟だけはしていようと心に誓った。

決して無理強いはしないのに強引で、強烈な甘さの滲む行為に翻弄されて、抱き寄せられて眠りに落ちた明け方のことだ。
今のように、不意に覚醒した先で、まだ判然としない眼で見つめたリヴァイの寝顔だけが、はっきりとペトラの意識の奥を刺激した。
ああ、私、兵長を―――この人をとても好きだ。
その瞬間、感情がすとんと胸に落ちて、ペトラの視界がぐにゃりと滲む。
愛しすぎて泣けてしまうなんて、ずっと他人事だと思っていたのに。

リヴァイが望んでくれるというなら、心臓以外の全てはまるごと捧げられる。
その想いは果てることなく、今となっては望まれたいと欲が出るほどに、ペトラの心を占めきっている。
ペトラは一度ゆっくりと瞬いて、宵の空気に馴染むリヴァイの寝顔を、視線だけでそっとなぞった。

(兵長……)

誰かの手が、あんなに優しく触れることが出来るのだと初めて知った。
唇だけで泣かされるなんて思わなかった。
想いが、言葉に出来ずとも、吐息に溶ける様を見た。
瞳が、思いのほか雄弁なことにも初めて気づいた。

リヴァイの手で、視線で、吐息で、ペトラの知らないペトラがリヴァイのものに変わっていく。

(……でも)

もぞり、と細心の注意を払って左手を伸ばす。
触れるか触れないかの距離で指先を遊ばせながら、心の中で問いかける。

(今は、今だけは、兵長も―――)

夜と朝の狭間の静謐な気配の中で、ペトラの唇が小さく動く。

「……私のもの、でいいですか?」

呼気に紛れるような囁きは、リヴァイに届く前に融けそうに掠れた。
起きている時には絶対に言えないはずの言葉は、懇願のような響きにも似て、ペトラは随分大それた事を言ってしまったと恥ずかしくなる。

(―――な、なーんて……)

胸中で思わず撤回を試みたのと、戻しかけていたペトラの手首が取られたのは同時だった。
熟睡しているとばかり思っていたリヴァイが、薄らと開けた瞼を震わせながらこちらを見ていた。
驚きすぎて張り付いてしまった悲鳴が、ごくりとペトラの喉を鳴らす。
彼はいつ起きたのだろう。今の言葉は聞かれただろうか。
文字通りの半眼が、覚醒しきっていないことを祈りつつ、ペトラはおそるおそるリヴァイを呼んだ。

「へ、兵長……?」
「……まだ、朝じゃねえだろ」
「はい、まだ、大丈夫です」
「……なら寝ろ」

まだ睡魔の方が強そうな口調で言ったリヴァイが、ペトラの手首をようやく離す。
そのままスライドさせた手で髪をくしゃりと撫でられて心臓が跳ねたが、どうやら一番の懸念は払拭されたらしい。
安堵と共に「はい」と紡ぎかけたペトラの唇に、しかしリヴァイの指が落ちて、出掛けた音が止められた。

「ペトラ」

名前と同時に、呼んだリヴァイの唇が綿菓子を食むように柔らかくペトラのそこに触れて、今度はぐいと抱き寄せられた。
シーツの中、直に触れる体温の範囲が急速に広がる。
首の間に差し込まれていたリヴァイの左腕が曲げられ、逃がすまいとするかのようにペトラのむき出しの肩に触れる。
外気に晒していたせいで、他より体温の低くなっていたそこに触れる掌は、同じように冷たいはずなのに何故か熱く感じられて、じわりと鼓動が速くなる。

「あ、あの……っ、へい、ちょう?」

耐え切れず身体を捩れば、リヴァイの手が肩から耳朶に移動した。
頬にかかる髪を器用に掬って耳に掻け、ほとんどペトラに覆い被さるくらいの姿勢に変わる。
熱い吐息が耳朶をくすぐり、リヴァイの鼻が触れているのがわかるのに、言葉を待つより他にペトラには術がない。
自分の心臓が後ろの壁に掛けられた時計の針より正確なリズムを刻む音が聞こえる。
リヴァイがその姿勢のままで、一度大きく息を吸い込んだ。

「……り前の事を、聞いてんじゃ、ねえ……」

吐き出すついでのように乗せられた言葉を最後に、耳元に聞こえるリヴァイの吐息が規則正しくなっていく。
ようやく再びの眠りに落ちたらしい彼の体がペトラの上に重みを増した。
リヴァイの腕越しに揺れて見える差し込む月明かりが、先程よりもゆらりゆらりと柔らかさを増して見える。

(……もう、兵長)

朝が少しずつ近づいているのだ。
まだ早い、でも確実に。
そうとわかるのに、寄せられた体の熱に浮かされて、ペトラは少しだけいつもより大胆な動きでリヴァイの下から両腕を引き抜いた。
そっと自分を抱くリヴァイの首に腕を回す。
こんな中途半端な姿勢は苦しいだろうに、リヴァイの身体はぴくりともしない。
夜の気配を纏う黒髪に、ペトラは指を滑り込ませた。

(朝になっても、私、部屋に戻れないじゃないですか……)

くしゃりと撫でれば、癖のないリヴァイの髪がするすると指の間に零れていく。
どうしよう。好きだ。好きだ。
好きが溢れて、愛しい気持ちが止められない。

(兵長……)

欲されたいと望んでしまう自分の欲深さにも気づかされて、ペトラは甘く切ない胸の痛みに、ぐにゃりと歪み始めた視界を閉じた。
きゅう、と鳴る音が聞こえるなんて、きっと信じてはもらえないだろう。
押し出すように零れた滴が睫毛を濡らして、瞼の奥がじんわりと熱い。

「……だいすき、です……」

ひそりと彼の寝息に紛れるように、空気だけを震わせて、慎重に唇だけでそう告げる。
寝入っているのを呼吸のリズムで確かめながら、ペトラはもう一度リヴァイの頭をやわりと撫でて、起こさないように、けれども少しだけ強く自分の方へと抱き寄せた。
と、納まりの良い場所を探してだろう。ほとんど俯せの姿勢のリヴァイが、回した腕に力をこめてペトラを自分に引き寄せる。
そうされるとより密着した体温に、ペトラの胸がもう一度きゅうと鳴る音がした。

朝になれば二人に戻るこの温もりも、この時だけは自分のものだ。
甘い独占欲に胸を満たして、ペトラはリヴァイを抱きながら、本当の朝が来るまで、意識をそっと手放したのだった。


【END】


最初は可哀想な憲兵団員(♂)事件から、ペトラの無意識だだ漏れ恋心を認めさせたい兵長@我慢できない三十路も妄想していたんですが、長くなりそうだったので割愛&挫折。
モブ憲兵君を殴って問題起こしてすみません、と半泣きで謝り倒すペトラに「手ぇ出すなら俺にしとけ」とか、なかなか気持ちを認められないペトラが逃げられないように壁ドンしつつ、やや強引攻めで「嫌なら拒め。そうじゃねえなら―――いい加減認めろ」とか、自分の気持ちに気づいちゃった途端まともに兵長の顔を見れなくなって「……す、好き……、みたい、です……」とか真っ赤な顔で途切れ途切れに告白されて、ウォール理性を突破される兵長を誰がください。ください(大事なことだから二回言う)。お願いします(土下座)。
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